初任の先生と話す機会があった。
6月の後半、そろそろ1学期のまとめに入ろうか、という時期だ。

以前、崩壊寸前の学級を任され、保護者からクレームが来て苦しんでいた同僚のことを書いた。(授業の進度が遅いというクレーム)
そのとき、

「手綱をしめる」という言葉が出た。

苦しんでいる同僚ではなく、他の初任者の言葉だった。

教師をあたかも友だちのように考えて接する子ども。
けじめのない、礼をわきまえない児童に対して、

「けじめをつけようと思って、4月の最初からぐいぐい手綱をしめてるんですよ」

ということだった。
2年生の担任で、厳しすぎるかな、と思いながらも、前年に臨時任用教諭として崩壊間際に至った苦い経験から、そうしている、と。

それを聞いた6月の下旬に感じたのは、
「そうだなあ、崩壊しないためにも、けじめをつけるためにも、手綱を締めなきゃナア」
ということだった。


ところが、昨日あたりから、どうも感覚が変わってきた。
それは、

本来、学級経営とは、あるいは子どもに対して、
「手綱を締める」
ということが、フィットしないのではないか、という感じ方だ。

この感じ方が、自分では初めてだったので、ちょっと記録しておく。


それは、たとえば集会の時の整列。
頭がふらふらしたり、おしゃべりをしていたりする子。
あるいは、しっかりと並ばないで、遅刻する。
並ぶのに時間をかける。
そういった子たちに対して、「手綱を締める」というわけだが・・・


野放しにするのではない、という意味では、それはそうだ。
注意をするし、何がふさわしい行動なのかを教える、ということもある。
立たせて、これから気をつけます、の一言くらいは言わせるだろう。

しかし、こうしたことを、「手綱を締める」というだろうか。

何か、違う気がする。

これは、当たり前のことだ。
別に、締める、でもなんでもない。
注意をして、気をつけます、と言わせたあとは、すっかり何もなかったかのように、にっこり笑って授業がスタート、だ。


ここまで書いてみて、わかった。
「手綱を締める」という表現に、こだわっていたのは、自分だ。
あたかも、怖い顔をして、つねにピリピリと注意をしている教師像を思い浮かべていたが、「手綱を締める」というのは、必要なときに、必要な指導をする、ということなのだろう。

・・・

しかし、そうであれば、教師は必ず、常に、一年中、手綱を締めているのが当然、ということになる。手綱を締めたり、ゆるめたりする、ということが、無い、「ない」、のが本当だ。

緩めることは、ゆるされない。
逆に言えば、手綱を締める、ということなど、わざわざ言う必要のないことだ。
教師として、当たり前の姿勢だからだ。


結局、手綱を締めたり緩めたりする、ということが重要なのではなく、
必要なことは注意するし、注意するとき以外は、楽しそうに授業できるのが本当なのだろう。

「手綱を締めていかないとね。とくに学年のはじめのときにはね」

という会話に、ふむふむ、とうなずいていたが、今はそれには違和感がある。

「手綱は必要なときには締めるし、そうでないときは緩める」

いや、クラス全員に対して、手綱を同時に締める、緩める、という場面も少ない気がする。

いつだって、まじめにやろうとしている子はいるだろうから。

となると、手綱、という表現自体が、違和感のあるものとなる。

一人ひとり、必要なときには注意をする。

それだけ、という気がしてきた。