30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。

2025年11月

紙飛行機を生まれて初めてつくる3年生

皆さんは紙飛行機はいつ作りましたか?
生まれて初めて作ったのは、いつですか。

保育園?
小学校のとき?

さて、インフルエンザが猛威をふるう中、学級閉鎖が相次ぎました。
うちのクラスは無事でしたので、体育館で遊ぶことにしました。
ふだん、体育館を使用することはできないのです。いつもは高学年のクラスが使いますから、他の人が使って良いような空き時間は無い。

しかし、今日なら使える。空いている。

チャンス到来!
体育館が使える!

私は、子どもの頃、体育館で思いっきり紙飛行機を飛ばして遊んだ記憶があります。昭和の時代です。あの頃は、ブームと呼ばれるものがありました。ものすごい数の小学生が、いっきにローラースケートを始めたり、ほぼ同時期にルービックキューブを始めたりしたものです。

お相撲さん、力士の消しゴムが流行りましたね。
私は貴乃花とか若乃花とか持ってました。もちろん、先代の、です。貴乃花は大関でした。筆箱の上でトントン叩いてよく遊んだものです。
その前は、スーパーカー消しゴムが流行りました。ランボルギーニとか、デトマソソパンテーラとか、ミウラとかポルシェが人気がありました。

同じように、紙飛行機ブームってあったんですよ。少し固めの良い紙で、クリップにゴムを引っ掛けて飛ばしたりとか、めちゃくちゃよく飛びました。

今の子は紙飛行機ブームを知りません。
なので、驚いたことに、3年生になって、初めて紙飛行機を折った子がいました。クラスでスイスイ紙飛行機を作れるのは、たった3人か4人程度で、他の子は「どうやってやるの」の繰り返しでした。

私が不思議に思ったのは、なぜそのクラスの中の3人か4人の子は紙飛行機が折れたんでしょう。おうちでやったことがあるか本当に稀なことですが、幼稚園の先生か保育士さんが教えてくれたんでしょう。あるいは児童クラブなどで。

紙飛行機をなんとか私が折って見せて、体育館で飛ばしてみせると歓声が上がりました。
時間をゆっくり慎重に紙飛行機をつくり、みんなでとばしました。

夢中!

あっという間に45分が過ぎました。
初めて飛ばした子がこんなにも多くいたのですが、みんなの目が本当に輝いていました。

私は1番の原因に思い至りました。
つまり、昔は紙飛行機を飛ばして良い場所があったのですね。
ところが、今はその場所がないのです。

教室で飛ばすと怒られます。
何故かと言うと、誰かの顔に当たってその子が困るからです。

家の中で飛ばすわけにもいきません。

じゃあ公園でとなりますが、その公園が見当たりません。
また、自分1人だけで飛ばすのは何ともつまらないんです。

これが最大のポイントでしょうかね。

友達に、

「見てて!」

と、大きな声で叫んでから投げるのが最高に楽しいのです。

それを交互に、お互いが繰り返していくのです。
ほとんどセリフは、「見ててー」だけです。
でも最高に楽しいです。

土曜日・日曜日になると、友達は習い事に行ってしまって、家にいませんから、友達を誘うことはできないのです。
だとすると「紙飛行機飛ばし」は、学校の中でやるしかありません。友達がいるというのが保証されている場所が学校なのですから。

実は、今の学校が持つ社会的な意味合いは、そのことが1番大きなものなのかもしれません。「目の前に友達がいる」という状況を用意してあげるということ。
我々大人世代は、そのことにあまりにも鈍感なのです。友達がいる空間を用意するのは、今や、学校にしかできないことなのでしょう。

紙飛行機を飛ばしたことがないのは、なぜか。
結局、普段は目の前に友達がいないからです。友達がいる場合は、それは学校なので、紙飛行機は飛ばしてはいけなかったのです。

ところが、逆に言うと、学校で紙飛行機を飛ばす時間を確保できれば、それは夢の時間に変わるということです。

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学校や公園からジャングルジムが消えるわけ

クレームを入れる人には、決まって、ある寂しさが付きまとっている。

これはクレームを受ける立場になった人の多くが感じ取っていることではなかろうか。

保護者も同じであります。
保護者は特に誰に言うこともできず、すがるような思いで担任に電話をしてきます。
友達とのトラブルがあった場合は、我が子の言葉を100%信じるわけでなくても、やはり、相手にも過失があっただろう、間違いがあっただろうと言う気持ちがあるから、相手を責めるような口調で電話をかけてきます。それがエスカレートすると、学校の対応がまずかったと言うことを言いたい、うちの子だけが悪ものではないと言う気持ちで、どんどんと口調が激しくなっていくことがあります。

