児童集会という名目で、1時間、全校生徒が交流しました。
内容は、児童会の企画したゲーム大会です。
大縄とびをすることになりました。


4年生の並んでいる場所をみると、児童会から派遣?されてきた6年生が立っています。
二人で大縄を持ち、競技の用意をしています。

ところが、その立ち位置が、気になりました。
1組も2組も、妙に近いのです。
これでは、跳んでいる子どもたちが、跳びにくいのではないか、と思ったのです。

それで、まだしも空いている空間を指さして、

「こっちに移動した方がいいんじゃない?」

と言ってみました。

すると、その児童会の6年生が返事をしたのですが、それが、

「そんなのいい」

という、冒頭タイトルのセリフだったのです。



これにはおどろき、いや、これではあまりにも危ないし、やりにくいから、ということで移動してもらったのですが、
即座に

「そんなのいい」

と、感覚的な言葉が、パンッと跳ね返るようにくる、というのが印象に残ったのです。

ふだん、話もしたことのないような6年生でしたから、どういう子なのか、ちょっとわからないのですが、なにか、勘違いでもあったのでしょうか。

そこで、その日の帰りに、いつものように電車の中でつらつらと考えたのですが、

あの子を認めていく、とはどういうことか、と考えていました。

認めていく。
そのことでしか、あの子の成長はないな、とは思うのです。
「そんな言い方をするな!」という一時的な指導は、人間関係のできた担任の先生に任せるとして。
どういう具合に、あの子を認めていくのだろうか、と思いながら、窓の外を眺めていました。

生まれてから死ぬまで生涯、人を受け容れ、人に受け容れられて、人を愛し、人から愛されて、安心満足してすごす人生が本当。

あの子が、自分は受け容れられている、と実感できるには、と考え続けることしかない。

ひるがえって、クラスの子どもたち、全員を思い出して、どうか。
そろそろ2学期の成績をつけます。
通知票も記入します。
所見も書いていきます。
それは教師から発せられているように見えて、実は教師に返ってくるもの。
子どもの成績、所見を書きながら、本当はどうか、と悩み、・・・教師はあたかも、わが身を検べている気持になります。

子どもたち全員が、受け容れられている、と実感できる2学期に、なっているかどうか。


最近考えている、「褒める」ということ。

「いいね」
たった3文字でも、あるのと無いのではちがう。

「いいぞ」
先生がにっこりして、言うひとこと。


「受け容れられている」という実感。


ほめる、というのは、その意味のことだな。