数年ぶりに、mite! の鑑賞授業をやってみることにした。
行事や勉強に追われて、なかなか時間がとれなかった昨年と一昨年。
でも、6年生の担任となり、2学期の後半、行事が一段落してちょっと余裕が出てきたこの時期だから、思い切ってやってみました。

アレナスの本を引っ張り出して、さらっと読むと、またやりたくなってくる。

ただし、以前からひっかっかっていた、アレナスに対しての批判を、幾分でも昇華してから、やってみたかった。
自分の心のうちでも、いくつかのポイントが未消化で、迷いが生じていたからだ。

<アレナス流対話式美術鑑賞の批判点(これまでに聞かれたもの)>

○会話ばかりでいいのか
○なにが見えますか、だけでいいのか
○最初から最後まで自分の感覚中心に絵画を見ているだけに陥らないか
○ただ自分の感想を友達と交換しあっているだけにならないか
○絵画には、描かれた時代の感性や、その画家の個性や、それが鑑賞されてきた歴史など、様々な文脈があるが、そうしたものを知る、ということがないがしろにされている。
○自分の感想を相対化することができていないのではないか。


とまあ、こうした批判があり、自分でも数年前に奥村さんの講演を聞いた後に授業をやってみたり、研究してみたりしながら、

「うーん、ただ、言い合っているだけなのかもしれないなあ」

と不安を抱いたことが正直、あるのだ。


ただ、今回は、上野先生が書かれた、mite! のまえがきにあった一文が目にとまり、それに励まされてやろう、という気になった。

「子どもを有能な存在として認めること」

「自分とはまったく別の思いもかけない考えを聞いてはオドロキ、自分の考えみんなに受け入れられてはその歓びを知る。そのスリリングな面白さ」



なるほど、シンプルだけど、これは、<自分の感想を相対化する>ができている、ということになるんでないの。

子どもどうしだから、大人の視点は入らないかもしれないが、子どもどうしだって、異なる意見や、まったく別の見方が出てくる。それを、お互いに説明し合い、さらにはそう考えた理由を、題材からさがして理由づけをしたり、討論のようになる場合だってある。

「討論」になりうるのだ。

これは、<自分たちの意見を、ただ肯定的に見て済ましている>、という世界とはまったく別なんじゃないの?

そう思った瞬間、すこしだけ、霧が晴れた気がした。

「よし、討論に近い場が創出されるように、ファシリテートしていこう」

これが、基本方針になった。

(つづく)




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