さて、前回のつづき。
アレナスのティーチャーズキットを使って、鑑賞の授業をやってみた。
基本方針は、
「討論になりうる要素をできるだけのがさず焦点化し、討論にもちこみ、わかりやすく<一人では鑑賞できなかった要素を感じ、対話しながら鑑賞することの楽しさをしる>ことができるようにする」
である。
題材は、キット1。(小学校3,4年生)を使った。
Lesson1は、あまりよくないことが前回の体験から分かっているので、無難な2から。今年の子は、まだ初めてだし。
1枚目⇒ピエール・ボナール<画家の妹>
2枚目⇒国吉康雄<仔牛は行きたくない>
3枚目⇒ワシリー・カンディンスキー<赤色の前の二人の騎手>
1枚目で、20分使ってしまった。
2枚目をはしょって、10分。
3枚目は、10分。
合計で、40分。
事前の説明と質問に答える時間が5分あって、合計45分。みじかっ!
さて、1枚目を出す。
赤い色のスカート、さまざまな緑の、色合いが豊かな背景。
かわいらしい犬。
つかみはOKだ。
すぐに、下の方の赤やオレンジの花が目にとまったようで、
「ぼくたちが描いた、春の、桜の花びらみたい」
と反応した。
この後、すぐに<討論>っぽくなった。
あれは落ち葉だ。
ということは、この絵の季節は、秋だ。
いやちがう、落ち葉でなくて、下の方から、花が咲いているのだ。
だから、春だ。
秋だと思う人。(挙手をうながす)
春だと思う人。(挙手をうながす)
半々。
ここらですでに、ちがう意見が出てきましたね。
もっとないですか。
(あれこれと意見が続出)
結局、縦に黒い線がスッと入っているように見えるから、あれが茎なのだ。だから、あれはやはり落ち葉やなんかではなく、花が咲いているのだ。
という、「物的証拠」が出てきて、それに落ち着いた。
ただ、そういう意見が連続して出てきただけで、
「じゃあ、このクラスの意見として、この絵は春、ということですね」
・・・というまとめ方はしない。
まとめることが目的なのではなく、異なる意見が場に出てきた、というだけでもう十分だからだ。
また、下の落ち葉(いや、花)に呼応するかのように、上の方から、葉っぱが落ちてきているから、風がふいてきているのだ、というように、<風>のことも話題になった。
「絵のなかに、風がふいている」
そういうことを、何人もの子が発言する。
「枝もそういう方向に、ゆれている気がする。」
なるほど。
次は、女の人に焦点化。
「女の人の表情が、ちょっと悲しそう。」
と出た。
ここで、
「では、女の人にちょっと焦点をあてて、どうですか。女の人、なにをするところなんでしょう」
とふってみると、教室の半数以上が挙手をする。
してみると、やはり、ストーリーのような展開が、子どもには自然なのだろう。すぐに、女の人の物語が、脳裏に浮かぶようである。
これも意見がたくさん出てきそうで、しかたなく、途中で、
「じゃあ、もう少し、今度は隣の人に、自分の考えた物語のつづきを、しばらく話して聞かせてあげてください」
ということにして、そのまま2分ほど放置しておいた。
ずっとお隣さん、子どもどうしで真剣に話し合っている状態が続き、これはこれで、なかなかめずらしい風景が教室に生まれたことになった。
「おとなりさんに、いいお話ありがとう、と言ってください」
「はーい。たのしい話、ありがとー(口々に・・・)」
左手に持っている籠の中身が気になり、犬と遊ぶためのボールだとか、青リンゴだとか、お見舞いの品だとか、地面に置いてあるとか、いや、手に持っているだとか、ともかくも意見が連続して止まらない。
そろそろ、と思って2枚目へ突入。
その直前に、
「これは、絵を描いた画家の、妹さんの肖像ですよ。そして、この絵は、なんと日本の美術館にあります。ずっと飾られていて、本当に多くの人が、この絵を見て、いろんなことを思ったでしょうし、きれいだなと思ったでしょうし、いろんな具合に、楽しんできました。」
とだけ、話しておいた。
このように、作品についての情報を、ほんの2言、3言、追加しておく。
すると、子どもの気持ちに、
「ああ、自分たちが今、言い合ってきたことは、勝手な言い分であり、作者はきっともっとちがうことを意図したいたのにちがいないだろう。さらにいえば、大勢の人が、その大勢の人の分だけ、たくさんの感想をもったのだろう」
