前述の、著書を読み込んでいる。

「発達障害の子どもたち」杉山登志郎・著

泣けてくる。

P206

「通常クラスには参加できない高機能自閉症の児童の保護者が、ようやく特別支援クラスへの転級を納得したが、実際に行かせてみると個別への対応は何もなく・・」

個別の対応がないのである。

「多動で言葉もない子どもに、体力のないお年寄りの担任が完全にかかりきりで、また挑発を繰り返す別の多動児が他児にいじめを繰り返すのを担任は止めることもできず、特別支援クラスが学級崩壊状態であったという例・・・」


二回、泣けてくる。
一つは、このような現状が事実ある、ということ。
二つ目は、特別支援級では多動児の面倒を見切れない、という理由で(!)、特別支援クラスから通常級へ戻される自閉症児がいる、ということだ。


二つ目の例は、この著書には書いてない。あまりにも非常識なので、著者の杉山氏もご存知ないのだろう。わたしの近隣校の先生に伺った実際の事例である。


悲劇なのは、この児童であり、両親である。
こうした児童に対して、何をしてよいか混乱している学校と、地域である。
特別支援にエネルギーをかけるべきだ、と感じている人は多い。
教師もほとんどがそうだろう。
なのに、そうならない。
歯軋りをしながら、毎日学校へ通う教師が、不幸だ。

不幸な教師をかかえた、国こそが不幸だというべきだが、国は責任を放棄しているようにさえ見える。だから、弱い。

責任をもたないという姿勢は、弱いのだ。
弱いから、見捨てられる。
人心が離れる。

人の心が離れると、国は、崩壊していく。
国の歴史が後退する。

たとえば、特別支援学校をなぜもっとつくらないか。
充実させないのか。

教育はあとまわし、でよいのかどうか。
人間は、こんな程度なのだろうか。
あまりにも、さびしいではないか、と思う。