30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。

2025年09月

自由研究あるある

私の住んでいる自治体では、夏休みの課題として理科の自由研究を出します。

おそらく日本中で自由研究は、子供たちが取り組むことになっているでしょう。

これは各家庭で非常に捉え方が違い、それぞれ個性があり、ユニークで私はとっても大好きです。

お家の方と一緒に熱を上げて作ったと思われる作品は見ていて、心があったかくなります。

また、おそらくおうちの方針で、子供にとにかく最後まで自力でさせると言う作品もあります。
これはこれで全て子どもが自分の発案と自分の労力と、自分の時間のかけ方で勝負するわけで、これまた味のある良い作品が多いです。

ある子はゲームばかりやっているので、親が自由研究のことを心配したところ、

「お母さん大丈夫だよ。敵の倒し方を研究するんだから」

と言ったそうです。

そして、実際に、

①主人公の能力の上げ方
②パーティーの組み方
③バトル時のマナーと戦略
④アイテム一覧と、自分の推しアイテムとその理由
⑤ストーリーを進める中で、最も心に残った出来事
⑥最も幸せだったと思うエピソード
⑦このゲームは、買いか、否か

と言うので、超大作を作った子がいました。

理科の先生に怒られていましたが(なぜなら、理科ではないので)、研究の着眼点や検証の進め方などは、とても合理的で、対象となる敵を分野ごとに分けたり、スムーズに勝つための最も合理的とされる方法について、推論を立ててみたり、実際にそれを行ってみて、比較検証をしたりするあたりはなかなかのものでした。

その子は、スズメバチが好きだったので(なぜなら最強の虫だから)、同じような合理的な結果の導き方をスズメバチの研究で発揮すれば、おそらく県レベルで優秀賞を取ったでしょう。

とまあ、いろいろな研究があり、私は職場の数少ない楽しみの1つとして、放課後にゆっくりとコーヒーを飲みながら、その自由研究を全校のありとあらゆる教室のものを見て回ることにしています。

中には親が作ったのがバレバレのものもあります。

ところが、現場の先生たちは、みんなそんなことを一切責める気持ちはありません。
むしろ喜んでいます。
おそらく、その時間を親と子供で様々話し合いながら過ごしたのでしょう。
もっと子供と関わってほしいと、どの先生たちも思っていますから、親がそんなふうに愚痴をこぼしながらも、自由研究をダシにして交流するのは嬉しい限りなのです。

途中まで、自由研究の字が乱雑だったのに、後半のある部分はとても丁寧な字に変わってることがあります。
とても同一人物が書いた字には思えない。

ははぁ、中学校にお姉さんがいたナ、確か。

それもいいじゃないですか。
家族で協力した証なんです。
先生たちは、そんなことを全く否定的に捉えてはいません。

同じように、毎日の宿題をお姉さんが手伝ったとか、お兄ちゃんが手伝ったとか、親が手伝ったとか、普通によくあることです。いいじゃないですか。
孤独に苦しんでいるよりよっぽど良いです。
長谷川町子さんのサザエさんの漫画にも、カツオが口をとがらせて、
「お父さん、終わったの?」
と、ハチマキをしめてカツオの宿題を解いている波平さんを描いた漫画がありました。
もちろん、ほとんど99%の親は仕事から帰ってきて、直行で家事をしてそれだけで精一杯です。
とても宿題なんて見られないでしょう。気にもしていられないと思います。

先生たちはそんな事は期待はしていません。
だからできるだけ宿題は出さないようにしています。私はドリルやワークシートなどの課題は何とかして学校でたくさんやらせます。

