自分は幸運なことに、20代の大半を、田舎で過ごしていた。

いちぢくの木を間近に見る暮らしだった。牛のうんこを掃除する体験も、ある程度、積んだ。牛に小便をひっかけられそうになり、慌ててよける技術や、牛が便意を催した瞬間の気配までも察知できるようになった。

牛は、うんこをする直前、ひょいっと尻尾を持ちあげる。うんこが跳びはねて、自分の顔についたら、どんな気分になるのか。それだって、幾回も体験している。はっきりと正直に申し上げると、それがとびちった瞬間に、うしのしっぽの振り子運動によって、自分の口に直接飛び込んできたこともあった。
田舎には、畑や牛舎や鶏舎などがある。たまに野良着になって、草引きをしたりもした。

こういう状況に身を置いたことで、最近ようやく、あのクラスメートの気持ちを受けとめられる気がしてきた。
嬉しそうに「家(うち)でとれたから、どうぞ」と実を差し出す、その心が痛いほど嬉しいし、伝わってくる。あのとき、なぜすぐに「ありがとう」と言えなかったか。

今、こうやって、二十年以上も後になってようやく、それを悔やむ。
あのときの「田舎くさいなあ」という軽蔑するような気持ち、あれはどこから湧いた感情だったか。

ともすれば、泥臭さを消そうとする自分。その高慢な感情は、どこからきたのだろう。 自然に対しても、人間に対しても、根本は同じなのだろう。自然に対してプライドをちらつかせていた私は、友人に対しても、世間に対しても、同じように高慢であったにちがいない。

いちじくには、うまい、と叫んで、瞬時にむしゃぶりつくべきだったのだ。簡単なことだったのだ。
なのに、それができなかったのは、私が本当のいちじくの価値を、知ろうとしなかったからだ。私の頭の中は、あまりにも他のことで忙し過ぎたのだ。(いちじく・完)