30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。

2025年05月

レオ・レオニ展へ

冬に備えてせっせと食べ物集めに勤しむ仲間を尻目に、働かずぼーっとしているフレデリック。「お日様や色やことばを集めているんだ」と言います。そんな彼に仲間はちょっと怒り気味です。冬になり蓄えた食べ物も尽きかけ皆の心が荒んできた頃、フレデリックは集めた「光」や「色」や「ことば」を語り始めます。目を閉じて聞く仲間たちの心はどんどん癒され満たされていくのです。“物質的な豊かさ”だけではなく“心の豊かさ”の大切さを考えさせてくれるお話です

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レオ・レオニが絵本の絵の登場人物は、横顔を描かねばならない、と言っているらしい。なんで正面ではないかというと、絵本の登場人物は常に横にいる何か、つまり第三の登場人物を見たり、それに話しかけたりするためで、登場人物が真正面を向いたらそれは読者を見据えることになってしまう。
そのためにレオレオニの絵本に出てくるねずみは全員が横を向いております。
小学校の教室では友達の横顔を見て成長するわけで、家でも兄弟の横顔を見ている時の方が、なんだかいろいろと学べる気がします。ひとの横顔を見ているときは、人生とか世間とかを、かなり客観視してるときですな。

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ドッジボール!勝ち負けにこだわらないルールのまとめ

小学校3年生くらいが、最もドッジボールを楽しめる年頃かもしれない。まだ力の差も少なくて、クラス全員が参加できる。
クラスの半数は、まだ投げる力が足りず、外野まで届かせることができない子も多い。だからこそ、外野まで投げられる子が非常に重宝されるし、憧れの存在になる。
力が足りない子はより、遠くへ投げたいと言う意欲が募ってくる。この憧れに似た気持ちと自信を鍛えたいと言う気持ちの相乗効果で身体能力が伸びる時期だ。

さて、通常のドッチボールだと、頭をあまり使わないので、体力、勝負になって単調になってしまう。
そこで、かなり色々と工夫をして、頭を使ってゲームを進めるように仕向けていく。勝ち負けにこだわらなくなるのがポイントだ。勝った負けたは、時の運も大いに作用する。買ったから、万歳をし、負けたから悔しがると言う、決まりきった態度をとるのが、だんだんと面倒になってくるのが非常に良い兆候だと思う。
勝ち負けに、非常にこだわるタイプの子どもも、時の運や頭の使い方で、どんどんと勝ち負けの状況が変わっていくのであれば、もう勝ち負けなんて、とんでもなくめんどくさいことに思えてくる。これは人生を長くやってくれば誰でも感じることで、同窓会に久しぶりに出てきた友達同士が、履いてきたハイヒールやハンドバック、服装や時計や髪型やらで、相手の持ち物を一瞬のうちに判断して、バチバチと勝った負けたを繰り返していると、疲弊するのと同じである。

さて、ここに一筋縄ではいかないドッジボールのルールをまとめておこう。
低学年にはオススメをしない。なぜなら、ルールが複雑だからだ。

まずは定期定番の、これら。

王様ドッジ、秘密王様ドッジ、コーンドッジ、火の玉ドッヂ、利き手じゃないドッヂ、転がしドッヂ。

コーンドッジは、自分の陣地の真ん中に小さなコーンを立てておき、ともかくも、それが倒れたら負けなのであります。人間に当てるよりも、はるかに多くの子供が、その小さなコーンをめがけてボールを投げますが、なかなか当たりません。人間が狙われにくいので、ドッジボールは嫌だと言う女の子が多い場合は、これで慣れさせていくのが良いでしょう。

火の玉ドッジは、途中で火の玉タイムがありまして、教員が「火の玉タイム!」と叫ぶと、火の玉タイムになります。やがて、火の玉タイムは終了!という合図があると、普通に戻ります。途中で約1分ほどそういう時間をつくります。火の玉をつかめる特別な子供しか、ボールを触れない状態です。中に小さな子が混じっている場合に有効です。その小さな子しか火の玉は触れないわけです。