宿題で出す先生もいますが、私は学校でやらせる派ですね。
なんとなれば、その方が子供のリアルな状況をしっかりつかめるからです。

ただし、いつも時間は足りません。
この時間を作り出すことを、これからもずっと苦労していくんだと思います。

IMG_7672

運動会がおとなしくなってきてつまんなくなった、という意見

この時期思い出されるのが前任校のこと。
ちょうど、今くらいの時期でした。

教頭先生がぼやいていたのです。

「保護者から結構来てるねー」

今の時期です。ピンときますか?
そうです。運動会のことです。

その年は、9月の下旬に運動会をしたのですが、
暑すぎたと。10月にやれないのかと。
保護者からの電話があったのです。

私は内心、そうだよなあ、と思ったのを覚えてます。

暑かったのですね。
子どもたち、みんなきつそうでした。

言い訳をすると、私も一年の計画を立てる会議に出てたので、分かるのですが、なかなかスケジュールを組むのも大変なので・・・

10月は忙しいのです。
6年生が修学旅行に行くからです。
また、5年生も宿泊学習に出かけます。
養護教諭が2人いる学校は少ないので、5年と6年が同時には行けませんから、2週間ほどずらしています。10月の終わりと11月に予定していますが、これの準備だけでもものすごく神経をすり減らすのです(子どもも大人も)。
10月に運動会をやっていては到底間に合わない。

加えて、2学期制となり、10月の最初には通知表を渡さなければいけません。少なくとも9月中には、運動会を終わらせたいのです。暑さは覚悟の上です。そのかわり、午前中で終わるように計画しました。

この暑さの中で、運動会を1日中やっていたら、この地域の保護者も子供も全員くたばってしまうかも。
もちろん、当時もそのような懸念はありました。職員会議でも、心配する声は出ていたと思います。しかし、行事の都合を考えると、当時はこうするほかありませんでした。あの時はたしか、11月に持久走大会もやってましたか・・・。行事でがんじがらめになっていた面もありました。今思えば。

9月下旬だと、中止になる可能性だって残っています。
熱中症の危険性が高いと言うふうに判断されたら、そもそも延期になる覚悟でした。
今は熱中症の指数を測りますからね。
それでも、この時期にやると言う年間計画は崩すことができませんでした。

苦情受け付ける教頭先生はどんどんと疲弊していきます。ため息をついてから受話器を取り上げ、声の調子をがらりと変えて、保護者のクレームに対応する教頭先生。頭が下がりました。

これは今でもそうなのですが、運動会については、まだまだいろいろなクレームが寄せられます。
次のクレームは、多分全国の小学校に届いているんじゃないかと思います。
それは、なぜ騎馬戦を辞めたのかと言うものです。これも多い。みんなどちらかと言うと残念なニュアンスです。

あと、昔やっていた棒倒し。あれが見たかったと言うおじいさまからの電話も。
これは、その電話を受け取った先生が目の前にいたので、はっきりと覚えています。

「棒倒しはやらんのかね?男の子はあのぐらいのことをやって、発散させんといかん」

・・・と、言われたそうです。
言葉遣いはとても丁寧な紳士の声だったようですが、何度説明してもやめたことが、腑に落ちなかったみたいだ、と言っていました。
教頭先生がとても丁寧に対応されるので、暇つぶしに電話をしてきた可能性もあります。

それにまして、1番は、組体操のことですね。
もうとっくのとうに、都市圏では廃止された組体操。日本の田舎ではまだやっているんですナ。

私の今の勤務校でもやっていますよ。
さすがにこれはうちの地元では、やめると言う判断にはなりません。もっと都会に行けば違ったでしょうが、ひいじいちゃん、ひいばあちゃんも、この学校に通ったのですから、このような土地では、何よりも伝統が大事なのです。

今年の組体操、6年生の先生たちは、胃が痛くなるほどまで会議に会議を重ねています。
そして、組み体操という名前を残しつつ、実際にはほとんど危険と思われるような表現を行わないように計画しています。苦痛に耐えるようなポーズを全て外したい、とある先生が言ってました。

ところが、それだと迫力がない、と言うクレームが届く。

子供たちが苦痛に耐える顔が見たいらしい。
こういうニュアンスのクレームは、年配50代60代の男性が多いです。
つまり、これはじいちゃん、です。子どもたちの。

世の中のおじいちゃんは、棒倒しと騎馬戦と組体操が大好きだというわけ。
そして、子供たちが苦痛に耐えている姿を見ると、感動する。

・・・

オリンピックでも、スポーツ中継でも、選手が苦痛に顔を歪めると話題になりますね。
MLBの大谷選手が、デッドボールを膝に当てて、痛さで顔をしかめている写真が、インスタに掲載されると、ものすごく反響を呼びました。その表情が話題になったのです。

