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春になり、担任する学年も変わりました。
いい雰囲気で、新年度のすがすがしさを感じつつ、一仕事を終えた気分の午後、昼下がり。
いよいよ月曜日からは入学式、というので、準備万端、です。
わたしも新しいクラスの名簿を取りそろえたり、掲示物を改めたりと、なかなか忙しくしていたのですが、いろいろが終わってホッといたしました。
そして、ちょっと気分転換に、新しい階のトイレを、たまたま見に行った。
すると、驚いたことに、
男子小便器の上の壁に、でかでかと張りだした紙が目に飛び込んできた。
1階には、こんな貼り紙、なかったぞ。
おそるべきその張り紙 ↓↓↓
「??」
意味が分からないとは、まさに、このこと。
その横には、
「(トリプルはきけんなので、ぜったいにやめてください)」
と、小さな文字で、弱弱しく書き足してある。
トリプルの方の字は、もう紙の端ぎりぎりなので、えんぴつ文字があぶなっかしく、落っこちそうな具合に書き足してある。
どういうことか、お分かりだろうか。
わたし、5秒かかったけど、理解したよ。
昨年、このトイレで、いったいどんな事件が起きていたのか・・・。
その後、わたしはもう、当時の様子を、まるでテレビの再現VTRを見ているかのように、ありありと脳裡に浮かび上がらせてイメージしてしまった。
つまり、ここで、男子の数人が、一度に一つの小便器に向かって、同時に用を足していたのである。
そのことを、
個人の小用
でなく、
(個人+個人)の小用
であるから、ダブルのしっこ、と呼んだのである。
わかった??
まだイメージすることのできない、想像力貧困な奥ゆかしい方のためにもう少し補足すると、
一つの小便器 ← 同時に用を足す ← 男子のちんちん×2本
ということ、であります。
これをば、小学生男子(おそらく50%ほどまじめで、50%ほど愉快なタイプの子)の、小学生の文学的表現を借りて言いますと、
ダブルしっこ
という言葉で言い表されることになるのでありました。
(たぶん、5分休みに、小便器が3つしかなくて、全体の人数に対して不足しており、・・・早く、早くしてよ、もっちゃうからッ!! たのむ、ダブルでやらせて!! おう、いいよっ。急いでッ! ということなんだろう。それで、たぶんこぼして、床がよごれるんだろう、と思う)
霞が関には霞が関の、文学と言い回し、があるように、
小学校には小学校の、文学と言い回し、があるのです。
そういえば、子どもは勝手に、自分とその周囲の数人にしか通じないような、勝手な言葉を作り出す。
※1・・・まるかんは、「丸缶」で、給食の丸い形の食缶のこと。この丸い食缶のおかずが無くなり、クラス全体の「おかわり」が終了すると、デザートを食べてよいことになっていたので、「丸缶」+「デザートタイム」が縮まり、「丸缶タイム」になった、と思われる。
※2・・・「中休み」を縮めて、「み」だけを言わない。
※3・・・今のサッカーボールはデザインも豊かで色もバラエティに富んでいる。昔ながらのデザインのものは、白い六角形と黒い五角形の合成パターンですが、それが、黒いゴマをふりかけた感じがする、ということのようで、ごまボール、それが縮まって、ごまボー。教室に2つしかないボールのうち、どちらも「サッカーボール」と呼んでいるのでは不自由なので、とりあえず命名したらしい。
私たちはマスコミの作り出した言葉に依存し、世間に通用する(とされている)言語を使って生きることを強制されてきたようなもので、考えてみれば、不自由この上ない。
私はこのブログで、勝手な言葉をいろいろと書いてきた。
なぜなら、世間に、その意味を示す最適な言葉がないからで、新たに言葉をつくりだすしかなかった。
そして、それは、通じるコミュニティの住人に対して、効果的に通じればいいだけの話。広い世間に無理して迎合する必要もないしね。
たとえば、脅迫教育、という言葉。
そして、風呂育、という言葉。
言葉があるから、その概念が、発達していく。
人に使われ、人に理解され、人がその言葉によって、行動や思考をつくりあげていく。
その過程で、どんどんとまた、言葉自体がこなれていくのだ。
必要でしょう?
風呂育、という言葉もネ。
だって、その言葉が無けりゃ、話できないン・・・。
(※あとで、風呂育はリンナイが使ってたことが分かりました。ちょっと違うニュアンスで・・・)
他にも、説明のできないような、ある種の子どもの状態、様子を表すのに、言葉をみつけることに苦労する時があるんだヨ。そういうのを書こうとするんだが、そのたび
ああ、自分は説明が下手だな・・・
と思ってきましたが、
ということか、と。
さ、みなさん!!