クレームを言う人は寂しいんですよね。
自分の今の気持ちをなんと解消したら良いのか、不安で心細くて電話をかけていますから。

この時、電話を受けた学校の先生がやってはいけないことがあります。それは、使ってはいけない言葉を使うことです。
使ってはいけない言葉は、ズバリ、
「自己責任でしょ!」
という雰囲気やニュアンスのある言葉ですね。

クレームを言う人にこそ、包み込んであげて、大丈夫だよと支えてあげる気持ちで言葉をかけなければいけません。

昔に比べて、自己責任論は強くなってきています。昭和の時代は、それでも仲間がいて、それでも家族がいて、それでも親族がいて、長屋の大家さんのような人が周りにいて、その人を放ってはおかなかったのではないでしょうか。だから、お店に直接とか学校に直接とかクレームが届く事はあまりなかったのではないかと思います。

今は他に誰にも相談ができないから、ストレートに直球が飛んできます。自己責任だろと言う社会になったから、もう他にどうしようもなく、そうするしかないんでしょうね。

公園からジャングルジムが消えているそうです。
クレームが多いからだそうですが、これは要するに周りに相談できる人が減っているからだと思います。自分1人でなんとかしなさい。自己責任でなんとかしなさい、と言う社会風潮になってきたから、お互いに怖くなっちゃったんでしょう。

ジャングルジムで怪我をしたら、見かけた近所の人がすぐに救急車を呼んでくれたり、お母さんを呼んでくれたりしたんでしょう。ずっと以前は。

そのような社会の雰囲気がなくなったから、もう怖くて遊ばせられない。行政も、そこまでは面倒が見切れないということでしょう。

ドンドンと人が孤独になっていくことに比例して、先手を打って、安全策を取るわけです。人が孤独だと対処できないものは取り除いていくしかないのです。社会から。

孤独は弱い。一人ぼっちは弱い。
結局、社会全体が弱くなっています。弱い社会では危険なものは取り除くしかない。したがってジャングルジムは公園から消える。

社会の中で、人間が孤独になると、どうしてこうなってしまったのか、もっと人間は協力できる生き物だろうと思うのですが、なんでこうなっちゃったのか理屈がわからない。納得できる理屈が欲しい。そこで、【自己責任論】が唯一の納得のできる回答として浮かび上がってきたに違いありません。一人ぼっちというのと自己責任論は、お互いに相手を納得させられる存在ですからね。

孤独だとあぁこの世は自己責任だからなと自分を納得させようとするし、そんなの自己責任だろ!と、普段から繰り返していると、いつの間にか周囲から人の気配がなくなります。

結局、今の我々が選択している資本主義のような「社会システム」は、何かを強く意識したり、気をつけたりしていなければ、ふと気を抜くと、人間を孤独にするのでしょう。自己責任論は資本主義と、唯一相性が良いですから。

小学校と言う場所は、自己責任論が忍びよらないように気をつけなければいけません。気を抜いて扉を開けっ放しにしておくと、灰色の背広を着た【自己責任論】がふうっと、風のように学校の中に入ってきますから。

唯一できるのは、とにかく話しかけることです。目線を合わせることです。そして、あなたは大丈夫かどうか聞くことです。何かわたしにできる事はないかと聞くことです。あなたがどうしたいか、何を望んでいるのかを、ちゃんと目を見て質問することです。
大丈夫だ。うちはしっかり聞いているよと、伝えながらね。
それが唯一、自己責任論を足元に近寄らせず、人を孤独にしないための処方箋だと思います。

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レアを選ぶ行き方

再録シリーズ 2020.9

映画「国宝」が話題となって久しい。
多くの人が最初の映画泥棒を含め3時間を超えるこの大長編を映画館で見たようですが、私は途中で必ずトイレに行く気がしてならず、恐怖に襲われてまだ見ることができないでいます。

私の職場のある先生は、これを見に行って、なかなかに深い洞察を得たようで、「ぜひ新間先生も映画館で見てくださいよ」と、何度もおっしゃっていました。

歌舞伎役者の血筋に生まれたからには、その役者を志すと言う、生きる道筋が、バーンと目の前に見えているわけですね。
私は高校生の頃に、自分がどのような将来を歩めば良いのか、全く見当がつきませんでした。学生と言う身分や状態と働く仕事をすると言う状態との間に、まるでぽっかりと真空空間が現れたかのようで、どのようにしてその先に進めば良いのか見当がつかなくなっておりました。