しかし、法整備が整っていません。
怪我をしたとき、誰が責任を取るのでしょうか?
全国を見ると、実際に訴訟も起きています。
今の教員は、それに耐えられるようになっていないのです。つまり法律では守られていないわけです。

給食の時間が職員にとっては休憩に当たると最高裁判所で決定付けられたのもありますが、実際に子供たちを放って休憩している職員は誰1人としていません。このタイミングで子供たちが怪我をしたり事故に遭ったとしても、職員は休憩時間にあたると法律で定められているために、本来なら、保護者はそのことを認めなければなりませんが、そうかといって、子供たちを保護下に置いていることには変わりなく、その時間に十分な指導しなかったということで、その教員は罰せられてしまうでしょう。

国としては、休憩時間だと建前を作りながら、実際には市の教育委員会レベルで懲戒の対象となる。つまり教員と言うのは全く守られないのです。

それにしても、なぜ都市部の学校では組体操を止めることができるのでしょう?私の知り合いの神奈川県の教員も、そんなものはとうの昔にやめていると連絡をくれました。

その人はこう言いました。
「1人でも大怪我したら、次の年からはなくなるよ」
しかし、だからといって、誰かが大怪我をするのを待つわけにはいきません。

私は個人的に組体操で頑張る子どもたちを見るのは大好きです。私自身も50代のおっさんですから、孫が組み体操で、立派にサボテンを決めたら感動して写真を撮るでしょう。

それでも、やはり、様々な条件が整っていない以上、小学校で組体操を続ける事は無理なのです。本来は。

このことで1番大変な思いをしているのは、全国の小学校の教頭先生、校長先生だろうと思いますネ。

まぁこういうことが積もり積もって、教員を志望する若者が年々減ってきてしまい、実際にはいくら募集をかけても集まらない状況が起きてきてしまっています。若者が働きたくないと思う職場は、持続可能ではないと言うことです。

しかし、ここで文科省を叩くのはよくありません。私の知り合いの先生は、文科省の先生たちも、本当によくわかっていて、戦ってくださっていると断言しています。

官僚がいけないんだとか、官僚がサボっているとか、官僚の頭が悪いのだと言う人を私は信頼しません。夜の11時に、文科省の次官からメールが届いたことがあります。そんな深夜にメールを、受ける方も受ける方ですが、出す方だってその時間に仕事をしていたわけです。
あれだけ仕事をしている人たちを、私は批判する気にはなりません。

あの時、文科省の役人だって、一人ひとりを見ると、孤独なんだなと思いましたヨ・・・。何かもっとこう、人々が幸せになれる社会システムって、何かないかなぁと、しばらく考えたくなりますね。


IMG_0627

「そう思った人〜!おお!たくさんいるね!」と毎回言う理由

発問に対して、児童にどのように発表させますか?

手を挙げた子を1人だけ直接先生が指名し、それが正解のとき、
「そうですね、正解です」
と言って進めていくやり方がありますね。

私はこのやり方を、自分の中で【トップスピード】と呼んでます。つまりこのやり方は、授業の流れを非常に早めるのです。

【トップスピード】を使うのは、授業の序盤です。本題ではなく、これまで十分に学習した機種事項を確認する際など。
授業の中で、特に序盤、トントントン!と既習事項を確認し、核心の発問にズバッと入り込みたい時、できるだけその前に時間を節約しておくのです。

しかし、この【トップスピード】を授業を通して最後まで続けていると、指名されなかった子、挙手をしたのに当てられなかった他の子たちは、だんだんと冷めてきます。気持ちが。

あれ、僕だってわかってたのに。
私も言えたのに。

挙手をして当てられなかった子は、まだマシかもしれません。それでも挙手をしたのですからね。
私はわかっててだけど当てられなかったし、仕方がないと思い直すことができるでしょう。
本当はわかってたんだよと、自分の中で思い直すこともできます。

でも、そうかなぁと7、8割、思っていたとしても、ちょっとだけ自信がなくて挙手をしなかった子だって教室の中にはうんとたくさんいます。
その子たちが、認めて欲しい気持ちが教室の空気の中に残っています。
「そりゃ、僕は手を挙げなかったさ。でも、本当は心の中で7、8割はそうじゃないかなってちゃんとわかっていたんだよ」

