子どもを喜ばせたい、ということを、たくさん考えているんですね、と言われた。

近所のお母さんたちから。
私が教師である、ということを知っていて、ふとした立ち話で話すことがある。

イベントのイモ掘りに来ていたママさんたち。
妻と息子が、ともだちといっしょに芋を掘るんだ、と言っていた。
息子の友達もやってきている。
その、ママさん。

わたしが妻に命じられるまま、鍬でもって言われた場所を掘り起こしているときに、なんとはなしに会話がはじまった。

学校の様子を話してこられたので、自分の思うことを言い、最近うちのクラスで太鼓を練習している、と話すと、上記のように言われた。

「子どもをよろこばせることを、たくさんご存知なんですね」

ところが、これに違和感があった。
なぜか、と考えてみている。


私の中に、「子どもをよろこばせたい」というのは、本当はとても薄いのではないか、と思えてならない。
いや、そんなことはない。教師になった以上、または教師としてやっている以上、子どもの笑顔を励みに勤めているはずだ、と言われた。

いや、子どもの笑顔は素敵だと思うが、「よろこばせたい」という気持ちはかなり、薄い。もしくは、ゼロに近い。

よろこぶ顔が見たい、というのではないと思う。

だって、要求していることは、けっこう苦しいですよ。
かけ算だって、なかなか覚えられない子がいる。
毎日、唱えなさい、とか、覚えてきなさい、とか、平気で言う。
「これ、宿題です。明日まで必ずです」なんて、いつも言っている。
出さないと、給食のお代わりができません、なんてひどいことも平気で言える。

教師は、きらわれて当然だと思います。
いやな勉強をさせているし、圧力、威圧、している部分もある(ないことを祈るが)と思う。

よろこばそうとして、やっていない。
よろこぶかどうか、関心がない。
やる気でやるかどうか、子どもをあてにしていない。

子どもは、やらなくて当然、と思っている。
子どもがよろこばなくて当然。
ぶつぶつ言って当然。
いやだ!とさけんで、当然です。

・・・と思っている。

なんでだろう。
おそらく、最初の年、2年目くらいまでは、

「よろこばしたい」

というのに、素直に、「そうです」と言っていた気もする。

でも、6年すぎて7年目。
「よろこばそう」というのは、無いナァ・・・。




逆だ。
サカサマだ。

教師が、どれだけ、喜べるかな、うれしい、と言えるか、というところ。子どものやさしさに触れて、感動できるか、に関心が向かう。

「先生が、今、どれだけうれしいか、わかりますか?○○くんが、こんなことをしていました。そして、こう言ったのです・・。○○くんは、△△さんが、朝からこう言っていたのを知っていて、わざわざしてくれたのですね。・・・」