NHKで年末に放映された番組を録画しておいて、本日鑑賞。
30日に放映された、“国民”への道のり~明治日本・農村の記録~である。
日本人が明治になってから、徴兵制、地租改正、学制、と次々に敷かれる制度に黙々と従ってきたこと、日清戦争をきっかけに、国の輪郭が意識されるようになったこと、「国民」という意識が戦争と共によりはっきりとしてきたことなどが紹介されていた。
「国民」という意識よりも、「村人」の意識の方が高かった。
それが自然だろうな、と感想を抱いた。
初期のころは、やっかいな徴兵制をなんとか逃れようと、知恵を絞る人々の姿が資料からうかびあがってくる。
徴兵されても、逃亡して行方知れずになる人が、全国で2万人もいたそうだ。
おそらくそういう人たち、逃亡した人たちは重罰が待っているから帰るに帰れず、あてどなくどこかの土地にしがみついて、必死で生きていこうとしたにちがいない。
学制もそうだ。
学校は地域の負担でつくることになっていたから、教員の給与や土地、建物をつくる費用、教材もすべて、地域の住民たちが負担した。
しかし、負担をすすんで担おうとしたわけでなく、なんとか免れたいと願った、ということが紹介されていた。
民権運動を生み出し、国会を設立しようとした動きも紹介されていた。
「国民」としての義務ばかりが強要され、それに黙々と従っていたばかりに、国の負担を担おうとしつつも、貧困にあえいでその日の糧を必死で探すまで追い詰められていた国民の姿が、さまざまな資料から浮かび上がってきた。
国民の「義務」を果たすというばかりでなく、「権利」も勝ち得ていこう、というのが民権運動であった。
民権運動を通じて、国会開設を訴えることを通じて、やはり徐々に「国民」という意識が高まったいったのだ。
長野県・安曇野の運動家、松沢求策が紹介された。
この番組の中でもっとも印象深かった部分だ。
芝居好きだった求策は、『民権鏡加助の面影』という歌舞伎の台本をつくった。加助という庄屋が村人のために民権運動に立ち上がる物語をあちこちで上演し、それが多くの人の共感を得て、徐々に民権運動の理解を広げていったそうだ。
ただ声高に叫ぶばかりでない、歌舞伎という「よびもの」でもって、わかりやすく翻訳し、みんなの気分を代言し、だれにでも理解できるように次の道筋を示したのだ。
「歌舞伎」という手段。
ここに目を付けたことが、求策の個性であり、武器であったろう。
同じように、明治維新の初期には「国民」の意識を高めきれなかった政府が、日清戦争を大々的に広報して「国民」意識の形成に成功するとき、用いた手段は、「幻灯機」であった。
わかりやすい絵にし、それに解説を加えて、字の読めない人にもすべてわかりよいように、上映したのである。
歌舞伎にしても、幻灯機にしても、
「わかりやすく、わかりやすく、」
という意識があったからこそ、使われたのだろう。
同じ時期に、坂本龍馬を爆笑問題がおもしろい独自の視点でさぐった番組もあったが、どうやらこの幕末の風雲児も、
「わかりやすく」
という意識があったらしく、手紙をみると、読み手のことを考えた文体で、いいたいことをすんなりと伝えるのに成功している。
福沢諭吉は、自分の書いた原稿を、職人に読んで聞かせて、意味がわかるかどうか尋ねたという。
分からないという部分は、さらに咀嚼して書きなおしたそうだ。
わかりやすい
というのが、いつの時代も人の心をつかむ鍵なのだろう。
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