物を投げる、という態度を、きびしく戒めている。

なにもそこまで、という意見もあるかもしれない。

だが、教室の中で、物がとぶ、という状態が、ふつうではない、という気がしている。

最初、ケシゴムのカスが、飛んだ。

すぐに立たせた。
なにをしたのかを確認し、クラスのルールとして許さない、ということを伝えた。
趣旨も伝えた。

手から離れたものは、どこへ飛んでいくか、コントロールすることができない。
とっさにそこへあらわれた、友だちの目に入ることだって、ある。
危険なものが飛んでいた場合、一生をつぐなうことにだってなる。

目から血が出たときの話をする。
何も見えなくなる。
角膜が傷つき、角膜を交換するために膨大な順番待ちがあることを話す。

一番傷つくのは、投げた本人だ、ということを告げる。

また、物を投げる、という行為が、その人の心の質を落としてしまう、ということを話す。
球技やボールを広い場所で投げる、ということではない。
教室で、みんなのためにあるもの、みんながお勉強する為に用意されたもの。
それを投げるということは、物の背景にある、多くの人の願いを馬鹿にすること、ふみにじること。
それを感じていないにしても、自分では気がつかないでも、心の質が、落ちて行く。

という話をする。


こうして、4月、5月、とすぎてきた、昨日。


中身のない、給食着を入れる袋が、ふぁーん、という感じで、教室のうしろを飛んだ。

目撃し、すぐに子どもの動きを止めた。
「今、なにかが飛びました。ナンですか」

動こうとする男子の、身体の動きを制する。

「止まりなさい。だまって、こちらを見なさい」

「もう一度。・・・なにが飛んだか、分かる人、いいなさい。」

すると、こんなふうに声がした。

「Tだって、やったよ!」


出た。
あいつだって、やったよ、だ。

窮鼠、猫を噛む。

自分の不利を見て取ると、がまんができず、公平さを求めるのだ。

待ってました。
これを、待ってた。

「Tさんが、何をしたのか、Kさん、言いなさい。」

「Tくんが、最初に、落ちてた袋を、投げました」

「そうか。Tくんが、最初に投げたんだね・・・。Tくんが投げたのを、他に、見ていた人はいますか?・・・ははあ、何人かいるみたいですね。ところで、Kさん、あなたは投げたのですか?」

「・・・はい」

「Tさんと、Kさんが、投げたのですね。Tさん、投げましたか?・・・はい。他にはいませんか。」

「いません」



おそらく、あいつだってやったよ、という言い方は、悲鳴に近いものなのだろう。
自分がやったことを暴露しながらも、捨て身になって、全体の処罰の公平さを求める、ということなのだ。
これが出ると、カタがつくのが早い。

けんかなどでも、事実をジリジリと詰めて行く途中で、ぽろっと、このセリフが出てくることがある。
そうなると、事実が見えるのはもう、間もなくだ。


「あいつだって、やったよ!」
が、以前はいやだった。
仲間を非難する前に、素直に自分の非をわびるべきだ、と思っていたからだ。
だが、よく考えてみると、今やりたいのは、子どもの非を責める前に、事実を明らかにしたい、ということなのだ。
事実を明らかにする前に、叱ったり、非を責めたりすることは、まずい。
それに、
こちらは、子どもが一見、素直そうに謝る姿を見たい、のでもない。

まちがった行動や社会的に迷惑な行動を、是正したい、正しい姿を伝えるのが叱る目的だ。

「Tくんもやった」というセリフは、事実を明らかにするためにこそ、扱うべきである。
さらに、事実を明らかにする為に、とても大事だし、活用できる大切な証言である。
「きちんと、言ってくれたな」と、という感じさえしてくる。


・・・と考えてくると・・・、

「Tくんだって、やったよ」
「TくんのことはあとでTくんに聞きます。あなたはどうなの!」

という対応では、「Tくんだって、やったよ」というセリフを言ったこと、すなわち、セリフを言う行為を自体を叱った、感じ・・・になってしまう。
だから、目的にそぐわない。


「Tくんだって、やったよ」
「Tがやれば、あなたもやるんですか!人のことを言う前に、自分のことをしっかり反省しなさい!」

という対応でも、その「Tくんだって・・・」のセリフを言う行為そのものが、非難されている。
これは、見当違いだろう。


・・・と考えて・・・

「Tくんだって、やったよ」

この手の報告、このタイプの証言については、ああそう、というふうに聞いて、すぐにそこから、事実を明らかにするのがよいと考えるようになった。