勝手に、市民としての、言葉をつくっちゃいましょう!
だって、言葉って、それだけエネルギーがあるもの。
例を挙げると、
霞が関の方がよく使う、原発の「安全性」という言葉を使わないで、
原発の「危険性」という言葉に変えていくだけで、
世の中の価値観は変わっていくようにも思うね。
「原発の安全性について言えばですね・・・」と人が言うのを聞くと、ああ、安全のことを言うんだな、と気楽に思っちまう。
だが、
「原発の危険性について言えばですね・・・」となれば、お、危険について言うのかな、と身構える。
でも、意味合いとしては、どちらも、
どのくらい安全でどのくらい危険か
ということを意味しようとしている言葉だよね。「安全性」も「危険性」も・・・。
言葉を、えらぼうよ。
使う言葉を、本当に使いたいようにして、使おうよ。
そうしていくうちに、自分が本当に願っていることを、世間依存の言葉でなく、私の言葉として、きちんといえるようになる。
ほかにも例えば、
甘えさせてダメにすることを「スポイル」といって、否定的に表現するけど、甘え⇒ダメ、という短絡思考に落ちたようなひどい言葉だから、この言葉も、変えよう。きちんと言いたいことを言えて、甘えることができて自立し始める健康な育ちを「逆スポイル」と言えばいいかなぁ・・・??
いや・・・、なんだかまだ否定的だ。
まだ、これまでの言葉に依存している。
「逆スポイル」だなんて。
ダメ。ふらふらしている言葉だ。
ほーら。
スポイルの逆で、甘えを肯定的に指す言葉が、無いでしょう?世間には?
世間に、これから必要とされていくような言葉って、まだまだ不足気味なんでしょうか・・・。
春になり、担任する学年も変わりました。
いい雰囲気で、新年度のすがすがしさを感じつつ、一仕事を終えた気分の午後、昼下がり。
いよいよ月曜日からは入学式、というので、準備万端、です。
わたしも新しいクラスの名簿を取りそろえたり、掲示物を改めたりと、なかなか忙しくしていたのですが、いろいろが終わってホッといたしました。
そして、ちょっと気分転換に、新しい階のトイレを、たまたま見に行った。
すると、驚いたことに、
男子小便器の上の壁に、でかでかと張りだした紙が目に飛び込んできた。
1階には、こんな貼り紙、なかったぞ。
おそるべきその張り紙 ↓↓↓
「ダブルしっこは、やめてください」
「??」
意味が分からないとは、まさに、このこと。
その横には、
「(トリプルはきけんなので、ぜったいにやめてください)」
と、小さな文字で、弱弱しく書き足してある。
トリプルの方の字は、もう紙の端ぎりぎりなので、えんぴつ文字があぶなっかしく、落っこちそうな具合に書き足してある。
どういうことか、お分かりだろうか。
わたし、5秒かかったけど、理解したよ。
昨年、このトイレで、いったいどんな事件が起きていたのか・・・。
その後、わたしはもう、当時の様子を、まるでテレビの再現VTRを見ているかのように、ありありと脳裡に浮かび上がらせてイメージしてしまった。
つまり、ここで、男子の数人が、一度に一つの小便器に向かって、同時に用を足していたのである。
そのことを、
個人の小用
でなく、
(個人+個人)の小用
であるから、ダブルのしっこ、と呼んだのである。
わかった??