その子たちは、その気持ちを抱えたまま残りの授業を受けることになります。
これを繰り返していたら、ちょっともったいない。

私がよくするのはこんなことです。主に1から3年生向けでしょうか。キーボード入力にまだ慣れない子供たちが多い中では、端末を使わずにこのように進めることが多いです。


①発問をする。
②挙手させる。
③指名して発表させる。
④正解か不正解かを断言する前に、「同じ意見の人?」と挙手を促す。「おお!たくさんいるね〜」と感心します。
⑤その後「合ってるよね、よく覚えていたね」と伝える。

これは、④で、1つだけ手間をかけています。
時間にしてたった数秒です。
しかし、同じ意見だと言うことで、手を挙げる子はみんな、自分の意見を表明したと同じです。その子たち全員を褒めることになります。満足度が上がります。

これとは、違ったバージョンで、発問の内容が、正解不正解と言うものでなく、新しいアイディアを出すような場合や、ちょっと子供たちに熟慮を促したい場合には、「ちがう意見の人?」を付け足すことがあります。

また、授業の中での主発問については、以下のように進めます。主な発問ですから時間をある程度かけます。

①発問を黒板に書き、発問の趣旨を念の為、再度、説明する。
②隣同士ペアで相談させる。
③発表しても良い子を挙手させる。
④挙手を褒める。
⑤発表できる子を起立させる。(この時点でやっぱりやめようと思う子は座って良いと言うことを年度の初めに伝えておく)
⑥勇気を出して席を立った子のうち、窓際、あるいは廊下側から、1人ずつ当てていく。
⑦まず最初の人を当て、意見を言わせる。
⑧間髪を入れず、「同じ意見の人!」と言って挙手させる。(起立している子つまり発表考えて起立していた子が同じ意見と言うことで挙手していた場合は、そのまま自分の番が来るのを待ち、自分と似ているけども、やはり自分なりの言葉でもう一度意見を言うのも良いし、「もう自分と同じことを言ってもらったから座ります」と言うのでも良いこととします。年度始めの頃に何度か確認しておけば、後は1年を通じて子供が理解してそのように行動をしてくれます)
⑨順番に最後の1人まで意見を言ってもらいます。その都度担任は「同じ意見の人!」と言って挙手を促すと言うことを繰り返していきます。
⑩担任は同時に板書して考えをまとめていきつつ、最後にもう一度、板書の文字を指しながら、「この考えと同じ人は?」と挙手させながら確認をしていきます。
⑪内容によっては、この後に「もう一度自分の意見をはっきりさせたら、隣の人に、どの場面からそう考えるようになったのか、いつからそう考え始めたか、そしてなぜそう言えるのか、できるだけ詳しく伝えなさい」と相談させる。


大切な事は、アウトプットをたくさんすると言うことです。そしてアウトプットには挙手をすることも含まれるわけです。

このやり方だと、参加しない子はほぼいないです。そして全員が自分の考えを最終的にノートにまとめることもできるようになっています。

そして、本当にクラスの人間関係が良くなり、意見の押し付けや遠慮が無くなってきたら、クラス全員の討論に近づけていきます。

FullSizeRender

テトと、トム。

道徳の授業で「認知」について考える

認知と言うのは、非常に大きなテーマ。
同じ現象を見ても、1人はAを見ていて、もう1人はBを見ているから、結論が真反対になることもある。
子供時代にこういったことをしっかりと勉強しておくのは、その子の人生にとって非常に役に立つと思う。

そこで道徳の授業では、認知理論を取り入れることにする。といっても、そんなに難しいことではなく、盲人が象を撫でるときの例えを何度も繰り返すだけです。
しかし、子どもにはこの授業は非常にウケが良い。本当だ、この間もこんなことがあったと言うように、子ども同士で話が尽きないように盛り上がってくる。

給食のカレーは辛いかどうかでも、それぞれの主張が異なる。同じものを食べてるんでしょう。どっちかに決めてよ、同じものなんだから、同じ結論が出るでしょう、と私は煽る。
ところが、最初は、そのセリフを素直に聞いていた子供たちが、

