赭鞭一撻(しゃべんいったつ)。
日本の植物分類学の父、牧野富太郎氏が、17歳の頃に書いた勉強心得のことである。
植物学を志すようになった彼は、この抱負を生涯をかけて実践し通した。
十五 造物主あるを信ずるなかれ
で終わるのだが、
この直前の
十四 書を家とせずして、友とすべし
という文の紹介がしてあるのを見つけた。
「本は読まなければなりません。しかし、書かれている事がすべて正しい訳ではないのです。間違いもあるでしょう。書かれている事を信じてばかりいる事は、その本の中に安住して、自分の学問を延ばす可能性を失うことです。新説をたてる事も不可能になるでしょう。過去の学者のあげた成果を批判し、誤りを正してこそ、学問の未来に利するでしょう。だから、書物(とその著者)は、自分と対等の立場にある友人であると思いなさい。」(現代語訳)
真理の探究。
これが絶対だ、という自信は、悪自信である。
自分の考えは決して誤り無く、判断する能力に死角はない、と言い切るものだ。
こうした考え自体が、マチガイだ。
脳が全能完全な機械ではない限り、脳は本来、「間違えて当然」の機能なのだ。
誤りの多い人間本来のあり様からすると、悪自信そのものがすでにマチガイであるわけで、それを恐れた牧野氏の、心底謙虚な、理想の研究態度を示していると思う。
だから、自分の考えも、書物の考えも、対等だ、というのである。
対等、という測り方、そのものが、むずかしいのが実際だ。
えらい人の言ったことだから正しい。
先輩の言ったことだから正しい。
本に書いてあることだから、正しい。
こうなり易い傾向の人は、逆に、
子どもの言うことだから信用できない。
となりがちなのだろう。
同じ観念で、とらえているから、えらい人、子ども、と見上げたり見下したりする。
そうではない、というのだ。
対等。
対等、と見えるか、どうか。
真理の前では、対等なのだ。
探究せんと努める立場に、あらゆる格差はない。
さて、この夏、どんな読書ができるだろうか。
へちまも朝顔も、夏の草木はどんどん生長する。
同様に、教師の力も伸びる、夏だ。
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