無言の掃除の取り組みが、今年度から始まっている。
勤務校では長年、「無言の清掃」は無理だ、となっていた。

「うちの子たちに、そんなことは無理だろう」

というのが大勢の意見で、「管理」教育を思わせる「無言」の指導はしたくない、という年配の先生たちの後押しもあった。

ところが、前年度の生徒指導担当の先生がかなりのやる気で、無言の清掃をやりはじめたのだ。


その先生の指導はすばらしく、今の6年生はほとんどが無言で取り組んでいる。
無言の清掃姿は、いつもわんわんとうるさい教室に慣れている耳には、とても新鮮に映る。
すばらしい!と、思わず感嘆のため息が出るほどだ。


さて、それを自分の学級になんとか定着させたいのだが、それが難しい。

「無言清掃!だまって、たくさん、身体を動かす!」

と言いながら、廊下や教室を見て回るが、そんなことが定着するのはかなり先のことだろう。


隣の中学校では、そうじの時間になると、全員が廊下に正座するらしい。
そして、沈黙。


廊下の両側には、黙ってすわる、生徒の列ができる。
ここは京都の寺か、と見まごうばかり。

しばし沈思黙考の末、
「無言の清掃をやれる!」
という機運が自分の心の中にできた、と自覚できた者から、いざ掃除にかかる、という。


これを5年間続けていると、学校の雰囲気ががらりと変わり、すっごく素直な中学生が増えてきた、らしい。

無言の清掃の力たるや、その話をきいているとおそろしい気もしてくる。

しかしまあ、坊さんの世界もそうだし、○○教でもそうだし、○○学園もそうだし、イギリスのハイスクールの寄宿舎でもそうだというし、「清掃・そうじ」というのは、人格形成をする上でかなりのウェイトをもつ、すぐれた実践なのかもしれない。

いつも鼻高々の、いばった風のS子ですら、ぞうきんもったら頭を下げて床を見ているし、

「あたまをさげる」

という具体的な行為をするだけでも、すごいことかもしれない。



森信三先生も、「くつをそろえるときに、頭を下げる姿勢になる。それが大事」みたいなことを言っていたような気がする。

つまりは、形から入れ、ということなのか。
そうは言わないまでも、心と形は大きな影響と関連がある、ということなのだろう。
電機と磁石、のよう。(今、電磁石をやっているので・・・5年生、・・・おそい!)