「同じものを食べても、人によって感じ方は違うんだから、このカレーは辛い、ってわけじゃないよ」

と、小学校3年生でも全員が全員、そう言うようになってくる。

給食の時に、ミルメーク、というのが出た。
これを牛乳の中に溶かして飲むと最高においしい(甘い)。

ところが、これが苦手だと言う子が、クラスには1人いる。これがなんとも不思議だ。

その子に全員が全員不思議そうに尋ねている。
「えっちゃんなんでミルメイク残すの?」
すると、その子は、何とか苦労して、その理由らしきものをひねり出す。
要するに、あんまり美味しくないと言う意味の言葉だ。

これも道徳の授業の時に取り上げると、様々な意見が出てくる。

おいしいとか美味しくないとか、そんなのは人の感覚なんだから、ミルメークがおいしい、と言ってしまってはダメで、私はおいしいと思うと言う意見なら言えるはずだ、と認知についての考えをしっかりと整理できる子が出てくる。

「だから、ミルメークは美味しい、というのは良くないんだよ。そうじゃあないんだから」

とか、言う。

それを聞いて私は黒板に大きな図を書き、ミルメークをど真ん中に書いて、これはなあに?と尋ねる。

「それはミルメーク!」

わたしが
「では、これは美味しいものとは・・・」
と水を向けると
「そうは言えない!」
「あ、そう。じゃあまずいものと・・・」
「それも言えない!」

世の中のすべてのものって、みんな良いものだとか、悪いものだとか、おいしいものだとか、まずいものだとか、青いとか黄色とか、難しいとか簡単とかいろいろ言うよね。じゃあ、そういうのって・・・

「それがそうと言うわけでなくって、自分はそう思ったってこと」

この授業の後に、子供たちがまとめた振り返り用紙が面白かったです。

ある子か書いたのは、

「自分は大きな丸いシャボン玉のようなボールの中にいるみたいです。それがからいかどうかは本当はわからないのに、私はからいとか辛くないとか言います。だから本当はシャボン玉の外の事はよくわかってないと思います」

これは、プラトンの洞窟の例えに少し似ていて面白い。
小学校3年生だから、もちろん哲学の話をしたり、勉強したりは一切ない。
でも、その中身とよく似たような事はちゃんと考えることができている。私はなぜこのカレーを辛いと言っちゃうんだろう。私はそう思ったと言えばいいのに・・・。つい、このカレーは辛いよね、と言ってしまっている。

それだけでも小学校3年生で45分間の授業は白熱する。イデアの世界への本の入り口が道徳の授業にはある。

道徳の教科書の中身を見てみると、ほとんどがこういう話が多い。Aさんにとっては丸く見えるものがBさんにとっては四角く見えると言うものだ。

こういう授業を繰り返していると、私は一切そんな言葉を使ってないのに、子供から出てくる言葉があります。それが・・・

キメツケ。

私はこの4文字の言葉を聞くと、なんだかしばらく、遠くの景色を眺めていたくなる。

IMG_0555

保護者懇談会で話題になったこと〜甘やかすとは〜

保護者の中のお一人とお話をしていて、どうも話の噛み合わない点があって、これはおそらく日本の教育において、かなり大きなトピックだと思いました。ここで、考えを整理してみます。

話題になった子は、幼い時からチックがあったとのこと。
チック、と言うだけで、もうこれは論文が何百も何千もあり、著作がこれだけで何百冊とあるでしょうから、本当はすべてを読み終えた上で論じるのが必要です。

この親を批判するわけではありません。そうではなく、おそらくこれが世間一般の教育やしつけに対する考え方だろうと思ったのです。いわゆる子育ての常識、あるいはしつけのスタンダードな意見でしょう。

チックがある子に、お医者さんにこう言われたとのこと。ストレスを緩和するように、何がストレスなのかを見極めること、そのストレスを与える状況を少しでも緩和したり変化させたりすること。

まぁこれは妥当です。
どこの小児科医も児童心理学の先生も、身体症状が出ている子に対して、まずは健やかに健全に育つことを願うのです。チックは何かしらの心の訴えでしょうから、まずはその子がストレスに耐える力をつけると言うよりは、まずはそれらを取り除き、ストレス要因を緩和してあげるのです。親ができる事は環境を整えてあげることです。