1番複雑なのは、下記に記すドラクエドッジです。

ドラクエドッジボールは、最初に役職係を決めておきます。王様ドッチボールの亜流ですね。


まずは、👑王様(キング)が一名。

役割: チームの中心人物。
特徴: 当てられるとチームが敗北するため、守ることが重要。

🛡️ 戦士

特徴: 通常のボールでは当たってもアウトにならない。
弱点: 勇者や魔法使いのボールに当たるとアウトになる。

⚔️ 勇者

特徴: 戦士をアウトにできる唯一の存在。
特性: 戦士をアウトにした数だけ、自身が当たってもアウトにならない回数が増える。

🧙‍♂️ 魔法使い

特徴: バウンドや転がったボールでも、触れた相手をアウトにできる。
制限: 魔法使いのボールは、他の魔法使いしかキャッチできない。

※サンソンさんの「レクで学級をHappyに!」を参考に書かせていただいてます。感謝🥲

💧 スライム

特徴: 3人以上で肩を組むと「キングスライム」に変身し、その間は当たってもアウトにならない。
制限: キングスライムが当たると、30秒間合体できなくなる。

🔓盗賊

特徴: 最初に当てた相手の職業や能力を奪うことができる。

🧝‍♀️ 僧侶

特徴: 敵をアウトにすると、仲間を1人生き返らせることができる。

💃 踊り子

特徴: 当てた相手は10秒間コートの外で踊らなければならない。

👻 ゴースト

特徴: 敵の外野に入り、ボールを取って味方にパスできる。
制限: 敵の内野には入れない。当てられるとアウトになり、自陣外野にしかいられなくなる。

💣 ばくだん岩

特徴: 当てられると「爆発」し、周囲のプレイヤーを巻き込んでアウトにする。

どうだろうか。高学年向きだと言うことがわかっていただけたでしょうか?

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1・2年生の通知表【廃止】へ

日本のどこかの自治体で、廃止することに決めたそうです。
朗報と思います。
全員に、【頑張ったね】と言ってあげるのが必要で、それ以外に必要な言葉ってあるの?と思うからです。

不登校であっても、ウチで頑張っていたことがあるわけで、朝、新聞を取ってくるだけでも、机の上を片付けただけでも、その子の頑張りがあるわけで、それを認めるのが母性だと思います。
で、低学年は母性が十分に与えられる時代ですわね。

母性と言うのは、かなり誤解を受ける言葉で、今の時代に使うのはなかなか注意が必要です。
母性と言うのは、女性とは違います。性とは異なる概念で、女性にしかないと言うものではありません。男性にももちろんあります。
また逆に父性は女性にもあります。

母性とは何でしょうかね。母なるもの、命を産む者、産み育てるもの、というイメージで、泣いている赤子の全てを受けとめる、と言うイメージでしょう。
受け止めると言うのは受け流すのではなく、しっかりと受容する認めるという意味です。

大丈夫ですよ。あなたに必要なものを与えてあげましょう、安心してこの世に生まれてきてください、安心して育ってください、あなたは何が欲しいのでしょうか?欲しいものが与えられるのですよ。

と赤ちゃんにとっては必要なものが与えられていくのです。

良い声で泣かないと、ミルクがもらえませんよ?そんな泣き方でいいと思ってるんですか?おしっこはちゃんと3時間おきにしましょう。そうでなければ面倒は見ませんよ。
・・・これは母性とは言わないのです。

低学年は母性が必要な時代です。
だから、私は通知表の低学年廃止には大賛成です。
そして、低学年の子は、通知表を誤解しがちです。三角がついていたら、あなたにはそもそもその素質や能力見込みが全くないので完全にアウトです、と宣告されてしまったと言うふうに受け取る親もいます。そして子どもはその三角を親に指差されて叱られるわけです。隣のななちゃんは2重マル◎だったらしいよ?なんであんたは三角なの!

通知表と言うのは、ガンライそういうことをするためのものではないのですが、親や子供自身が誤解してしまうようなツールになり下がってしまっています。なので、いっそのこと廃止するのが正しいのです。

現代の若い人は、評価に弱くなった、と嘆くビジネスパーソンがいます。評価されることを嫌がる、怖がる。
最近、そんな若い人が増えて大変だよと言う記事が、プレジデントとか、軽めのタッチのビジネス雑誌によく掲載されていますよね。

私は若い人だけではないと思う。
世の中、全体が、評価と言うものを取り違えて捉えていると思います。
そのことをここに書くと長くなってしまうので、たった一言で言うのであれば、その子供と共に自己評価をその子がまずは判断し、その自己判断する際のお手伝いをしっかりサポートするのが教師になるべきです。

現状よくあるタイプの通知表は、国語の知識理解が◎とか、算数の思考表現が
とか書いてあり、とても自己評価とは言い難い。

これからの世の中を生きていく時に、必要なのは、自己評価と他者評価との違いを切り分けるリテラシーで、例えばパワハラとか各種ハラスメントや社会的なデマに対して強くなるには、他者評価に対するリテラシーは強くならなければなりません。暴言やデマに対して、あるいはカルト教団の狂った言説に対しては、リテラシーを持たないといけないのです。

その一方で、自己評価に対して各種データを提供し、その自己評価について自信を深めるようにアドバイスサポートすることができれば、それはその他者評価をうまく活用できたと言うリテラシーに発展します。

つまり、この今の現代の世の中を生きていくには、相当の覚悟とスキルとリテラシーが必要になってきたということです。昭和の比では無いのです。せやから、ネット上で噂される伝説も、真偽を見破る能力がなければならんやで。

