先週から、教育反省会議をつづけている。
「○○小の教育」
というものをつくっていくために、教員がみんなで知恵を集めている。


来年度も、私は、今の学校で勤務をする。
実は、これまでは、そういう緊張感が持てなかった。臨時任用だったからだ。
来年は、もしかしたらいないかもしれない、という前提で、すべて動いていた。

今年はちがう。
来年、自分が直接かかわる教育計画。そこに参画していくのだ。
第一に思うのは、楽しい職場にしたい、ということだ。
必然的に、<うまくいっている職員室>の像を頭に描こう、という気になる。


うまくいっている職員室って、どんなことをさすのだろう。


ここから、参考書に当たる。


まず第一に
「教員に個性が必要」ということ、とある。

ユニークで、少しは非常識な部分をもっていたってかまわない。職員室が、価値観をいつでも問い直せる、発想を豊かにできる。そのためには、各教員におもしろい個性があった方がいい。

なるほど、と思う。

その本の筆者いわく、つまらないのは、
自己満足的強迫神経症の仕事を独善的に行う、熱心な教員だそうだ。

これを聞くと、ははぁ、となる。
つまり、私自身が、夜遅くまで熱心にやっている(ように見える)教師だからだ。
実は、要領が悪く、一回一回、何をするか考えないと、毎日の授業ができない、
シロウトだからである。ぎこちなく、時間がかかってしまうのだ。すみません。

上述の、自己満足的云々、というのは、要するに、
「ワタシは一生懸命、やっているのよ」!
というスタンスを鼻にぶら下げて、
わたしの方法が一番よい、と固く信じ込んでいる傲慢な教師のことを指すのであろう。

と、これまでは、職員室に置いてあった本、
「おそい、はやい、ひくい、たかい」
という面白い題名の本をふと、手にとって読んでみた感想である。

編集人は、岡崎勝 とある。
プロフィールを見ると、愛知の公立小学校教師、となっている。
愛知、というのを見て、親しみがわいた。
また、肩書きが「編集長」となっていないところが、この岡崎氏のスタンスを表しているように感じる。

同じ本の中に、辻悠子さんとおっしゃる、保護者の方の文章があった。

「学校は、先生が育つ場でもある」
と言いきっておられる。

「公立の先生には失望するわ、という声を聞くと、そう言いきってしまっていいの?と聞きたくなる。子どもたちにためにも、今、目の前にいる先生を励まし、関わっていかなければ」・・・云々と。


・・・共感。
うーん、・・・すっごく、共感。
こういうの、うれしいなあ。


次に、横浜の中学教師をされている、赤田先生という方が、

「子どもを相手にする人たちに余裕がないと、それがそのまま子どもに伝染してしまう」

と書かれている。
多忙を極める学校現場に警鐘を鳴らしておられる。
「いいこと」が地域や親の要望として取り入れられるので、学校と言うカバンが、パンパンになってきている、というのだ。
そういう中で、

○教員として自分をあまり先鋭化させない。

ということも、述べておられる。

教員であることを鋭く磨くのではなく、最短距離ばかりを考えていないで、子どもたちの育ちに、ゆったりつきあう、という心を持て。

・・・ということのようだ。


自身をふりかえってみる。

年末以来、ずっと、この一年間の自分の教師としてのあり様を反省するようにしている。
また、学校全体の教育反省もやりながら、という、最近の自分にとって、ちょっと響いてきた言葉であった。

自分の満足が先になっていないか、子どもの育つスピード、実体を、しっかり見ていますか、と問いかけられたような気がした。

もうすぐ、3学期の初任者公開研究授業がある。
「ようし、いっちょう、やってやろう」
と思っていたが、

ちょっと深呼吸。

子どもたちの実態に合わせて、少し先を歩くようなつもりで、授業を組み立てていこう。
そう、肩の力を抜いて。