ところが、そのことに対して、
甘やかされると、成人までに失敗や挫折を知らないから、独り立ちしたときに何もできなくて失敗する。また、失敗したときに、それに対処する術を持たないから、回避することができなさそう。それまで親が全部障害を取り除いてくれたんだろうから。だから、甘やかされた子は、挫折しそう。
というような意見がある、と。
だから、【甘やかすべきではない=ストレスは与え続けても良い】
という結論。
それについて、先生はどう思われますか、ということでした。

その方は父親で、それもわかるとおっしゃっていました。つまりその父親からしたら、両方ともうなずけるのだと言うことなのです。
世間一般によくある、甘やかすのはダメだ、という論調。それもわかるし、我が子を支えたい、それは甘やかすことになるのか、どうなのだろうか、とお悩みでした。

世間一般、多くの大人は「甘やかすのは良くない」と考えるのてしょうが、教員の多くはそうは考えないから、保護者懇談会などでは、ズレが生じるのです。

私はこの論、つまり「失敗をさせないのは間違い。だから甘やかすのは間違い」という論の展開は、無理があると思います。
まず、失敗をしない子はいません。計算間違いをしなかった子は、世の中にいるのだろうか。
怪我を全くしなかったり、漢字をすべて書けたりする子の方が少ないのでは。
ケンカをしたり、お茶をこぼしたり、普通はみんな、失敗ばかりです。

甘やかされると、成人までに失敗や挫折を知らないから、独り立ちしたときに何もできなくて失敗する。また、失敗したときに、それに対処する術を持たないから、回避することができなさそう。それまで親が全部障害を取り除いてくれたんだろうから。だから、甘やかされた子は、挫折しそう。

もう一度文章載せました。
上記の意見では、もしかしたらもっと程度の大きな失敗のことを指すのかもしれません。
受験の失敗でしょうか? あるいは恋人との破局でしょうか。子ども時代のことを話題にしているのですから、成人までという括りで考えてみると、学生時代の恋愛かあるいは大学進学あるいは希望する会社に就職できなかったと言うような失敗挫折の経験を指すのかもしれません。

だとすると、これらの失敗を回避できたのは甘やかされたからでしょうか?
本人が頑張って努力して、自分の実力に見合った志望校を選んだ結果、ストレートで合格できたと言うだけのことのような気がします。合格できたのは甘やかされたからでしょうか?

あるいは恋愛の成功は甘やかされたからでしょうか。逆に恋愛に失敗したのは甘やかされることがなかったからでしょうか?

こう考えてみると、ここで言う成人までの挫折や失敗と言うのは、一体何のことを指しているのか、疑問です。

小学生での挫折や失敗とは何でしょうか?
毎日小学生は失敗ばかりしていますが、同時にリカバリーをしています。消しゴムで消して書き直したりしています。あるいはうまく発表できなくて、言葉が詰まったときに誰かからひそひそ声で教えてもらうこともあったり、友達と相談したりしてうまく言い直せたりしています。
これは甘えたからでしょうか?

これを甘えだと言うのであれば、わざとみんながその子を無視したようにして、正解を教えたり、助けたりとかしないほうがよかったのでしょうか。そしてそのようにして、友達から助けてもらったり教えてもらったりすることを、無しにすると、成人してから失敗や挫折をしないのでしょうか?

挫折や失敗を恐れず挑戦する勇気や、挑戦しながら様々にうまくいかなかった場面が出たときに、どのように解決していけば良いのか、自分だけでなく周りの人の意見を聞いたり助けを借りたりしながら、人々の協力に感謝しつつ、成功あるいは実現を目指していけるのはどちらのタイプでしょうか?

失敗をすればするほど、鍛えられて強くなると言う論理は、わからないこともありません。昭和のスポーツの世界はそうだったと思います。現代でも通じる部分は大いにあるかと思います。

しかし、スポーツの世界であっても、失敗をしたら、もうそれで放って置かれるだとか、誰もヒントを与えず、誰も協力せず、誰も練習の相手にならず、お前はダメだと突き放しておいて、その子は何かを得ることができるのでしょうか?

