掃除の時間。

今日は午後に、地域の新入生児童(現幼稚園児)と保護者の会がありました。
保護者が学校の説明会に出ている最中、新入生となる児童を、1年生のおにいちゃん、おねえちゃんたちが、けんだまや折り紙、あやとり、お絵かきなどでお世話することになっていました。

午後にこの企画があることもあり、そうじの時間をなんとか早く切り上げたい気持ちでした。
いつもそうなのですが、今日はいつもにも増して、私ががんばって教室のゴミをほうきでかき集めていました。そのとき、

「先生はなんでそんなに、ぜんぶやっちゃうの?」

ほうきをもって、やる気でいた女の子から、声がかかりました。

それまで、長い柄のほうきを、ゆっくり動かしている児童の様をみて、私の心境はこうでした。

「そんなちんたらやっていたら、ぜんぜん終わらない。私がどんどん進めてしまおう」

しかし上述のセリフをきいて、「しまった」と思いました。

もし、急いで掃除をする必要があるのであれば、そのことを児童にも伝えるべきだったかと思いました。児童もなぜ先生がそれほど急いでいるのか、意味が分かっていたなら、まったく違った感想だったかもしれません。

自分がなにを進めようとしていたのか。

ごみのない、きれいな環境で児童が過ごす、ということは一面、もっともなことです。
それと同時に、その環境を、児童が自分たちでつくろうとしている気持ちがある、それをまた伸ばしていくのも大事。
時間がないからやってしまう、というのは一見もっともな理由のようで、目的と照らし合わせれば、教師の側の都合でしかないのかも。

それよりも、なにか、自分から発しているナンらかのサインを、子どもが受け取ったのにちがいありません。
「じゃまだよ!そんなにゆっくりやってたらジャマ!」
もしかしたら、そんな雰囲気がセリフにならずとも伝わっていたのかも。

児童はそれに反応したのでしょう。
おそらく、わたしはここにいるのよ!無視しないで!という気持ちだったと思います。

児童と共に掃除をしている。
それがどういうことか。
「共に」、の中身が、どうなのか。

児童にとって、掃除の時間に教室にいる先生というのは、どう映っているのだろう。
いっしょにやってくれている先生なのか、注意するためにいる先生なのか、そうじして床をきれいにしようとナゼか必死な様子の人、でしかないのか。

目の前で柄の長いほうきを持った子。
ゆっくりと動かしながら、ごみを集めようとしている子。
ちりとりの子に、声をかけて、それをとろうとしていた子。

そこに、いきなり得意げに現れて、時間がない、と大人の都合でごみをかっさらっていってしまった邪魔な先生は、早々にクタバッてしまって、然るべきでしょう。

・・・そうじの時間だけじゃないかもしれないな・・・。おんなじようなことが・・・。