こんな時代に、昭和の通知表と同じく、◎や◯やだけで、子供や親にその内容を深く伝えられるわけがありません。

誤解をされて当然なのです。

ちなみに、通知表を自分で作っていく自己評価支援スタイルに変えていくならば、低学年からでも、通知表の存在はあると良いと考えます。今の通知表や今の評価スタイルでは、まず低学年からなくしていくのが良いと思います。
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教師がゴールデンウィーク明けに話すこと

休み明けに、学校にやってくる子どもたちの表情はさまざま。
眠たそうな子も多い。
なんとなくスッキリした顔の子もいて、そういう子を見ると、ああ、良い充電ができたのだろうなあ、と思う。

ただ、全般的にはまだテンションは低め。

私はよく来たなあ、来たくない子もいるだろうけどなあ、と思うと、感心してしまう。

そこで、朝の会では、子どもの元気が出るような話をしようと思い、ゴールデンウィーク中に読んだ、かこさとしさんの科学の大サーカスの話をした。

子どもたちには、ありとあらゆる魅力的な世界が広がっている。
こちらは、人生の中で何度も繰り返し聞いてきたことでも、それを初めて聞く子どもたちは、目を輝かして聴く。

あまり長々とは話をしないのがコツ。
また、興味がある子は調べてみて、で終わる。

それにしても、小さな子たちが、毎日、毎日遠くからせっせと歩いて学校にやってくる。このことを純粋に静かに考えようとすると、今の私なんかよりも立派な子どもたちはたくさんいると思うし、その熱意と情熱と行動に、何とか応えてあげないと、と思わされる。

本来ならば、学校の教室にたどり着いた時点で、めちゃくちゃ褒めてあげたいレベルだ。今の学校には、それが足りない。教師のエネルギーが足りない。教師は疲弊しきっている。

休み時間になると、さっきのお話だけど、と続きを聞きに来る子もいる。また、「さっきの化学のはなし、僕調べてみる」と、静かな決意を報告しに来る子もいる。素敵だなぁと思います。

また、休み時間は、このゴールデンウィークにどんなことがあったのか、教えてくれる子もたくさんいます。だから、やはり教員は聞き役なのですね。歳をとるとともに、教員の経験を重ねれば重ねるほどに、教員は聞き役だなぁと思うようになりました。どれだけしてあげられるかよりも、どれだけ受けてあげられるか。

その子が一人ひとり持っているユニークさは、掘れば掘るほどにじみ出てくるもので、私はそのセンサーを自然と磨くことができていきます。私の方が磨かないと、それを感知できないのです。そのためには、どんな子なのかを知ろうと、毎日コツコツと、彼らに近づかなければいけません。
まるで長い長いトンネルを掘るような作業です。
スプーンで少しずつ少しずつ掘るから、1年経つと、その子のことがほんの少しわかってきます。そこに、教員としての私の学びがつまっていると言うわけです。

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教員が鍛えられることとは

どんな仕事を通じても、その仕事によって人が育てられると言う面はある。

私は、職業をコロコロと変えたので、それぞれに思い出がある。
若い頃はともかく、体力勝負の仕事もあったし、時間に間に合わせるのが第一の仕事や、見落としのないよう、正確にすることを求められる仕事もあった。

そして、それぞれの仕事で、仕事のコツやら、配慮すべきことや、最も重要視しなければならない点などが違い、何かを思い込んで勝手に進めてしまって、失敗することも多々あった。仕事をするようになってしばらくしたあるとき、学生の時よりも、仕事をすることの方が、勉強することが多いなぁと思った。これは多くの人がそう思ったでしょう?本を読む量も学生の時の何倍も読むようになりますし。アタリマエのことですが。

特に教員になって、自分が鍛えられたなと思う点は、徹底して人を嫌いにならないと言う点であります。

これは子どもについては当たり前っちゃ、当たり前なんですが、どんなに言うことを聞かない子でも、彼や彼女の追い詰められた事情が感じられてくるとしだいに情がわくものですし、長い間、これを続けていると、どんな人にもそう表出するにはその蓄積があるのが当然で、腹も立ちません。それに、その人のユニークさは付き合えば感じられてくるもので、面白さを少しも持たない人は、この世には皆無ですからね。人間全員が、小説の主人公に向いてると思います。

この、人を嫌いにならない、という姿勢は自分自身にも静かに向いているもので、わたしは何故だか自分のことも嫌いにはなれません。それは、子どもたちを相手にしているうちに、鍛えられてそうなったのだろうと思います。若い頃は、結構クヨクヨするタイプだったのですがね。

今は、だいたいどんな時も心のどこかで、こんなことやってるよオレ・・・アホやなー、おもろー、と言ってる気がします。子どものおかげですな。

どだい、教員をやってる、という時点で自分ではある部分では詐欺のようだし、世を偲ぶ仮の姿のように思うし、なにかの洒落かギャグのようにも思えます。金が要らない、というのがある種の高度な洒落かギャグのように感じられることと、同じように、ね。

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