甘やかすとはどういうことでしょうか。
この文脈だと、まるで正反対になってしまいました。

私は、挫折をしやすい子育てるんだったら、簡単なのは、周囲がその子と関係を断つことだと思います。
関係を絶たれた子は挫折をしやすくなります。
なぜなら、人を信頼できないからだし、こうしてほしいと、自分の希望を伝えることもありませんし、人と協力しようと言う素振りを見せなくなるからです。そんなふうに、ひとと交わらずに成長するほかなくなるのです。一人でやらねばと考えている限り、挫折はすぐでしょう。

つまり、挫折をしやすい子と言うのは関係を絶たれた子です。
関係を絶たれた子は、自分だけのエコーチェンバーの中に浸り、自分だけの身勝手な価値観で生きていくようになります。

逆に、自分の失敗や成功も含め全てひっくるめて受容してもらい、周囲の反応を得て、何かしらのコメントをもらい、困ったときには相談に乗ってもらえると安心感を得ていた子は、まわりから十分な関心を得て育つことができたために、人の助けを借りることの感謝を覚え、自分もまた人を助けようと言う気概をもつために、挫折をしないのです。

もう一度、あの文章を見てみましょう。

甘やかされると、成人までに失敗や挫折を知らないから、独り立ちしたときに何もできなくて失敗する。また、失敗したときに、それに対処する術を持たないから、回避することができなさそう。それまで親が全部障害を取り除いてくれたんだろうから。だから、甘やかされた子は、挫折しそう。

いいえ。十分に甘えさせてもらえば、挫折はしません。それどころか、十分に人の心を理解する子に育ちます。

逆に、親の顔色を伺うことが常で、甘えることができず、親の機嫌を取りながら育った子どもは、心の中では、人を信頼することをせず、誰かを頼ったり人に感謝したりすることを知らないで育つでしょう。挫折するのはどっちでしょうか。


IMG_0350



リンゴスターのYくんの話〜ひとを受容するとは〜


月曜日は、とくべつな日です。

月曜日の朝、子どもたちの様子をみると、その子の土日の過ごし方が、なんとなしに伝わってきます。

最初から、わたしに何かを言いたくて、にこにこしながら、近づいてくる子がいます。

また、そうでなくとも、満足げな子もいます。

なんとなく、眠そうにして、ボーッとしている子を見ると、昨日はいつ寝たのかな~と心配になる。


印象に残る子がいます。

友達とおしゃべりしている子でも、目が生き生きとして、たいへんに友達に丁寧に接している子です。

友達の話を聞いて、目をまるくして、

「○○くん、すごいね」

と話をしている子は、本人の満足度が高いのでしょう。

他の子の話を、聞いてあげられる余裕があるのです。

聞いてもらった子も、うれしかったようで、そこにあっという間に、イキイキとして、明るい楽しげな空間が生まれてきます。

そういう雰囲気をサッとつくってしまう子が、Yくんです。

Yくんは、なかなか利発そうな子で、いつも大きい目をくりくりさせている子です。髪の毛が、ビートルズのリンゴ・スターみたいで、ちょっとかっこいい。

Yくんのことでは、とても興味深いことがありました。

Tくんという子がいるのですが、彼はいわゆる「すぐに友だちを叩いてしまう」子で、女の子からは少し、敬遠されています。

同じ保育園の女の子の口癖は、入学時から、

「もう!Tくんったら!」

でした。

さらに、

「Tくん!やめてよ!」

です。

そう言われると、Tくんもプライドがあるから、そういう女の子の口を封じるために、さまざまに動いてしまうし、それが先生に見つかると、大体はTくんが悪いことになって、思い切り叱られてしまいます。

そういう保育園時代を過ごしていたものだから、Tくんは、入学してからもずっと、さみしいのです。





そのTくんにとって、尊敬できる友だちが、リンゴ・スターのYくん。


「先生、これ、Yくんのと、同じだよ」


と、得意げに、Tくんが自由ノートを見せてくれたことがあります。

お絵かきの好きな1年生ですから、休み時間になると、自由ノートにお絵かきする子がたくさん。
自分のノートに、恐竜やら、ロボットやら、なんでも落書きをしていると、あっという間に、ノートを消費してしまう。