というように、「自分の感情の肯定だけで満足する世界」からの脱却を促す。
さて、2枚目。
これが、また暗い絵である。
しかし、できるだけさまざまな絵を見せるのが、美術教育の本道である、と考えて、歯を食いしばって、進んだ。
すると、やはりおそろしい雰囲気がするらしく、
「この男の人は、ヤギが嫌いなのだ。それで、ヤギを殺そうとしている」
という、殺伐とした推測が出てきた。
しかししばらく話をしていると、
「上の方に、煙のようなものが見える。だから、あっちの家が火事になったので、ヤギを救って、こっちの家にはこんできたんだ。だから、あの人は、別にヤギのきらいな人でなく、むしろ、救おうとしているやさしい人だ」
とまったく正反対の意見が出て、
「なんか、さっきとぜんぜんちがうことになった」
「本当はやさしい人」
「え~、みんなそう思うの!」
「いや、ぼくはまだこわい人に見える」
と面白いことになった。
「正反対の意見が出ましたね。大勢で話をしていると、こんなふうに、自分の考えとはまったくちがうような、思いもかけない見方が聞けるんだねえ」
と感にたえたように言うと、教室に
「そうだなあ」
という空気が生まれた。
あとで思うと、これが、クライマックスであったように感じる。
つまりは、このことに結び付けたくて、この題材を選び、この方法でもって、このような鑑賞授業を仕組んだのだ、ということになる。
最後に、また「ちょっとした社会的な意義づけ」を行う。
「実はね、この作品には、題名があります。<仔牛は行きたくない>という題名です。」
すると、すっかりヤギだと思っていた子どもたちから、
「えー!!」
次が3枚目。
カンディンスキーは、抽象画の天才。
そのカンディンスキーの若いころの作品だ。カンディンスキーの後半生に描かれた抽象画と比べると、若いころ初期の作品なだけあって、まだまだふつうの絵画として見られる。馬と分かる絵だし、親しみのある絵だ。
でも、実は不安だったのです。
やはり、どこか抽象的で、絵のようで絵じゃないような・・・。不思議な絵なので。
子どもにとっては、こんな絵を見たことがないだろうから、驚いて、なにも言わずに絶句してしまうんじゃないかな、と思ったところ、杞憂でありました。
なにしろ、この3枚目に突入したときは、はやく3枚目がやりたくてたまらない、という集中状態であったためか、3枚目を約1分、しずかに見た後
「じゃあ、どうぞ」
と言っただけなのに、ほぼ全員がすばらしい(天井に向けて垂直な)挙手をしていた。
この3枚目のカンディンスキーの絵では、赤い背景と、白いまるい模様が何なのか、ということが焦点になった。
舞台が砂漠なのか、海辺なのか、ということも。
丸い模様が、水平線に沈む太陽なのだ、だから夕方で、背景が赤いのだ、という意見が多かったが、なかには、これは巨大な月だ、そして右側の青と緑が地球なのだ。これは空想された世界、SFの世界の絵なのだ、という意見もあった。
しかし、きわめつけに、
「わたしはハワイに言った時、同じような色を見た。まわりが赤で、太陽だけが白いのだ。それは夕陽であった。燃えるような空の色だった。おそらく、この二人の騎手は、海辺を走っているのだ。そして、その海辺の浜の、この向こうには、広く横たわる広大な海が寝そべっていて、そこに真っ白に燃える太陽が、しずんでいく様をみることができるだろう」
という女の子の意見が出て、
「実際にみたのなら、それがいちばん妥当な意見だろう」
ということになった。
みんなが納得した空気が流れて、この時間はおしまいになった。
最後に、
「いやあ、一人だけではぜったいに思わなかったことを思ったね」
というと、
「うんうん」
という。
それで、
「最後に、今日見た3枚の絵のうち、いちばん心に残った絵はどれだったか、その理由も含めて、ちょっと感想を交換してください。はい、おとなりさんと」
といって、2分、もりあがって、終わった。
なかなか、ひさしぶりのアレナス対話式、おもしろかったです。
一番の収穫は、やんちゃのYくんが、真剣に討議に参加したり、他の意見を肯定的に聞いて、
「なるほど」
なんてつぶやいていた、かわいい姿が見られたことですね。
やんちゃくんが真剣になっている姿ほど、かわいいものはないですから。
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