子どもを叱れば叱るほど、叱ることが増えていく。

これが、わたしが最初にぶちあたった、逆説のひとつめです。

あれ? じゃあ、なんで・・・、ワタシ、叱ってるんだ??

そこから始まり、じゃあ、叱声のないクラスって、実現するのかな、と・・・。

で・・・、

新学期だ、いっちょ、やってみようか。

一日目、いけた。
二日目、おお、まだいける。
三日目。いけました。
あれあれ、一週間、叱声なしでいけた。

面白くなって、一か月、気が付くとそれが当たり前になって、「叱らないで子どもに伝える、通じ合うクラス」が2年間つづきました。
今の私のむねの中では、これは打ち消しようのない確信になっています。

逆また真実なり。

逆こそ真実なり。



その伝で、いろいろと教育における逆説を考えてみると、根本的なことが思い浮かび始めました。



○独りで立つように、と願って、支えてやる

(独りで立つように、と願って、突き放すのではない)


○自分で生み出すように、と願って、与えてやる

(自分で生み出すように、と願って、突き放すのではない)





これが教育の真髄だと思いますが、なんだか、字面だけみていると、なんとはなしに、逆説っぽい。


で、ふと、思った。

やっぱり、教育っていうのは、もともと、逆説っぽいもの、なのではないか。


そうなると、なんだか、妙に納得できるのです。



○威圧すればするほど、威圧に慣れてきてしまうので、威圧を繰り返す必要が出てくる。
(威圧するということを聞く。しかし威圧すると、言うことを聞かなくなる)

○おだてればおだてるほど、その手にはのるか、と思うようになるので、さらに巧妙におだてなければならない。
(おだてると、言うことを聞く。しかしおだてると、言うことを聞かなくなる)

○操作すればするほど、心が硬くなるので、操作しづらくなる。
(操作すると言うことを聞く。しかし、操作すると、言うことを聞かなくなる)

○非難すればするほど、開き直るので、なびかなくなる。

○体罰すればするほど、体罰がなければ動けない子が育つ。

○立腹すればするほど、「立腹姿」を滑稽だと感じさせるようになる。

○命令すればするほど、子どもから、「もう十分に言うことをきいてあげたから、はい、あなたからの注文はこれで終わりね」と言われてしまう、いわゆる「命令の有効期限」が迫ってくる。

○大人が子どもに対して遠慮することで、子どもがのびのびと育つかと思いきや、こちらの願いが届きにくくなって、逆に子どもが安心できなくなり、のびのびした積極さがなくなる。

○刷り込めば、プログラミングした通りに考えて動いてくれるかと思いきや、思考が硬くなり、前のタグの修正を受け付けないし、消去できずに古いプログラムが残ることが多く、意図したプログラム通りに動かなくなる。

○叱れば叱るほど、叱る必要が増える。





叱らないで願いを伝えていると、願いを聞こうとする子が育つ。