Tくんも、お母さんに言って、新しいノートを買ってもらっていました。
これまでのノートには、白いところがなくなるくらいに、ぎっしりと、恐竜を書いていましたから。

その新しいノートを、朝、わたしに見せにくると、

「これ、Yくんと同じだよ。同じ赤い花があるし、恐竜もあるしね。これ、漢字?これなんて読むの?」

Tくんは、自分で気になったことを、すべて言わずにおれない衝動性があります。だから、私に話す時も、一度に、一気に、3つも4つも、話をします。

Yくんと同じノートを買った、ということが自慢でならないらしく、わたしに見せた後、教室に「おはよう!」と入ってきたYくんに、さっそく見せていました。

「Yくん!赤い花でしょう。このノート、Yくんと同じだよ。昨日、アピタで買ったんだよ。ね、ぼくのお母さん、アピタの近くで働いているから」

そこまでを一気に言うと、Tくんは、嬉しそうにニコニコしています。

ショート・ヘアのYくんも、最後まで聞いてあげると、

「ああ、いっしょだねー、赤い花だしね。ぼくのお母さんも、アピタで買ったんだよ。いっしょだねー」



この対応を聞いていると、Yくんのことが好きなTくんの、感性は正しいのだな、と分かります。

Yくんは、Tくんが話してほしいことを、的確に話している。

コミュニケーションが、正しい。

同じ1年生で、こういうコミュニケーションをとれる子がいるのです。

なぜかな、と私はそこが気になります。

同じ1年生、同じような男の子でも、まったくTくんと、コミュニケーションがかみ合わない子もいるわけですから。




もう少し、Yくんのことを書きますと、

Yくんは、どうやら、人の気持ちが分かるようです。

なぜそう思うか。

時折、教師の私にはすぐにパッと、分からないようなことが、教室で起きるのです。

1年生の教室は、そういうことが、頻繁に起きる。

たとえば、

「座りなさい」

といっても、なんでか、なかなか座らない子がいる。

なぜか、プリントが1枚、余る。

なぜか、Kくんの水筒が、教卓にのっかっている。

なぜか、R太くんが、泣いている。

なぜか、水の入ったバケツが、廊下に出ている。

・・・・・・



私が職員室から帰ってくると、ほとんど毎回、不思議な光景が出現しています。

まあ、それが1年生なのでしょう。


そうしたときに、活躍するのが、リンゴスターのYくん。

「先生、R太くんね、S紀ちゃんが宿題プリントふんじゃったから、泣いてるみたい」


とっくに宿題プリントは机の中にしまわれているから、わたしは何が原因か、見ただけでは分からない。
ホームズじゃないんだし・・・。R太くんが、泣きじゃくっているときは、ちっとも分からない。
プリントが1枚あまったのも、どこかで列がずれて、もらわない子がいたらしいけど、それもYくんが、

「なんか、見てたら、U美さんのところから、ナナメに行ったんじゃないかなと思う」

と、教えてくれない限り、迷宮入りであります。



なかなか座らない女の子、「どうして座らないの?」と聴いても、うまく説明できない。

Yくんが、横から、

「先生、たぶん、うしろのTくんが、さっき鉛筆でつつくまねをしてたから、それがイヤなんだと思う」



女の子は、「Tくんにつつかれた」なら、はっきり述べることができたでしょうが、つつくマネをしていただけですから、ずばりと「イヤ」ということが言えずに、すこし困惑状態だったのでしょう。

それを、ちゃんとフォローしてくれるのが、Yくん。




気を回すとか、気を遣うとか、親切だとか、気働きができる、というの。

そういうニュアンスではない。

Yくんは、人と、ただしく、会話ができる。

相手が、「そうしている」。・・・で、Yくんは、相手の「そうしている」の真意はなにか、と知ろうとしている。

・・・ですね。(それがなかなか難しいわけです)
記事検索
メッセージ

名前
本文
月別アーカイブ
最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 累計:

プロフィール

あらまそうかい

RSS
  • ライブドアブログ