今日は靴箱をそうじする予定にしていた。
代表で6人くらいか。
早くドリルが終わった人にやってもらおう。

「靴箱をきれいにしたいと思います。でも、今、ドリルをしている人にはお願いできません。ドリルが終わってしまった人に、やってもらいたいのです」

やりたい人!と言って、だれもやらないかな、とふと思ったが、杞憂だった。
「あ、おれ行く!」と十数人の手が挙がる。

すごぉーい・・・。ホント?と思いながら、指名してやってもらう。


やり方。
最初に、ミニほうき係が、ミニほうきとちりとりを持って、細かい砂を取る。
そのあとを、最初の水拭き係が、濡れ雑巾を固く絞って、ふいていく。
次に、乾いた雑巾係が、かわいた雑巾で拭いて行く。

この3人1チーム、を結成して、横列でやっていってもらうことにした。
縦方向だと、人間同士が混雑するからだ。

そうしたら、一度も見に行かなかったが、あとで見たら、ものすごいピカピカ。
驚くほどだった。


何がよかったのか。

・・・それは、分からない。
こうかな、ということは、ある。
しかし、それはほんの、ささいな、一部のピースでしかない。


指示がよかったのか。
趣意説明がよかったのか。
事前に、カルタで遊んでいたので子どもたちの機嫌がよかったのか。
指名したのが、まじめな子だったからか。
ドリルを終わった子だけ、という限定がよかったのか。
プライドをくすぐったのがよかったのか。
やり方がよかったのか。
やり方の説明がよかったのか。
横移動がよかったのか。
中休みの前で、終わらせよう、という気になっていたのか。


答えは、一つではない。
原因は、特定の何かに、収斂されるものではない。
「靴箱が、ぴかぴかになった」という現象が起きた、その原因は、○○だから、というある一つの特定の事象に決めることができない。
Bという現象の原因を、Aだから、という一つの理由に結びつけることはできない。


この薬を飲むと、やせますよ。

Bしたければ、Aをすると、よいですよ。

Aをする、というのは、ごまんとある原因の、ある一つの要素にすぎない。
それを、Bという現象を、引き起こした、たった一つの原因、あるいは主原因だ、と決めつけることはできない。

しかし、世の中の広告の、多くは、

この薬を飲むと、やせますよ、という種類のものが多い。

すなわち、Bしたければ、Aをせよ、という類の、文句が多い。

そうではないはずだ。
Bという結果にいたるまでの、道筋は、一つではない。
それぞれのピースがうまくはまって、結果が生まれるのだ。
そのピースが、多く見える場合と、そうでない場合とがあり、だから、同じようにやったつもりでも、あらわれてくる結果が異なるのだろう。

同じ、
「上手だネエ」
というセリフにしても、
言い方、微妙にちがうはずだ。
それは、言葉、あいうえお、は同じでも、
イントネーション、情感の込め方、間の取り具合、表情、大きさ、呼吸との関係、身体の動作、その後に続くセリフ、発せられるタイミング、直前の指示、すべてが少しずつ、異なるのだ。

だから、あの人と同じように言っているはず・・・でも、ぜんぜん、違っている。


考えてみれば、当たり前のことだ。


Aをしたから、Bとなる。

すべて、世の中のことは、そんな、単純なものでは、あるまい。