個人面談。
いったい、どうしたらよいのか。
母親が、目の前に、小さなペットボトル容器を差し出した。
「これ、家で使っている水なんです」
この方の面談時間も終わりが近くなり、あとは算数の勉強の話などして、そろそろお終いにしよう、と考え始めた矢先だった。
コーチの鞄から取り出した、その容器を前に、なんじゃこりゃ、理科の実験で使うのかな、とのん気なことを思った。
すると、お母様の口が動いて、こんなふうに言うのが聞こえた。
「これを、給食にかけて食べさせたいんです」
いつものくせで、すぐには反応、即答しない。
深くうなずきながら、話を聴いている。
できるだけ、共感したい、との思いからだ。
言葉をえらぶのは、たしなみだし、教師の良心だ。
頭が混乱した。
「ほー、そうですか」
(いつもの口癖だ)
頭がまっしろになる。
「・・・ということは、・・・・水かかって、水びたしになるんじゃ・・・」
と言いながら、馬鹿みたいな返答だな、しまったな、と思っている。
ピンクのブラウスに、大き目のブローチをつけ、それに似合う大きな目をくりくりさせながら、母親が身をのりだしたのが分かった。
「ええ、そこまでふりかけなくても、効果があるんですよ」
舌なめずりこそしなかったが、母親の説明意欲にスイッチが入ったらしかった。
それから、3分間、この水の、すばらしい効果が語られた。
・保存料が無害になること
・添加物が無害になること
・おいしさが増すこと
・健康になること
「・・・ほー、そうですか・・・」
また、言った。
それから気を取り直して、
「なるほど、そうして小さな容器に毎日入れて、持参されるわけですね」
「はい、もう本人も分かっていますから」
「給食のたびに、水をかけたかどうか、聴いてみることが必要でしょうか」
「いえ、それは大丈夫です。本人が勝手にやるので、先生のお世話は要らないと思います」
そこまで話して、次の疑問が湧いた。
「それを毎回取り出してふりかけている姿をみて、おそらく他のお友だちが興味をもつと思います。中には、ひやかすような言葉をかけたり、なんでそんなことをするのか、としつこく尋ねる子もいるかもしれません。ちょっとそのあたり、心配ですね」
「ええ、そうしたら、その子にも、かけてあげていいです。これ、いい水だよ、と教えてあげたらいいんじゃ・・・」
「ああ、本当にいい水だ、ということなんですねえ・・・。しかしまあ、給食については、保存料についても、添加物についても、安心なようにつくられていますので、ご心配はいらないと思います」
「まあ、そうは思うんですが、たとえ微量であっても気にはなるので、やっぱり水をかけてやりたいんです」
遠まわしに、そんなことはやめてほしい、と伝えているつもりだが、通じない。
「保存料を無害にするため、ということでS君が納得しても、周囲のお友だちはなんでわざわざ、と不思議に思うでしょうね。ぼくの食べているのは、おかしいのかな、水をかけないといけないのかな、と」
「ええ、できたら、みんなもかけたらいいのに、と思っています」
ここまで話して、どうして、自分は、この件について、やめさせたい、という気持ちが強く湧いて来るのかな、と思い始めた。
要するに、教室の中で、一人だけ変わったことをする、という状態になるのがいやなのか。
あるいは、S君の行為の前提としてある、
「みんなの食べている給食は害がある(かもしれない)」
というような感じ方が、いや、なのか。
給食は、安心だよ、みんな、そのまま、何も疑問を持たずに、食べたらいいよ。
できたら、そう思いたい。そう、子どもたちには言ってやりたい。
S君の行為を認めたら、そんなセリフは言えなくなりそうだ。
「給食に、ケチをつけるな!」
というのが、今の自分の正直な気持ちなのかもしれない。
S君の行動が、拒否したくなっている。
しかし、S君の行為は、給食にケチをつけるのではない。
不安を解消したいのだ。
まるで、おまじないのようなものだ。
・・・と、そう考えたら、気が楽になるだろうか。
給食の食べ方に、二通りある。
害があるかもしれない、と考え、おまじないをして、食べる、食事法。
もう一つは、
無害だろう、と考え、そのまま信頼して食べる、食事法。
あ、もうひとつ、あった。
害があるか、無害なのか、よく分からない。
だが、そんな調べようのないことにこだわることをやめ、ただ、ありがたく、いただく、という食事法。
害があるか、それとも、ないか。
あるかないか、の土俵には乗らない。そんなことでの討論には参加しない。そんな試合にはでない。
害があろうがなかろうが、今、食事のできる幸せをひしひしと感じつつ、ありがたくいただく。
味わっていただく。
食事の背景を知り、生命のありがたさを思い、農家の営みをイメージし、調理の風景を心に思い浮かべながら、あじわっていただく。
子どもたちを守り育てるには、こうした指導が必要なのだろう。
食事自体が、食事行為そのものが、豊かであれば、水かけ問題も、気にはならないし、次第に雲散霧消するのではないか。
なによりも、親に言われて、水をかけずにいられなくなっている、その子が。
魔法の水をかける必要のない子に育っていくのではあるまいか。
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(※以下、2011年3.11 福島原発爆発以後に追記)
(放射能を気にしなくてはいけない時代になったので、そもそも給食を食べない、という選択肢も当然あります。それは事が事ですから、お互いに認め合えるようにしていくのがいい。おまじないの水もいいけど、そもそも食べない、という選択肢はとても明確でいい。放射能は数値で出てくるのだから、科学的だしね。心配なら調べればよいのだ。で、その数値を見て、いや、やめとく、というのか、まあ、いいだろう、というのか。それは親と本人が判断すればいいことだ。どちらにしても、判断の根拠や、行動・考えについて、Aがいい、Bがいい、とどちらにしても好きなことをすればいい。まったく否定は要らない。)
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