30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。

2025年06月

気になる子ども

この記事は、3年以上前に書いた記事の原稿ですが、非常に具体的な事例なので、身近に気にされる方がいると困ると思い、あえて公表を避けてきました。

既に3年以上が経過し、既にその子は小学校を卒業、また私も勤務校が変わったために、長いこと下書き状態であったこの記事を改めて書き直し、新たに編集し直し、初めてアップすることにしました。


では、ここで言う気になる子とは?

実は、その該当児童は、「被害を訴える」ことにたけていたのです。

気になる点は、そのことだけです。
本当にとても良い子で、クラスのために何度も活躍したし、勉強も頑張るし、とても素直な良い子でした。友達もたくさんいて、その子が笑うとみんなもつられて笑うようなコミニケーション能力も高い子でした。

そんな子だったから、あえて気になったことなのかもしれませんが・・・

さて、その子は、被害を、オーバーに脚色してしまうのです。
例えば、

肩を触られた→ 叩かれた
ここに置かないでと言われた→なんでここに置くんだ!馬鹿野郎!と怒鳴られた
椅子の背をトントンとした→椅子の背を思いっきり引っ張られた

と言うふうに、他に言いふらしてしまうのです。
実際に私が見て、これは違うよな、何とかして被害を大きくして言おうとしているんだな、と全てを目の当たりにして思ったことが「何度も」ありました。

ここで私が問いたいのは、
その子がそのように被害を受けた、あるいは被害を大きくして言わなければならなくなる、そういう精神状態に追い詰められているのであれば、なぜそのように追い詰められているのか、という点。

友達とその直前まで仲良くしていたはずなのに、特に何かその子を怒らせるような要素が他にあるわけでもなさそうなのに、誰もその子を責めてはいないのに・・・。

それにもかかわらず、他の子を徹底的に責めようとする。
あるいは自分が被害者だ被害を受けたのだと言うことを切に訴えようとする。

これは、何だろうか?
と、当時、強く思いました。

そして、これは、防衛反応だろうなと直感しました。
責められ責められ、謝罪を要求され、これまでの人生のどこかで否定を受けてきたためでしょう。

誰もクラスの友達でその子自身を非難したり、蔑んだり、恥ずかしめを受けさせたり、責めたりする子どもなんていないのです。
それでも、そのように、振る舞わざるを得ない、彼の心の状態。

彼の人生の中で学んできたことの大きさを思います。

自分が被害者であり、決して自分は加害者ではないと、周囲に常に申し開きしなければならないと言う状態。
自分はシロです、というか、自分は被害を受けた側の被害者です!と、叫んで回らないと、自分の身に何か良くないことが起こると言う予感です。

この子の心が癒され安らぎ。安定してくるために、どんな関わり方をしていけば良いのかな、と考えました。

1番は、彼が【自分が被害者である】と叫ばないでも、周囲から決して責められないと言う安心感です。
2番目に、誰もあなたを責めてないよと言うメッセージを明確にすることです。
3番目は、あなたが被害者だから救うのではないよと言うことです。被害を受けていなくても加害者だとか被害者だとか、そういうお互いの関係以外のところでも十分にあなたの希望には協力するよと言う姿勢を示すこと。人間関係はもっと豊かで、単純な加害者と被害者、どちらかに偏ると言うものではないのです。
4番目は、実際にあなたの希望を教えてね。ぜひ協力させてねと言うことを常に常に伝え続けることです。

具体的には
「僕は、◯◯してほしいです」
「僕は、さっき、◯◯して欲しかったです」
と言う言い方で、あなたの気持ちを教えてね、と言い続けるようにしました。

別に、あなたがかわいそうな身の上で、かわいそうな被害を受けたから、保護するのではなく、あなたがどんな状態であれ、常にあなたを応援するのが周囲の大人ですよと伝えるのです、

あなたは何がして欲しいの?と、とにかくその子に聞いていくのです。
そしてきっちり言わせます。
日本語としてきっちり言わせていきます。
話型を、確実にその子にインプットさせるのです。「〇〇してほしい」

