周囲の先生に、どう見られるかが気になる。
校長先生にはどう見られるだろうか。
教頭には?
隣のクラスの学年主任には?
他の学年の先生には?


そういうことを考えることで、余計なエネルギーを消費し、疲れている気がする。
そのことが、子どもにはねかえってしまう。


子どもがさわいでいると、隣のクラスに申し訳ない、と思うし、
朝礼で、しっかり並んでいないと、正直、やばいな・・・、と思う。
他の大人の視線が気になる。

だから、子どもを叱る。

本当は、
「たのむから、やめてくれ!しずかにしてくれ!」と叫びたい。



・・・・・

たぶん、こういうことが、バックボーンにあって、
それで、子どもをしかる、ということがあるように思う。


なんのために叱るか。
目的が、ぶれている。
子どものためではなく、自分の為でしかない。自分の評判のために、子どもを叱る。
子どもを、自分をよく見せるための道具に利用している。
だから、まったく本当の行為でなく、何の益もない。

はやく、こんな叱り方から、足を洗いたい。


なんのために叱るか。
自分の為でなく、子どものため。
子どものために叱る、とは、どういうことか。

早くしなさい、ぐずぐずしない!すぐに並びなさい!
きちんと全部、最後までやりなさい!
静かにしなさい!
廊下は走らない!


これらはすべて、
廊下を走ったらあぶない、すぐに並ばないと時間がない、
最後までやらないと他の子と差がついてしまう、静かにする癖をつけないと・・・
という親心。
教師の愛情のつまった言葉だ。

・・・と、思っていた。



しかし、こうした言葉の、原点が、どうなのか。
もしも、自分の評判を気にする姿勢が原点にあるのなら・・・
いったい、これらの言葉が、子どもにどんな影響を及ぼすか。
敏感な子どもたちは、きっと、なにかを感ずるだろう。
それが積もり重なって、教師との間に、信頼が築いていけるだろうか。

言葉の原点。
叱るとき、叱り言葉の、背景にあるもの。
表にはでないから、子どもにはわからない、というのはウソだ。
子どもは、何でも知っている。

何のために、叱るか。



「叱るのは、ほめるために叱るのだ」

という言葉に出会って、アリャ、と思ったことがある。

おっしゃったのは年配の先生で、なにかの会話の途中で、ひょい、と出てきた言葉。
でもそれが、頭の中で、何度も響いた。