吉野せい を読んでいたのは、農業に従事していた10年以上前の話。
ちんげんさいの畑で定植を手伝ったり、果樹の収穫をしたり・・・。
トマトのハウスで、トマトを収穫することの、なんと暑かったことか。
汗がしたたりおちる、というのはこのことか、と何度も実感した。

はたまた、鶏舎の鶏ふんを、スコップで取り除く作業の、なんと時間のかかることか。
トラック2杯を出すのに、午前中いっぱいかかったことも。
湿った鶏糞だと、それが本当に重いのだ。
乾いた鶏糞だと、15分もあればたちまちにして、トラックをいっぱいにできた。

暑さの反対で、寒いのもとことん味わった。
真冬のりんご収穫は、寒さとの闘い。
何重にも服を着て、その上にさらに、綿の入ったつなぎを着ている。
その上にさらに分厚い作業用ジャンパーを羽織っている。
にもかかわらず、手先からじんじんと、寒さがしのび入ってくるのだ。

あまりにも寒くて、りんごが凍結しているのではないかと思ったものだ。
それでも収穫した王林、北斗、ふじ、を夕ご飯で食べるときのおいしさはこたえられぬ。

みかんの木を植えるのに、真冬に和歌山へ行った時は、寒くて本当に困った。
畑でおしっこがしたくなる。
畑の隅っこで、おしっこをするのだが、なにせ何重にもズボンをはいている。
肝心のものが、ズボンの奥深くから、顔を出さないのだ。
困って、最後にはそのまま実行。
うまくできたものの、見当違いの方向に発射されずに本当に胸をなでおろした。

こんな「農の世界」にくらしているときだったから、吉野せいの文学が、なんとはなしに、実感できるように思っていた。
時代も背景もちがうけれど、風景の描写、自然の描写になると、なるほど、と感じるものがある。
共感できるものを感じながら、読み進んでいたことを思い出す。


さて、昨日から「洟をたらした神」を読んでいるが、肝心のパートがでてこない。

○せいが、あひるをつれて歩いている部分の描写
○せいが、子どもに連れられて都心を訪ねたときの描写

十年前からあれだけはっきりと、印象深く覚えているのに、「洟をたらした神」にそこのところが出てこない。

そして、ついに、ふとした瞬間に、これも思いだした。

「道」

そう。
「洟をたらした・・・」でなく、吉野せいのもう一つの作品集、

「道」

に、それは載っていたのだ。

うーん、そうだった。
さっそく、AMAZONで「道」の古書を注文しました。

まだ、楽しみがのこっている。