30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。

2026年02月

心理的な安全を担保する

叱らないと言う話をしていたら、あるベテランの先生から、心理的安全の担保だね、と言われた。

まあ、そういうことになるか。

心理的安全というのが確保されると、途端に子供たちは生き生きとし、混乱をしなくなります。

ところが、心理的安全が確保されない場合は、おどおどしてこちらを上目遣いに見つめ、指示を待つ格好になります。アンテナをこちらに向けるのがよくわかります。そしてできるだけ何もしないでおこうと言うふうに構えます。

できるだけ何も問題を起こさずにいようというふうな保守的な態度です。下手なことをして、注意を受けないでおこうという感じになるわけです。

大谷選手、メジャーリーグの大谷選手は、できるだけ何もしないでおこうと言う風には考えなかったのでしょう。

心理的安全と言うのは小さなことから始まります。
例えば、子供に予定を知らせると言うこともそうです。
来週はこんなことがあるよから始まり、次のステップは明日はこういう予定だったねと言う確認も、大きな心理的安全につながります。
また、その日の朝になったら3回目ですが、やはり伝えるのです。
今日はこんな予定だったよね。どんなことに気をつけたらいいかなと。

そんな事は自己責任だから、放っておけば良いのだと言うスパルタ方式もあるでしょう。
しかし、できるだけ心理的な安全は、確保してあげるのです。
そうすると、どんどんと心理的安全を与えてくれる人の方に本音を話すようになります。

この人はわかってくれると言うわけです。

本当に大事なことや、自分自身が大事に思っている事は、心理的安全が図られる人の前では話すのです。

ヴィクトール・フランクル(Viktor Emil Frankl, 1905–1997)は、オーストリアの精神科医であり心理学者です。彼は、フロイト、アドラーに続く「ウィーン第3学派」の創設者として、「ロゴセラピー(意味による心理療法)」を確立したことで知られています。

フランクルは、私たちが「自分の人生にどんな意味があるのか」と問うのではなく、「人生のほうが私たちに問いを投げかけている」と考えました。
そして、人間は、人生からの問いかけに対して、自分の人生をもって答えなければなりません。この「問いに答える責任」を負っているという点において、すべての人類は対等であり、一つの大きな家族のような連帯感を持つべきだと彼は考えました。

そう考えると、教員も子どもも、その意味では、等しく、学びの途中であるわけです。

人生からの問いかけ、に答えるために、人間は等しく自分に与えられた時間を使って良いのです。
そのために大事なのが、心理的安全と言うわけです。

つまり、心理的安全がなければ、心理的安全が与えられなければ、人間は、問いに答えることができないのです。問いに対しての答えを忘れてしまうのです。と言うよりも、問いかけられていることそのものを見失ってしまうのでしょう。

子どもにとっての時間は、自分自身の「問い」を探し、不器用ながらも応答の練習をする時間。
教員(大人)にとっての時間もまた、完成された存在として振る舞うためではなく、自分自身もまた「人生から何を問われているか」を更新し続ける時間。

心理的安全がある場所では、この「試行錯誤する時間」が許容されます。そこでは「正解」を出すことよりも、自分なりの「応答」を紡ぎ出すプロセスそのものが尊重されるはずです。

心理的安全が脅かされると、人は「自分がどう応えるか」ではなく、「どうすれば安全か」「どうすれば怒られないか」という「反応」に終始するようになります。

• 「応答」:内なる使命感や意味に基づいた能動的な行動
• 「反応」:外部の刺激や恐怖に基づいた受動的な行動

「問い」を見失うということは、自分が人生の主人公(応答者)であることを放棄し、単なる環境の「産物」になってしまうことを意味します。だからこそ、心理的安全を担保することは、その人が「人間であり続けるための権利」を守ることと同義なのですね。

教員も子どもも、互いに「人生の問い」に耳を澄ませる「共鳴者」になれるような空間。そんな場所では、知識の伝達を超えた「存在の教育」が行われるのでしょう。

フランクルは著作「夜と霧」を書きました。

彼が戦後に『夜と霧』をわずか数日で書き上げることができたのも、収容所という地獄の中で、すでにその内容を「生きて」いたからだと言えます。

フランクルは「未来のどこかで、あなたを待っている『何か』や『誰か』がある」と説きました。

• 成し遂げられるのを待っている仕事
• 愛されるのを待っている人間
• あなたの帰りを待っている家族

人生とは、自分が何かをする場所なのではなく、人生から問われていることに対して、人生から期待されていることに対して、私はどのように答えるかを考え、実践する場所だと言えましょう。

私の知人が市会議員に立候補します。
実は、私の知人は、市会議員に立候補する方が多いのです。どの方もリスペクトできる方たちばかりです。人生何を問われていると言う風な視点に立てば、自分がそれに答えるためにと言う気持ちになるのがとてもよくわかります。

