30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。

2026年06月

怒りという「通貨」


本来、人間の感情にはそれぞれ固有の応答があります。


不安には、安心を与えること。
悲しみには、慰めること。
恥には、受容すること。
無力感には、支えること。

しかしある家庭では、これらすべてに対する応答が「怒り」でした。

泣いたら、怒られた。
怖がったら、怒られた。
寂しがったら、「甘えるな!」

つまり柔らかい感情はすべて「悪」とみなされる文化です。

この環境で子どもが学ぶのは、こういうことです。

柔らかい感情を出す → 叩かれる。
怒りを出す → 相手が動く。

ここで怒りは「通貨」の役割を獲得します。

怒り=通貨、の力学が、あるのです。

通貨とは何か? 相手を動かす交換手段だ、ということ。

お金を払えばモノが手に入るように、怒りをぶつければ要求が通る。

相手に言うことを聞かせたい → 怒る。
状況を変えたい → 怒る。
自分の正しさを証明したい → 怒る。
不安を黙らせたい → 怒る。

ネジも、釘も、ボルトも、ハンマーで叩く。
食事も、交渉も、愛情表現も、すべて「怒り」で支払う。

この人にとって怒りは感情ではなく、万能の道具であり、唯一の社会的資源です。

だからこそ怒りを手放すことは、この人にとって「財布を捨てろ」と言われるのと同じ恐怖なのです。

怒りがなければ、誰も自分の言うことを聞かない。
怒りがなければ、自分は無力なまま放置される。
そう信じている。

しかし、世の中には通貨がなくても成り立つ関係があります。

それは信頼関係です。

信頼関係とは、こういうことです。

黙っていても、相手は去らない。
弱さを見せても、叩かれない。
頼んでもいないのに、支えてくれる。
「怒り」を使わなくても、自分の存在が尊重される。

ここには取引がない。
だから通貨が要らない。

お金が不要な関係——つまり「怒らなくても大丈夫な関係」の中では、怒りは万能通貨の座から降り、数ある感情のうちの一つという本来のポジションに静かに戻ります。

怒りが「たまに登場する一感情」に過ぎなくなったとき、ようやく他の感情たちが息を吹き返します。

「あ、自分は今、不安なんだ」
「これは悲しみだったんだ」
「本当は、助けてほしかっただけだ」

「なんで腹が立つのか」という問いすら必要なくなる。なぜなら、腹を立てて何かを勝ち取る必要がそもそもないからです。

怒り=通貨の世界では、こう回ります。
要求がある → 怒りで支払う → 相手が従う → 「成功体験」 → 怒りへの依存が強化される → すべてのコミュニケーションが「取引」になる。

信頼=通貨不要の世界では、こう回ります。
気持ちがある → そのまま出す → 受け止められる → 怒りで支払う必要がない → 怒りは本来の小さなポジションに戻る → 感情の多チャンネルが回復する。

つまり、こういうことです。

怒りが通貨である人は、すべての人間関係を「市場」として生きている。常に何かを支払い、何かを勝ち取り、損得を計算している。

信頼の中に生きる人は、人間関係を「家」として生きている。家の中では、お金を払って居場所を買う必要がない。ただ、そこにいていい。

怒りを手放すとは、「通貨を捨てる」ことではなく、「通貨がなくても自分は大丈夫だ」と知ることです。

IMG_7749

「怒り」は強さ・・・という思い込み

怒鳴ることが強さの表明だ、と、勘違いしている文化について。

相手に共感する事は、弱さの表明だと思っている人が、います。

逆ですよね。

相手の気持ちに寄り添う事は、自分の感情を大切に保持しながらも、相手を受け止めようとするわけで、強いわけです。

これはちょっと、人によってはキツイ話ですが、相手に共感したら負けなのだ、という心的状態である方もあります。
ずっと感情的になって、子供を叱り続けてきた経験を持つ親にとっては、これを受け入れるのはかなりきつい。

共感する
→ 子どもの痛みが見える
→ その痛みの原因が自分だとわかる
→ 自分が「加害者」だったという事実
→ 自己像が崩壊する
→ 耐えられない
→ だから共感しない

体罰と怒声罵声で後輩をしごき上げる有名なスポーツクラブがあったとしましょう。これはなかなか変わらないと思います。残念ですが。

それは何故かと言うと、後輩の気持ちに共感したら、自分が加害者だと言うことがわかってしまうわけですから、耐えられないわけです。だから決して共感はできないんじゃないかなと思います。

元巨人軍の、桑田真澄さんがいますが、桑田さんは、この状況をなんとか変えようとしていろいろ発言されておりますね。

最近の教育心理学研究によれば、結局共感能力が育たないのは、以下の図式のようです。

自分が共感されなかった(幼少期の欠損)
→ 感情を識別する能力が育たなかった
→ 感情=排除すべき問題、と学習した
→ 共感=弱さ、と信じるようになった
→ 共感しないことが自己防衛になった
→ 子どもに対しても共感できない
→ 子どもも共感を学べない

ということのようです。


柔らかい感情は、どうも、「弱い」と勘違いされやすいのかも?