まだイメージすることのできない、
一つの小便器 ← 同時に用を足す ← 男子のちんちん×2本
ということ、であります。
これをば、小学生男子(おそらく50%ほどまじめで、50%ほど愉快なタイプの子)の、小学生の文学的表現を借りて言いますと、
ダブルしっこ
という言葉で言い表されることになるのでありました。
(たぶん、5分休みに、小便器が3つしかなくて、全体の人数に対して不足しており、・・・早く、早くしてよ、もっちゃうからッ!! たのむ、ダブルでやらせて!! おう、いいよっ。急いでッ! ということなんだろう。それで、たぶんこぼして、床がよごれるんだろう、と思う)
霞が関には霞が関の、文学と言い回し、があるように、
小学校には小学校の、文学と言い回し、があるのです。
そういえば、子どもは勝手に、自分とその周囲の数人にしか通じないような、勝手な言葉を作り出す。
○まるかんたいむ(※1) ⇒ 給食で、デザートを食べてよい時間のこと。
用途)「先生!まるかんたいむになったから、デザート食べていいでしょう?」
○さらぴかだんご ⇒ 土団子に白砂をかぶせて、完成形に達した状態の、ぜったいに誰も触ってはいけない保管状態の土だんご。
○なかやす(※2) ⇒ 2時間目と3時間目の間の、20分休みのこと。
○ゴマボー(※3) ⇒ サッカーボールの、黒と白の(昔ながらの)デザインのボール。
※1・・・まるかんは、「丸缶」で、給食の丸い形の食缶のこと。この丸い食缶のおかずが無くなり、クラス全体の「おかわり」が終了すると、デザートを食べてよいことになっていたので、「丸缶」+「デザートタイム」が縮まり、「丸缶タイム」になった、と思われる。
※2・・・「中休み」を縮めて、「み」だけを言わない。
※3・・・今のサッカーボールはデザインも豊かで色もバラエティに富んでいる。昔ながらのデザインのものは、白い六角形と黒い五角形の合成パターンですが、それが、黒いゴマをふりかけた感じがする、ということのようで、ごまボール、それが縮まって、ごまボー。教室に2つしかないボールのうち、どちらも「サッカーボール」と呼んでいるのでは不自由なので、とりあえず命名したらしい。
私たちはマスコミの作り出した言葉に依存し、世間に通用する(とされている)言語を使って生きることを強制されてきたようなもので、考えてみれば、不自由この上ない。
私はこのブログで、勝手な言葉をいろいろと書いてきた。
なぜなら、世間に、その意味を示す最適な言葉がないからで、新たに言葉をつくりだすしかなかった。
そして、それは、通じるコミュニティの住人に対して、効果的に通じればいいだけの話。広い世間に無理して迎合する必要もないしね。
たとえば、脅迫教育、という言葉。
そして、風呂育、という言葉。
言葉があるから、その概念が、発達していく。
人に使われ、人に理解され、人がその言葉によって、行動や思考をつくりあげていく。
その過程で、どんどんとまた、言葉自体がこなれていくのだ。
必要でしょう?
風呂育、という言葉もネ。
だって、その言葉が無けりゃ、話できないン・・・。
(※あとで、風呂育はリンナイが使ってたことが分かりました。ちょっと違うニュアンスで・・・)
他にも、説明のできないような、ある種の子どもの状態、様子を表すのに、言葉をみつけることに苦労する時があるんだヨ。そういうのを書こうとするんだが、そのたび
ああ、自分は説明が下手だな・・・
と思ってきましたが、
ああ、そうか。
世間に、その概念がないんだから、自分で言葉を作っちまえば早いな。
ということか、と。
さ、みなさん!!
勝手に、市民としての、言葉をつくっちゃいましょう!
だって、言葉って、それだけエネルギーがあるもの。
例を挙げると、
霞が関の方がよく使う、原発の「安全性」という言葉を使わないで、
原発の「危険性」という言葉に変えていくだけで、
世の中の価値観は変わっていくようにも思うね。
「原発の安全性について言えばですね・・・」と人が言うのを聞くと、ああ、安全のことを言うんだな、と気楽に思っちまう。
だが、
「原発の危険性について言えばですね・・・」となれば、お、危険について言うのかな、と身構える。
でも、意味合いとしては、どちらも、
どのくらい安全でどのくらい危険か
ということを意味しようとしている言葉だよね。「安全性」も「危険性」も・・・。
言葉を、えらぼうよ。
使う言葉を、本当に使いたいようにして、使おうよ。
そうしていくうちに、自分が本当に願っていることを、世間依存の言葉でなく、私の言葉として、きちんといえるようになる。
ほかにも例えば、
甘えさせてダメにすることを「スポイル」といって、否定的に表現するけど、甘え⇒ダメ、という短絡思考に落ちたようなひどい言葉だから、この言葉も、変えよう。きちんと言いたいことを言えて、甘えることができて自立し始める健康な育ちを「逆スポイル」と言えばいいかなぁ・・・??
いや・・・、なんだかまだ否定的だ。
まだ、これまでの言葉に依存している。
「逆スポイル」だなんて。
ダメ。ふらふらしている言葉だ。
ほーら。
スポイルの逆で、甘えを肯定的に指す言葉が、無いでしょう?世間には?
世間に、これから必要とされていくような言葉って、まだまだ不足気味なんでしょうか・・・。