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そもそもなぜ教員になったのか

最近わかってきた。
私は教員になることが目的ではなかったようだ。

20年ぐらいやって、ようやく見えてきました。
自分自身が、なぜこの道を歩いてるのか、ということが。

私は多分、ブログを書くということの方が本来の目的だったのだ。
ブログを書く書きたいという思いが、まずは根底にあって、それを叶えるツールとして選んだのが教員という仕事だったわけだ。

だから別に、本当は教員でなくてもよかったんだろう。

20代で、出版社に関係し、新聞作りの仕事をしていたときの事。その時は、これこそ自分の天職だ、と思っていた。
取材をして、写真を撮り、記事を起こし、インタビューをして。そのすべての行動が楽しくて仕方がない。朝もバッチリ目が覚め頭がフル回転。次はどんなことをしてやろうと計画するのがワクワクしてたまらなかった。

この時も、それはただのツールでしかなく、本当の目的は書くためでした。
この世の何かを解き明かそうとして、自分は調べている調査員のつもりでした。書く記事は、その調査の報告でした。
別の惑星からやってきて、この星の調査をしていると言うCMがありました。サントリーのボスと言うコーヒーのコマーシャルです。
Tommy Lee Jonesは、宇宙人ジョーンズとして、この星の生物、人間に関する調査をしているという設定でした。
気分はそんな感じでしたからね。

インタビューをしながら、この人はどうしてこんな風な境地に思い至ったんだろうと言うふうに思うと、どんどんと質問したいことが湧いてくる。インタビューと言うのはそういう仕事でした。それをまた自分が咀嚼し直してから記事にする。

自分の記事が掲載されると、それを何度も読み返しながら、もっとこんなことが聞けたのになぁと言うふうに思いながら過ごすのが極上の楽しみでした。

今子供たちと一緒に暮らしながら調査員と言う私の立場が変わっていないことに最近気が付きました。私は編集者である以前に、また教師である以前に、システムエンジニアである以前に、調査員だったのです。

宇宙科学研究所で勤務している時も、なんでこの人たちはこんなふうにして別の惑星を調査してるんだろうと思いながらネットワークやセキュリティーの仕事をしていました。

ひのとり、とか、ようこう、とか、MUSES-C(はやぶさ)とか、かぐや、とか。
なんでこんなに調査をしているんだろうと言うふうに思いながら、調査をする人たちを調査している感じでしたかね。

最近、私が調査しているのは、人間は、仕事と言うものについて、今一度捉え直したほうがいいんじゃないかと言うことです。
全く掃除をやろうとしていない男の子がいたとします。なんでやらないのかと聞くと、おそらくめんどくさいと答えるようなタイプの子です。
その子はあることをきっかけに、急にお掃除に目覚めて、爆発的なエンジンを持ってお掃除を始めるわけですが、この事は非常に調査の対象になりますね。

脳の仕組みに関係があるんでしょうか?

そういう子たちを、日々見ながら、その子たちの正直な感想や態度や表情などを見ながら、なぜ人間はこういう時にこんな感情に陥るのだろうと言うことを、日々調査しているのが、私の仕事なわけです。

この調査癖(へき)、というのは、私はどうやら生まれながらにして持っていたものと言うよりも、小学生低学年から中学年位にかけて開発されて濃厚に持つようになったと思います。
それが、学研と言う会社が出していた雑誌で科学と学習というのがありました。その雑誌が私に対してものすごく大きな影響を持っていたと思います。これが私の調査癖を、増大させました。

また、もう一つは、光のくにと言う出版社が当時はありまして、その会社が出していた図鑑シリーズの挿絵が素晴らしかったことにもよります。全部手書きの挿絵だったんですよ。昭和の時代ですからね。そしてその絵が、なんとも美しく味のある絵だったわけです。おそらく紙芝居を書いていた人たちが、戦争が終わった後にいろいろな出版社に集められて、ベビーブーム世代のために、挿絵を書いたのでしょう。図鑑の。

一つ一つの挿絵に込められた芸術性に、私は打たれまして、世の中はどうなっちゃってんだろうかと言うふうにページをめくるごとに驚愕したのを覚えています。特に大好きだったのは深海魚ですね。深海魚は年に1回は見に行くほうが良いと思います。この世の中は人間だけでできているのではないと言うことを骨の髄から教えてくれる施設です。

まあ、こういうことが、徐々に徐々に私の中に貯金されていき、今の【調査癖(へき)】になったんでしょうね。

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【祝㊗️】ブログ開始おめでとう。20周年!

今年は、新間草海のブログを開始してからちょうど20年。記念すべき節目の日となりました!パチパチ、パチパチ!


