こんな文章を見つけました。

「級友などからの〈いじめ〉、親権者からの〈児童虐待〉と比べると、教師による〈精神的虐待〉は、あきらかにその考察はまだ緒に就いたばかりである。引き続き、その“見えにくい虐待”への積極的な議論が望まれる。」


どこに書いてあったかというと、JANJAN-BLOG というブログの中の、<人権><教育>に関する記事の中です。
http://www.janjanblog.com/archives/86380

学校内“虐待”について考える ~教師による〈いじめ〉考~
というタイトルがついていました。
書かれたのは、三上英次さんという方です。
どんなお立場の方かわかりませんでしたが、書いてあることにとても共感を覚えました。

わたしが常日頃、感じていたのは、このことだったのか。
つまり、教師による児童の虐待を感じ取って、恐れていたのでは、と思うようになりました。


「指導」「懲戒」「叱責」の3つを、適宜、ふさわしいTPOで使い分けるべし、というのが書かれている骨子なのですが、一歩間違えると、これらが、

教師による、児童の虐待

というものにつながってしまうのではないか、という懸念を書いていらっしゃるようでした。

私自身の子ども時代を振り返ると、あまり強く叱責されたこともなく、わりかし学校が好きな小学生だったと思いますが、それでも、

「なんでわかってくれないのかなあ」

と思っていたこともあり、その中身をしらべてみると、

「最後の最後まで、しっかりと自分の気持ちを言うことができなかったくやしい場面」

というものがいくつか思い起こされてくるのです。
本当は、○○だったのに、
本当は、○○したいといいたかったのに
という、どうにも癒えない、残念な気持ち、無念な気持ちが、あるのです。

学校の先生から強い叱責を受け続けている子にとってみると、そんな気持ちばかりなのではないかと思います。
それが、指導としてはいかがなものか、ということですよね。
説諭、というように、納得のいくように教えて諭す、ということがもっとできないものか、と。

なるほど、こうやって整理すると、わたしの心中のもやもやが、なんだかすっきりとした形で見えてきましたぞな。

つまるところ、私自身は、教師の強い叱責の怒鳴り声が、

「教師による、児童の虐待」

というレベルに聞こえるのでしょう。
だから、ブログにこんなこと、書いているのでしょうね。毎日のように。。。


そして、教師が、強い叱責によって短時間で目の前のごたごたを済ます

という世界から、

時間がかかるように見えても、本人の気持ちや残念さを主張させて、吐き出させてから、道理を受け入れるようにもっていく方法

が、これからは求められてくるのではないか、と思ったのでした。
そのために必要となってくる重要技術が、わたしの開発した(←うそ)、

○フェイススケールによる<心境満足度把握法>
○バケツの水理論による<人間関係づくり法>
○自分の気持ちを3段階かけて整理調整していく<3段階自己主張法>


の3つです。(つづく)