ただ、感情的にしかる、というのは最低。
それは承知の上で、
なお、授業中の私語などを何度も注意している。
しかし、何度も繰り返す。
・・・どうするか・・・。
・・・馬の耳に念仏風の叱り方は、何度も経験ずみ・・・。
いったい、どうすれば・・・。
たまたま読んでいた本に、
「子どもの体温が上がるような叱り方をする」
という文があり、これが目にとびこんできた。
給食の片づけをわざと知らんぷりしてやらずに、他の子がやってくれるまでそのままにしていた子。人に、自分の仕事を押し付けてしまう子に。
「自分がやらなかったことをほかの人に謝りなさい。あなたがやらないために、ほかの人がやってくれたのですよ」
最低、このくらいのことは伝えたい。ただ、「やりなさい!きちんと片づけしなさい!」だけですますのではなしに。
「あなたは、給食の食器を片づけないで、人に押し付けていく。それで満足ですか?」
このくらい、問いかけるようなことをしたい。
問いかける、ということは、その子の心に、なにかしら、自問のタネをまく、ということである。
自問させることが必要で、自問できないから、自分から考えて動く、ということができない。ただ感情のままに動いているだけ、楽をしたいから、人におしつけてしまうのだ。
自問できるようになれば、かなりの進歩。
そこをめざす。
そのための、第一歩が、「問いかけ」だ。
つねに、問いかけていきたい。
「あなたはそれで満足か。同じことを、この人を生んでくれた人の前でもできますか。あなたを生んでくれた人の前でもできますか」
大体、勝手なことをしてしまって平気でいる子、自問しない子、わが身を客観的に見ない子の共通特徴は、人との関連性を見失っている、ということである。
人とつながっている、人との関連で生きている、ということを、くりかえし、くりかえし、刷り込んでいく必要がある。
そのためのメッセージが、
「あなたには、あなたを生んでくれた人がいる」
というメッセージだ。
これを、語るたびに、メッセージとして、伝えていきたい。
「あなたが、今回、こういうことをしている。このことを、あなたを生んでくれた、あなたのお母さんは、聞いて喜びますか」
家庭環境にもよる。よりふさわしい人がいる場合もあるだろう。
お母さんを出すのがよいかは、わからない。お母さんを出すことが、よい、のではない。その子の心に響くような、その子に合った人を、話題に出すのがよいのだろう。
「良いのが良いのではなく、合うのが良い」ということだ。
お母さんが良い、のではない。
<話題に出すのは、お母さんが良い>、という方程式があるのではない。
その子に合う人を出す、のだ。
次の日、しっかりと片づけをしていたら、
きちんとほめてやりたい。
「よくできた。友達は、あなたのそういう姿を見ていて、みな信じていくのですよ」
「みんなが見ているのだよ」
「自分がしっかりやるようになると、しっかりやっている人のことをいっぱい見ることができるようになっていくし、気づいていけるようになる。そういう、いい目をもつことができるようになるのだよ」
教師とその子で、一対一で、話してきかせるのがよい。
基本は、その子の、成長した姿をイメージしながら、語りかけていくのがよい、そうだ。
その子の成長した姿、いわば、ゴールの姿を、思い描いての今日、が必要なのだ。
思い描いて、か・・・。
うーむ。
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