思えば、20年前!
不安いっぱいで始めた教師稼業でしたが、19回の担任を重ねるうちに、チョークを持つ手も、手慣れたものです。

漢字を鏡文字で書くのは、3年目、4年目ごろから急にできるようになりました。

小学校の授業時間は45分ですから、45分と言うタイマーが自分の体の中に格納されたようで、時計を見なくても、45分で話をまとめたくなります。おそらく他の職業になったとしても、例えば営業になったとしても、私は45分たったら自動的に、みなさんトイレに行きましょう、と言って話を終えるでしょう。

1番たくさんブログを記事を書いたのは何年ごろなんでしょうかね?
毎日書いていた時期もありました。
思えば、あの時、私は若かったと思います。

今ではすっかり老いぼれ果て、記事を書くのも大変になってきました。

大体、今の小学校の教員で20年間学校のことを毎日のように記事に書き続けてきた人は他にいるのだろうか。

しかし、このライブドアのブログでも、古参の先生方は、まだ地道に、ブログを書き続けていらっしゃるので、私なんかまだ若造かもしれません。
まだまだ、ハナタレ小僧です。

私のブログを読んでくださっている方に呼びかけて、1泊2日のイベントをやったのも楽しかった思い出です。イベントのタイトルも「叱らない先生を実践する方法」というので、そもそも人が集まるのかどうか、危ぶまれました。しかし蓋を開けたら全国から何人もきてくださり、叱らないと言うキーワードにピンと響いてくださった方がたくさんいたと言うわけで、まぁ今となっては当たり前のことかもしれませんが、20年前は確かに【叱らない】という言葉には、センセーショナルな部分があったと思います。

30代で転職するのは、なかなか勇気の要ることだったのですが、55歳になって振り返ってみると、30代はまだまだ若い、転職も特別なことではない、挑戦してみて良かったと、振り返って思いますね。

なにしろ、当時は教員免許を取るところからのスタートだったのと、既に結婚していて、妻が大学生だったと言う特殊な事情のおかげで、働きながら、給料を得ながら、教員免許を取り、さらに教員採用試験に受かると言う試練があったわけです。

もし独身であれば、試験に落ちても「もう一年頑張ろう」という選択がしやすいかもしれません。しかし、家庭があり、将来の生活設計がその試験の合否に直結している状況では、不合格は単なる個人的な挫折ではなく、家族の生活基盤を揺るがす危機を意味します。その背水の陣で挑む精神的な負荷がなかなかでした。

家計を支える「一家の主」としての役割と、
教員免許取得を目指す「学生」としての役割と、
採用試験という難関を突破しなければならない「受験生」としての役割。

これら3つの異なる顔を同時に、しかもどれ一つとして手を抜かずに、という状況で、深夜までシステムエンジニアの仕事をしていたのですが、それでもなんとかなったのは、明るくて呑気な妻のおかげだったと思います。

しかし、あの時が1番楽しかったような気もするんですよね。不思議なことに。

私は20代がバラ色で、とくに哲学をやりたかったので、ソクラテスのように、人と話をするのが大好きでございました。それも、大勢のひとと輪になって、「あーでもない、こーでもない、あげだい、こげだい(出雲弁)」と話をするのが。

私はそれがしたくて、わざわざ、旧制高校に近い雰囲気の寮を全国から探して、ほとんど大学に行くのが目的ではなく、寮生活をしてみたかった、という理由で松江の雄翔寮に入ったのです。
それから幾許かの時が流れまして。
20代は、ほぼ10年の間、輪になって人と話すことができる、という理由で人の多い職場におりました。楽しかったですなあ!そこをあえて去りまして、教職を目指したわけで。

20代の成功体験(バラ色の記憶)があればあるほど、働きながら勉強する苦しい日々の中で、「あのままでいれば今頃もっと楽しく笑っていたはずだ」という誘惑が何度も襲ってきましたな。

その過去の自分を振り切り、家族を支えながら「教員」という未知の未来に賭けたのは、今から思えば単なる転職ではなく、人生のOSを入れ替えるような痛みを伴うものだったとおもうのですが、それでも妙に明るくて呑気でした。これはやはり妻のおかげでしょうね。
まぁ、30代ならやれるよな、と、今となっては思います。もしこの文を読んでくださっている30代の方がいたら、そしてもしかして教員になろうと言う気持ちをお持ちの方でしたら、きっと大丈夫だと背中を押してあげたい気持ちです。

30代転職、教員人生20年、ブログを書き続けて、記事の数は 2112記事を越えました。なんと2,000記事をこしとるがな。我ながらよう書くなぁ。

当ブログは、まだつづきます。
これからも読者の皆様どうぞよろしくお願いいたします!

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