カブール・ノート「戦争しか知らない子どもたち」

山本芳幸:著

遠い国。
イメージの湧かない国、アフガニスタン。

思い浮かぶものといえば、米軍が行進していた荒地の光景と、ビンラディン氏の顔写真くらい。

読後、アフガニスタンが妙に親近感をもって感じられる。
行列ができる国。
順にならんで待つ、ということができる国。
政府が機能していないのにも関わらず、信号をきちんと守って市民生活が成り立つ国。
アフガニスタンがそんな国だとは知らなかった。

もっと、荒れた国だとばかり思っていた。

モラルなどなく、暴行や略奪が横行し(それは事実だが)、ルール無視の人ばかりしか住んでいないのだと考えていた。

いつの間にか、マスコミを経て届く限られた情報を、自分なりに理解して(つもりになって)、それを事実と勘違いしていた。


「事実とは何か」


マスコミを通した情報を得るとき、必ず自問しなくてはならないと思う。

マスコミが悪いのではない。
良い悪い、というのではない。

そうではなく、自分たちの頭の仕組みが、早わかりをしたがっているのだ。
「わかる」ということに、かなりの価値を置いている。
だから、「わかりたい」と思っている。

本当は、どうか、と検べつつも、
事実を知り得る自分なのか、どうか。

「わかりたい」の罠に嵌っていないか。(わかる自分、事実をわかることのできる自分、という思い込み→そもそも脳は情報処理の道具、真の事実を知ることは不可能)

そういう頭で生きている、ということを知っているのと、知らないでいるのが、違うのだろう。