最近思うのは、学校の先生は、「発達障害の子だけ」に対応しようと
思っても、むずかしい、ということです。
クラス全体を、発達障害の子があたたかく迎え入れられるクラスに
しないと、結局どこかで糸がほつれていくのです。
「あれ?」と思う瞬間に、発達障害の子の、生きにくさがむき出しに
なってしまいます。
「すべてを、そうしないと」
と、今は思うようになりました。
勉強がむずかしくなってくる3年生後半、4年生あたりから、
授業中のイライラがつのってきますし、自暴自棄なふるまいや
授業をこわそう、とする意図のある行動も増えます。
そうなる前に、本当に、つつみこんであげないと、です。
このクラスなら、みんなといっしょに安心してやれる、と
自閉症児が心底思うような学級にしていかないと、
ボロボロとくずれていきます・・・。
そして、そうなるようにするのに、親の力が大きいと思います。
先生(自分)が努力するだけでは、限界あるな、とよく思います。
家でも、ぎゅーーーーーツと抱きしめてあげてほしいと。
まあ、それが一番、というか、根本と言うか、
でもそれができない、という親の事情、社会の事情、
いつもぐるぐるとこのあたりの思考をめぐらせて過ごしています。
大人が子どもをどうみるか。
これ、大人が自分自身をえぐっていかないと、なかなか見えないですよね。
子どもをみている、という視点が、そのまま、その人の眼力なのですから。
もう、平気で職員室で子どもの悪口をしゃべってしまう先生が気の毒で。
(わたしの眼力はこの程度、とあさはか加減をさらしているわけで)
子どもも気の毒だけど・・・。
悲劇です。
親も、ところかまわず子どもの悪口言ってしまう親もいて・・・。
悲劇ですよねえ・・・。
その悲劇にたいして、わたしはどうふるまったらよいのか。
なにも見えない、よくわからない。
自分の子どもに対する見方にも本当のところは自信がない。というか、
それを話合う機会がないし、話してみて、真正直に反応してくれる人もない。
職員室には、いないのです。
みんな立場があるし、評判を気にしますからね・・・。
お互いに心底まっさらになっての深い話はできないのです・・・。
教員と言うのは孤独だなあ、というのがわたしの今の心境です。
・・・というわけで、ご近所の方に、たまーに話しに行くのです。
たとえ2人でも3人でも、こういう話を
「ふんふん、へー、そうなの」
と聞いてくださる方がいると、
「おお」
と思いますね。
教員は、学校の人間関係だけ、で生きていると、苦しいときもあるかもしれないです。
コメント一覧 (2)
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- 2012年10月13日 22:38
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ままり~なさん、コメントありがとうございます。障害を抱える子と、その周囲の子と、双方ともが、というところがポイントですよね。我慢を強いられてきた子が、ガマンとどう向き合っているのか、もうイヤだ、と叫ぶことを許されてこなかったとしたら・・・。しかしまた、自分でも訳のわからぬ衝動と行動で、苦しんでいる発達障害児も、もうイヤだ、と叫びたいのだろうと推測します。その双方が、というところ。こりゃ、勉強しているどころの話しではないぞ、と思うこともありますね。まず1学期の間、人間関係をひたすら作る、ということが許されるなら・・・。と甘い夢のようなことを、本気で思うことがあります。授業度外視で、ひたすら、朝の喧嘩の仲裁をじっくりやれるなら・・・。楽しい授業をどんどんやるから【ささいな喧嘩】をクリアできるのだ、という人もいますが、それもそうかもしれないが、たまには本気で人と人とが向き合っているこの学級の、この生身のどろどろを、ピシッとメスを入れて、解体していきたい、と願うことがありますね。行事行事で子どもたちを駆り立ててばかりだと、本当に苦しく思えてきます。ままり~なさんのように、専科のお立場だと、担任の方針も大きいですので、本当にむずかしいですよね。歯がゆい気持ちもありましょうけど、専科のお立場でのなにか、ひと工夫なり、ほんの一滴の、癒しの言葉をかけておられるのではないかと推測しています。また教えてくださいね。
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- 2012年10月13日 20:51
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そうそうそう、そうなの~って心の中で叫んでしまいました。<br>「発達障害」「発達障害かも?」という子どもたちを温かく包んでくれるクラスの子。<br>でも、クラスの子たちが実は低学年児からずっとずっと我慢を強いられてきた子達で<br>ある場合もあります。<br>最近ではそういうケースに悩んでいます。<br>ひどい時には、正当な怒りすら我慢している子もいます。<br>私は専科ですが、現在、そういう子どもたちを前にして悩んでいます…
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