頑張って勉強することだ、と理想に向かって自分自身の中で緊張を高めていった。
立派な人格者であらねばならない、勉強しなくてはならない、努力しなければならない、と思い込み、ひたすらその道に邁進した。

たえず、自分をみがき、自分自身に対して努力を強いた。そうしているうちに、肩こりも始まったようであった。

社会の価値に同調し、それの実現にむけて自己を強迫する。私の青少年期の生き方は、まさにそうだった。社会が認める価値しか、目に入ってこなかったからである。他にまったく別の価値観があるなどということなど、当時の私がどうやって知り得たろう?

落ち着きがない、協調性が足りないという指摘もあったが、自分では一生懸命社会の価値に同調しているつもりだったのである。だから、協調性がないとか自己統制できない、という、なんらかの欠落を指摘されると非常につらい思いがした。一生懸命やっているのに、この上なにが足りないというのか、と叫びたい気になった。

私にはむしろ、社会の一般的な価値に自分をあてはめようとしすぎた、その過剰さの方が問題となっていたのではないかと思う。自分がお調子者であることや、生来のノリの良さ、その辺をもっと自覚していたら、肩こりにもならなかったような気がする。

足りなさを指摘されるだけでは見えなかったものが、過剰さ、というふうに言葉を代えてみると、まるで言葉の補助線をひいたように、それまで見えなかった問題が浮かび上がってくる。私にとっては、過剰さの方が深刻な問題であったのだ。(つづく)