今でもこういう立場の子はたくさんいるんじゃないかと思います。ニートや引きこもりと言う状態も、こういう真空状態に吸い込まれた感じがあり、自分が何者になれば良いのか見当がつかないと言う状態ではないかと思います。

人生を半分以上過ぎて、50代も半ばに差し掛かろうとする今になって思うこと。
「何者かになろうとする」のではなく、とにかく目の前にあるいわゆる【仕事】を何でもしていこうとする気持ちが、実は人生を楽しむ手っ取り早い方法なのではないか。

お金になる仕事もありましょうし、目に見えないような仕事やお金には何にもならないような仕事だってあるわけですが、その仕事に差を設けるのではなくて、とにかく人間の仕事と思えるようなことをどんどんやっていくのが自分を前に進める1番大事な気持ちなのではないか。稼げるか稼げないかではなく。

本を読むのだって仕事。
自分の興味のある土地へ出かけていくのも仕事。
それは、自分自身が人生の側から託された宿題のようなものです。人生があなたに働きかける夏休みの宿題のようなもので、それを課された感じがするのであれば、それはもうあなたの仕事なわけです。

鴻上尚史さんのエッセイに触発されて、こう思うようになりました。つまり正解の側にいようと思うのは邪魔でしかないと言うことです。

それが世の中的にレアであろうが、レアでなかろうが、そんなのも雑音です。レアな業界で幸せになることもあれば、レアでない世界で幸せになることもあります。そんなこと、誰もやってないよということが関係はしないのです。幸せになるかどうかにはね。

ところで、以下の記事を以前書いたのですが、ちょっと関連するから再録しておきます。

➖➖➖➖➖

ネコの体は面白い。
チーターやライオンなど、ネコ科の動物特有の筋肉の付き方をしている。
首を動かさないで、前足と後ろ足、全身を油断なく運ぶ。
ネコは歩いていても、目の高さが動かないそうだ。だから、猫の顔や目ばかりみていると、その分肩の筋肉などがずいぶんとやわらかく上下し、しなやかに動くのがよけいに分かる。

家の猫を見ていると、
「猫の体ってのは、ずいぶんとやわらかく、しなやかに動くのだなあ」
とあこがれに似たような気持ちが出てくる。

ネコが、自分の体の重心を自由にあやつりながら、身体を移動させたり動かしたりする元には、丈夫でしなやかな骨格がある。その骨格に筋肉がついており、それを伸ばしたり引っ張ったりしながら稼働させているわけだ。

なぜこんなふうに意識する癖がついたかというと、先日、ある大学の教授の研究室を訪ね、ちょっと話をしたからだ。
その教授は日本でも珍しい方で、骨格標本をつくることのできる教授らしかった。この教授は骨の専門家なのであった。
私はどういう風の吹き回しか、職員の研修でこの方と会うことになった。

この教授は骨を見て毎日暮らし、骨をつくって日がな一日過ごす。
「骨をつくる」というのは、なかなかふつうの人がやることではないが、要するに動物の死骸を引き取って、そこからあらゆる骨を取り出すのである。

「筋肉が邪魔でしてねえ」

その教授は本当にめんどくさそうに言うのである。

「わたしは骨しか要らんのですよ」

教授は長年の研究の結果、もっとも筋肉を溶かすのに向いているものを発見した。それは、入れ歯をきれいにするためのいわゆる『ポリデント』という商品だそうだ。
他の化学薬品では骨が傷みやすく、ダメだそうである。

「骨までもろくさせてしまうのでは、ダメなんです。骨は残したいが、筋肉は要らん。そのバランスですよね」

教授はいかにポリデントが優秀かを力説するのである。
たしかに、教授の机の横には、ポリデントが段ボールに詰まって大量に置かれており、

「このポリデントで、次はどの骨を取り出しましょうかね」

とにこにこした。

教授はもう毎日のように骨を取り出すためにポリデント溶液をつくり、動物の死骸があると聞けば、すぐに駆けつけてそれを貰い、ひそかに大学構内の自分の研究室まで運んで、たちまちにして骨を取り出すのである。

