思うところがあり、近くの保育園へ出かけ、園長先生と話した。

ゆったりとした園庭。
にこにこした園長先生。
笑顔がとびきりだ。

この笑顔で迎えられたら、子どもたちもさぞうれしいだろう。
プロの笑顔。
昨年、40周年を迎えられたそうだ。
10年間の無認可期間を経て、苦労して、この園を育ててきたのだ、ということだった。

園をつくってきた、という自負がある。
自信と、学ぶ姿勢が共にある。そんな園だと感じた。

園児が食事をする場所に案内された。
広いテーブルに、大皿。
みんなで取り分けて、いっしょに食事をするという。
お茶をいただきながら、園の話、それから卒園生の話をお聞きすることができた。


「私も、小学校の先生と話をしたかったのよ」
と、気さくにお話をしてくれた。
ありがたかった。


園長先生が、今一番気になるのは、「気になる子」たちの5月、だそうだ。


3月、保育園の卒園式。
みんな晴れがましく、卒園していく。
どの子も、精一杯の成長をなしとげて、保育士や保護者の愛情をたっぷり受けて、たくましくなり、卒園していく。

しかし、5月になると、気になるニュースが舞い込む。
園の電話が鳴り、

「朝になると、登校をしぶるようになったんです・・・」
という、保護者の電話。
誰にも相談できない悩みを、なつかしい保育園の園長に相談しようとするのだろう。


「どんな問題のある子でも、多動の子でも、自閉症かな、と思う子でも、園ではたっぷりと面倒を見る。どの子も、ここの暮らしを味わっている。そして、祝福されながら、卒園していく。だって、大きくなることは、うれしいでしょう。小学校へ行くんだ、といって、胸を張って卒園して行くんですよ。だれだって楽しみにしています。それが、5月になると、きまって妙なニュースになって、耳に入るようになるんです。学校が楽しくないって、朝になると暗い表情になるとか、行きたがらないとか・・・」


お聞きしながら、うーん、そうですか・・・と黙るしかなかった。


楽しみにしていた学校が、楽しくない、というのだ。

保育園とはちがう。
生活がちがう。
くらしがちがう。
スタッフの人数がちがう。
先生と生徒の割合がちがう。
スケジュールがちがう。
カリキュラムがちがう。

ちがう、を挙げたら、キリがない。


だから、小学校では、そこまで面倒が見切れないんですよ。
小学校では、できることしか、できません。
できないことは、できないんです。

そう、言うしかない。


しかし、・・・そう言いながら、歯軋りをする。



卒園式のビデオを見せてもらった。
園児が、先生たちといっしょになって、歌い、おどっている。
卒園のシュプレヒコール、歌、リズム・・・。

「○○小学校へ行きます!」

晴れがましく、大きな声で、一人ずつ、宣言するシーンがあった。
どの子も、誇りに満ちた顔だ。
いい顔、というのは、こういう顔だろう。


この顔を、暗くさせることの罪。
子どものせいに、してはならない、と思う。

行きにくさは、すなわち、生き難さ、なんだろう。
学校という巨大な装置の中で、暮らしていくことについての、大きな困難が、あるのだろう。
困難を、その子のせいにして、知らんふりを決め込むのか、どうか。

周囲の理解が、何より必要なことだ、と佐々木正美先生はおっしゃる。

特別支援学校が手一杯でとりこぼした子を、特別支援学級が引き受ける。しかし、そこでも「手一杯」で、こぼれおちた子がいる。
それは、通常学級にいる子だ。
どの学級にも、いる。

その子たちが、耐えられる学級、授業、行事、を組み立てていかなければならない。

まず、学校の行事を減らすことだ、と思う。
多くの発達障害児のために、日々の変化をできるだけとりのぞいた教育課程をつくることだ。
これができないと、
「まず、子どもありき」
の学校にはならないのだろう。

さて、10年後、この文章を、自分自身が、どう読み返すのだろうか。
悔し涙で読み返すのか、それとも、別の感慨をもって、読み返すことができるのだろうか。