相手の気持ちをしなやかに受け止め、相手の感情に共感する行為は、決して、「弱さ」では無いのですがね。


FullSizeRender

〇〇であるべきだ、の論調

「〇〇ちゃんが、⬜︎⬜︎すべきでしょ!」

これ、小学校3年生の発言です。
私は、混乱して不思議な気持ちになりました。
9歳でも、〜するべき、という、【言い回し】をするんや・・・

私は、ここでちょっと、気を引き締めないとなと思ったのを覚えています。つまりこういう言い方をする子は、何かしらの救助要請サインを出しているわけですよね。そのサインをしっかり受け止めないと、と。

大人の世界でも、〇〇すべきだ、とか、〇〇であるべきだと言うことがありますよね。

この言い方をする場合は、かなり精神的には弱い状況であることが想定されます。何かストレスを感じていたり、心的不安を抱えていたり、無力感を抱えている場合に多い言い回しだと思います。

「〇〇であるべきだ」

これは合理的精神とは呼べません。
〇〇であるべきだ、と、いうものが、先に来てしまうと、目の前のことを正確に正しく把握する必要がないと言う状態になるからです。

目の前のものが、丸であろうが、三角であろうが、そんなものはどうでもよくて、「四角であるべきなんだ」と言えば良くなってしまうからです。

自分のクラスメートに対して、
「〇〇くんは、⬜︎⬜︎するべき」
と高々と宣言をする子。

この、9歳の子も、結局はこのロジックの罠に、ハマっております。自分では気がついていないんですけどね。

合理的精神と言うのは、丸のものを丸だと認識することです。三角ものを三角だと認識することです。合理的精神はまずそこから始まるのです。

物理的な事だけではありません。人間の感情も、そうです。

さて、ここからが人類の大きな問題に差し掛かるんですナ。なぜなら、感情と言うのは自分が引き起こしているんですが、それを相手の責任だと、感じることがとても多いわけです。
具体的には、
「なんで、腹が立つんや?」
ということかと思います。

「自分の感情を相手のせいにする」
のは、なぜか?

私はおそらく30年以上考え続けてるんですけど、今のところこの2つかかな、と。

① 自分の内面を観察する力(自己共感)が育っていない
②「感情は外から来るもの」という世界観を刷り込まれている

そしてこれらはすべて「共感能力」の問題と直結しています。
なぜなら、
他者に共感する力と、
自分の感情を客観的に見つめる力は、同じ能力の表裏だから、ですね。

共感される経験 → 自分の感情を認識できる → 他者の感情も認識できる → 共感できる

・・・ということ。自分の感情を認識できるから、相手の気持ちも認識できて共感できるわけですね。

国語の授業をしていても、読み取りの深さは、ものすごく違うことがわかります。モチモチの木でも、主人公の少年に、うんと共感できる子もいれば、「へえ、大変だったね」としか思わないレベルの子もいます。

感情の認識と言うのは、かなりレベル差がある話、なわけですな。

「共感する」は、なかなか、誰でも簡単にできる話ではない。
それを共感できないなんてと怒るのも、まったくの的外れです。共感できるってエベレストの山を登る位長く過酷なストーリーなんですよ。それを誰でも簡単にできると思ってもらっては・・・


共感するためには:
  ① 自分の感情を正確に識別できる
  ② 相手の感情を正確に読み取れる
  ③ その感情に適切に応答できる

と言うステップが必要になります。

保育園の先生が若いお母さんに向かって、色々と助言しているシーンを見たことがあります。
それはね、保育園の先生は鍛えられてますから、子どもへ共感することができるんですよ。しかし若いお母さんはなかなか共感できないわけです。当たり前ですよ。訓練してないんですから。

子どもが泣く
→ 親の中に不快感が生じる
→ その不快感を処理する能力がない
→ 「この不快感の原因=子どもの泣き声」と認識
→ 「泣き声を止めれば不快感が消える」
→ 「泣くな!」と怒鳴る

どうでしょうか?
コレが普通です。
ただし、訓練次第で、子供の鳴き声は不快にはならなくなります。不快な感情よりも先に、共感が先に来るから、ですね。

というか、「なんで!」というような、相手につっかかるような気持ちが雲散霧消すると、残るのは共感しかなくなります。

IMG_0850
記事検索
メッセージ

名前
本文
月別アーカイブ
最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 累計:

プロフィール

あらまそうかい

RSS
  • ライブドアブログ