そして、それが言えたら褒めます。
はっきり教えてくれてありがとう。これで協力しやすくなったよ、と。

「ぼく、〇〇して欲しい」
が、使える子供に育つと、どんどんと子育ては優しくなります。簡単になります。僕は被害者なんだ!と言うことを言わなくても協力してくれる。そんな大人が周囲にいることがはっきりとわかるからですね。

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友だちを強く注意する、と言う問題

世の中から、パワハラ問題がなくならない。これは人々の意識の中に「〇〇しなければならない」と言う意識が濃厚なためで、なかなかそう簡単にはなくならない。

怒鳴りつける上司の方にも言い分があり、そうは言ったって得意先のあることだからそうは言ったって締め切りがあるのだからそうは言ったって。さらに上の上司から叱られるのだからそうは言ったって・・・、という部長なら、部長の課長なら課長の言い分があるのです。

そこで、脅し暴力と言うものが使われるようになります。安易に相手がひるみ恐れ言うことを聞き従うからです。
この方法は、あまりにも安易で簡単で、シンプルで効き目が強いために多くの人がこれに頼るようになります。しかし、長い目で見れば、組織は徐々に弱体化し、その組織はそれを続けている限り、長続きはせず、良い人材は離れ、求人にしても、人は集まらなくなり、噂が噂を呼んで、退職者が増え、組織は成り立たなくなっていくのです。

従って、本当の会社の存続を願う社長は、パワハラをする中間管理職の方をやめさせるか、その行動や意識を全て是正していかなければならないのです。

さて、小学校の教室にも、中間管理職が現れます。いわゆる、「学級の中間管理職問題」です。

これは先生のように教師のように強く何々してはいけません。何々しているのはダメだと思いますと言うふうに、同じ子供を、学級の友達を、非難し、なじるということです。

これを放置しておくと、学級が荒れて行きます。問題が地下に潜り込んで、教師の目に見えにくくなることもあります。表面上はおとなしくても、早くこのクラスが終わるといいなと子供たちが考えるようになるのです。

子供が子供に注意するのをそのまま放置しておく事は私は基本的にはありません。注意ではなく、きちんと言葉を使って、「◯◯してほしいです。△△だと⬜︎⬜︎になるので、それよりももっとこうして欲しいです」と言うように、指導します。

あるいは、「◯◯だと嫌な気持ちになってしまうので、そのことをわかって欲しいです」という言い方も教えます。

わかって欲しい、という言い方は、なかなか子どもはしませんね。知りません。

でも、言い方を教えると、便利に使うようになります。

◯◯してほしかった、と過去形で言う言い方も教えます。

これも、ずいぶん使うようになります。
つまり、こっちの心情を慮ってほしかった、というのを、言えるようにするわけ。

これが言えるようになった子で、すぐに手が出たり足が出たりする子が、暴力に依存しなくなったケースは山ほどあります。

◯◯するのは悪いのでダメ!
なんでそんなことするの!
△△しなきゃダメでしょ!

・・・という言い方を覚えた子は、その言い方に依存しているだけなので、依存しなくても良いんだよ。別の言い方があるよと伝えることで、中間管理職を辞めるようになっていくわけです。

これは権力の味と言うものを教えることにもつながっていきます。権力者の言うことだから従わなければならない、権力者の言うことに従わなければひどい目に遭う、権力者の言うことに従わなければ、このグループからつまはじきにされる・・・
いつの間にか、こんな間違った概念が、子供たちに浸透しているのです。
権力者などどこにもいないと言うことを、子供には骨の髄から教えていく必要があります。

「あー!いけないんだ!悪いことしてる!!〜しちゃいけないって校長先生が言ってたんだよ!」
「他の子もみんな、そう言ってたよ!なんでしないの?!」

こんな言い回しをしている子供を見つけたら、教師は本当に気をつけなければいけません。それはパワハラを教えることになり、差別主義を教えることになるからです。ファシズムやレイシズムにもつながる、危険思想です。

小学校の教員は、中間管理職を見つけたら、よほど気をつけなければならないのです。よっぽど気を入れて慎重に慎重に考えなければいけません。権力を笠にきた言葉を使うことで、相手を意のままに操作しようと言う子供を1人でも生み出してはならないのです。

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