教授の目下の悩みは、その教授が担当するゼミに、学生が寄り付かないことらしい。

「がいこつ教授、なんてあだ名をつけられましてね。たしかに筋肉を溶かしているので研究室はかなり臭いし、わたしはもう慣れっこで、その異臭の中で弁当なんかも食いますが、ひとり減りふたり減り、とうとう今在籍している学生は、校内広しとは言え、たった1人なんです。この1人が将来、あとを継いでくれる保証はなし、頭の痛いところですよ」

わたしはなぜ、この教授が大学でこんな奇人めいたことをしているのか、分からなかった。
しかし、このときに教授がこの日本でたいへんに価値の高い人であることが、判明した。

警察から電話がくるのである。
ドラマのようだが、事実なのだ。
人骨か否か。
それを正確に判断できる人間が、この世にはなかなかいない。

警察から持ち込まれた骨。
それを教授は神妙な顔つきでみる。
判断は素早い。

「ハクビシンの足の骨ですね」

警察はホッとして、深々とお辞儀をして去る。

・・・そうである。

教授はもう自分がそういうレアな人種であることを自嘲気味にほのめかして、
「ハクビシンはもう、かれこれ五体以上はポリデント漬けにしてやりましたよ」
と、口元をゆるめて言うのでありました。

わたしはその研修というには中身の濃すぎる「研究室訪問」を終えて思うのには、
「後継者問題というのは、どこにでも存在しているのだなあ」
と、深く感じいったのでありました。

骨を研究する人が、日本にはいなければならない。
それが人骨かどうかを、即座に判断できる人も、この世にはいた方がいい。
しかし、そんなレアな職業をめざす若者が、いない。

レアな方が、よいのではないか?
これからの生き方として、レアな方が、生きていく場所ははっきりと固まる気がする。
若者よ、どう考える? 将来をえがいている最中のキミは、大勢が集う道を歩くのか、それとも人がめったに寄り付かない、道かどうかもあやしいような道を、レアな人材になるために歩くのか。

わたしは、レアな道がいいような気がする。
これからの時代は・・・。レアな方が。
たしかに、レアは、たしかに見えにくい。社会からも、見えにくい。
『パッと見』では、発見されない。世の中は、その他大勢が多すぎる。
しかし、一見わからないのだけれども、検索すればたしかにヒットするのが、レアな立ち位置だ。

若者よ、レアを選べ。

人の経験しない道を行き、人の経験しない場を見て、人の経験しない体験を積め。

その教授は、たった一人の研究ゼミ生のために、弁当を取り寄せ、論文も懇切丁寧にみてやり、院への推薦も保証し、ありとあらゆる親切をはたらいているそうである。

「しかし、彼は、ここでは弁当を食わんのですよ」

教授はタイガーのポットからお湯を汲み、お茶をいれて飲みながら、ため息をつくのでありました。

いやはや、人生は深いですナ。

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家庭の三つの役割

「家庭が担うべき役割は、次の三点に集約されます。

(1)数多くの過ちを許容する場としての機能
現在の能力で「達成可能なこと」だけをこなしていても、人間的な伸長は望めません。
挑戦と試行錯誤のプロセスを経てこそ、深い洞察や理解は深まるものです。
失敗とは、「より実りある人生を送るためのデータ収集」にほかなりません。
挑戦を避けること、それこそが最も避けねばならぬ失策と言えるでしょう。
家庭は、失敗を許容する場でありたいです。

(2)多様な性質を受け入れる場所としての機能
人は皆、生育環境も思考様式も得意とする分野も異なります。
その「相違点」こそが、知識を得るための源であり、世界観を広げる鍵となります。
「皆が同じであるべき」ではなく、「それぞれが違っていて良い」のです。
まずは親が我が子を他の子と比較したり、似せようとしたりしないことです。
比較しようとしなければ、子どもに他者との違いを尊重し合う態度を育てることができます。
これは、今後の社会を生き抜く上での土台となります。

(3)社会全体をより良くするための基盤であること
幼少期は、試験に合格するためだけに存在する時間ではありません。
それは、社会に存在する課題と真摯に向き合い、より良い未来を創造するための原動力です。
人生は学ぶことの連続です。家族全員で「学ぼうとする姿勢そのものを学ぶ家庭」であってほしいと願っています。
結局のところ、
「人間とは、生まれながらにして自由で尊厳ある存在である」
この真理を、精神と身体に深く刻み込む場所、それこそが「家庭」なのです。

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