高学年の女子に対応する。
かなり苦労する。
学級担任をもって4年目。
これまでのようにはいかない。
言えば通じた、叱れば通じた、(と思ってきた)のが、ガラガラと・・・。
なにか通じないもの、コツン、とあたってしまうものを感じてきた。
授業はおもしろく進んでも、その直後に、え、なんで、と思うことが起こる。
「なんで!!!」
という心が湧いてくる以上、子どもの行動をすべて認める、というよりも、否定する、という気持ちが先に出てくる。恥ずかしながら・・・。
そこで、あれこれ、と考えることになる。
深夜、風呂につかりながら考えを進めていくうちに、こういうふうに思い至った。
どんなことも、子どもにとっては、
「ちゃんと分かってはいない」
ことなのかもしれない。
そうじの仕方にしろ、箒を振りまわすということにしても、ごみを最後までとりきらない、ということについても、
「教えてもらっていない」
のかもしれない。
これまでは、たった一度、二度、三度、言えば分かるだろう、と思っていた。
教師 「きちんと教えた」⇒ 子 「教えてもらった」
という方式で、あてはめて考えていた。
だから、次のような言葉が頭を何度もよぎった。
「言ったはずだ」
「伝えたはずだ」
「ルールのはずだ」
「約束は守るべきだ」
その上で、「何度言ったら分かるのか」という気持ちをたっぷり込めて、子どもに相対していた。
だから、言葉の端々に、
「お前はダメだ」という雰囲気がたっぷりと漂っていたにちがいない。
それが、子どもはいやなのだろう。
苦痛であったのだろう。
それで、こう考えることにした。
「この子は、まだしっかりと分かっていないのだ」
そうすると、昨日も箒をふりまわしている子に対して、何も心がさわがず、波立たず、
「箒は、下に向けるんだよ。上に向けて使うのじゃない。ほこりをかぶるよ。ほこりを吸って風邪ひく。上手に使うのには、必ず下に向けるんだよ」
と丁寧に伝えることに専心できた。
子どもはちょっと、きょとん、としていた。
いつもどおり、頭から叱られるわけでなく、なんとていねいに先生が話しかけてくるのだろう、という感じ。
その空気のままに、「はぁ・・・」と箒を下げる。
「両手で持つ」
(両手に持ち直す)
「よーし。いいねえ。ちゃんと掃除をする、とういう形になってきたよ。これだときれいになりそうだ。たのむね。上手になろうね」
後半の言葉は、笑顔で発せられている。
つまり、叱らないのだ。
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