「いいね」と言って、ほめる。
褒める、ということで、常に考えることがある。
ほめる頻度だ。
毎日、毎回のように言う必要があるだろうか。
たしかに、評価してくれる人や先生のいうことは聞こうという気になる。
子どもは、学級のためにも活躍しようと言う気持ちにもなる。
しかし、それを毎日、毎回のように、教師は言わなきゃならんのか。
「ほめるのは、甘やかすことになるのでは」
「ほめたら、調子に乗って、増長するのでは」
という気持ちがある。
私自身、親や先生、上司に厳しく育てられてきた。
どうなのだろうか。
このあたりは、やはり、ほめる、という行為をする裏にある、こちら側の動機に関係があるように思う。
ほめて、なにかをさせよう、ということであれば、
「代償」を期待しての「ほめる」にしかならない。
ほめ続けなければ、相手を動かせない、という思いがさらに強くなっていく。
そのうちに、こちらが疲れてしまうだろう。
「ほめなくては」という強迫が生まれてしまうのだ。
だから、余裕がなくなる。
気持ちや心に余裕が生まれてこなければ、毎日の忙しさにまぎれて、「ほめる」材料が見つけにくくなるだろう。
したがって、「ほめる」が自然でなくなる。
とってつけたような「ほめる」になり、甘やかすイメージに陥ってしまう。
増長したら、がつん、とやればよい。
そこの見極めは、こちら側に余裕があればできる。
ほめて、なにかを期待するのではないのだ。
、、、とここまで、考えを進めてきたが、果たして本当だろうか。
少なくとも、居場所を確認してあげる、受けれているよ、というサインをおくること。
これが、「ほめる」の効用だろう。
図工の時間。
あまり図工が得意ではない児童。
前回の版画の時間も、適当にお茶を濁した作品で、早め早めに切り上げようとばかりしていた。
本当に力を注いだ作品にはならなかった。
今回、絵を描いている。
校庭の木だ。
大きな銀杏の木。
始まってしばらくして、そろそろ筆も進んできたころ。
彼の近くまで行き、作品を横から見た。
根っこが少しだけ、茶色で塗られていた。
あとはそのまま。
「いいね」
根っこの茶色を指して、言った。
「自分で作った、色でしょう」
こちらを、ふと気にする仕草があり、コクと小さくうなずいた。
「いいねえ」
と、もう一度、言った。
そして、少しずつ、歩いて彼から離れていった。
「いいね」
たった、3文字である。
しかし、集中して絵を描いている彼の耳元で、
「いいね」の一言は、短くても、ふさわしかったのではないか、と思えた。
遠目で見ると、彼は薄い灰色を、ぬりはじめていた。
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