30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。

2025年03月

鉛筆いっぽんサラシに巻いて・・・

サトシくんと言う子がいました。
このサトシくんは、筆箱の中に鉛筆が1本しか入っていないのです。

親と同じく、筆箱の中身については、小学校では先生も指導します。
赤鉛筆1本、普通の黒鉛筆を3本4本、よく字の消える消しゴムに小さなミニ定規を1つ、名前を書くためのネームペンが1本、などのように。

サトシくんも、黒鉛筆は3本か4本持ってくると良いよ

と声をかけるのですが、いつも必ず1本しかありません。
しまいには、筆箱すら持ってこなくなりました。机の引き出しの中に鉛筆が1本あるだけです。

おうちの方に電話をすると、しばらく立派な筆箱を持ってきて、ピカピカの鉛筆が5本ほど入ってるのですが、1週間も経つとやはり筆箱ごと家に置いてきてしまい、黒鉛筆一本に戻ります。

彼は、鉛筆一本でこの人生をなんとかしよう、と決めているのです。

料理人が包丁を、野球選手バットを扱うように、サトシくんは鉛筆をいっぽんだけ持って、すべての活動を片付けようとしていました。

いささか、乱暴ですよね。
鉛筆いっぽんだけで、すべてをこなそうとするなんて。

私が、

「いったい、どんな考えで鉛筆1本だけにしているの?」

と尋ねると、

「1本で何とかなるからね」

と、まるで人生を2回か3回、既に経験してきた人のように言います。

包丁1本さらしに巻いて、の歌詞でお馴染みの

月の法善寺横町

は、包丁一本で身を立てる若人の、心情がよく伝わる歌詞です。

包丁一本晒(さらし)に巻いて

旅へ出るのも板場の修業

待っててこいさん哀しいだろが

ああ若い二人の

想い出にじむ法善寺

月も未練な十三夜


(セリフ)

こいさんが私(わて)を初めて法善寺へ連れて来てくれはったのは「藤よ志」に奉公に上った晩やった。「早う立派な板場はんになりいや」ゆうて、長い事水掛不動さんにお願いしてくれはりましたなァ。あの晩から私は、私

は、こいさんが、好きになりました。


腕をみがいて浪花に戻りゃ

晴れて添われる仲ではないか

お願いこいさん泣かずにおくれ

ああいまの私(わて)には

親方はんにすまないが

味の暖簾(のれん)にゃ刃が立たぬ


わたしは、いつもサトシくんを見るたびに、この歌が思い浮かぶのです。
と言っても、本当に思い出すのは一番はじめの「ほうちょういっぽん、さらしにまいてぇー、たびにでるのぉもぉ、いたばのしゅーぎょおォー・・・」のあたりまでですが。

なにかしら、サトシくんの、登校してからの立ち居振る舞いに、生きる覚悟を感じるのですよ。
生きるというのは、本当にあれこれとあるもの、いろいろとあるものです。

あとで、サトシくんが筆箱を家に置いてくるのは、以前お母さんに、鉛筆を無くしたことを叱られたからだ、と判りました。

「一本しか無かったら、絶対に無くさないからね」

サトシくんの、肝の座ったような顔つきは、この時の覚悟から、滲み出ているものだったようです。

お母さんがどんなふうに叱ったのか判りませんが、彼はその時から、自分の生き方に責任を持ったんだな、と思いました。

FullSizeRender

小さな失敗 良い失敗

発達障害のある児童の中には、完全エラーレスの場合が望ましい時期やタイミングがあるから、万人にこれが当てはまるとは思わない。
ただ、かなり多くの人にとっては、「小さな失敗は良い失敗である」というのは、言えると思う。

また、成功とか失敗というのが、本質的なものではない、というのは、大前提であろうかと思う。人生において、成功だけにしか価値がないか、充実しないかというと、そんなことはないからであります。

たとえば、事業に失敗したからと言って、ある一面では大成功だと言える面もあるのですね。苦しい事業に取り組んで、その一代だけを見るとかなり大変に思えるが、時代が変わって技術が取り入れられたら、先代の努力が報われるということは非常によくある。つまり、その一代だけでは判断がつかないこともあり、むしろ挑戦者がいたことが周囲に与える影響は多大なのです。

成功か失敗か。
実はそれが本質なのではないことは、さまざまな人間ドラマを目にすれば誰にでも分かる簡単なことであります。
あるいは、無名で一生を終え、誰にも目を向けられることもない静かな人生であったとしても、そこには価値があり、人を感動させる事実はたくさん詰まっています。テレビや新聞、ラジオやネットで話題になるよりも、テレビに出ないでも周囲社会の人を幸せにして、まわりから感謝される人は多いのです。つまり、それが本質ではない、ということです。何者かになることが重要なのではなく、たとえ無名であっても、佳人も佳作も良品も良人もめちゃくちゃたくさんこの世に存在し、この世の多くの人を笑顔にしているわけですな。

そこで、では子育てにとってこのことがどう影響するかというと、めちゃ重要でありまして・・・

幼いときから、なにかあるたびに、

「小さな失敗、良い失敗♪」

と、たえず親が歌うようにするのです。

あとは、

「あなたがやれたことの9割は、他の人の手が入っている(お世話になっている)」

だとか、

「人が一心に打ち込んでいると、そのうちの半分が本当に実現する」

などということを、子どもが思春期になったら、遠くの方を見ながらつぶやくようにするのですね。

とくに学校の教師は、低学年の頃からこれを教室で口癖のように言うことです。

小さな ♪  失敗 ♪  良い失敗 ♪

と、明るく、ね。
子どもはずいぶん助かるだろうとおもいます。

IMG_9016


「人を育てる努力は、結果と比例しない」

先日の日曜日に書いた記事は、「学級経営と言う言葉から離れる」という記事でした。


この記事を読んだ嫁さんが言うには、

「なんか分かったような分からない文」

だと。

「結局、どっちなの?」と尋ねると、

「うん、分からんね」と。

そしたら、今日火曜日になってAERA.netに掲載されたホヤホヤの、鴻上尚史さんの文書が非常によく言ってくれてるのを見つけた。

さすが鴻上尚史さんで、言いたかったことをズバリ書いてくれている。

まとめると、「人を育てる努力は、結果と比例しない」ということです。



鴻上さんは、ある教員の悩みに答えるようにして、アンサーを書いてくれています。やはり劇団を経営してきた人だなあ、と感心しますね。学級経営と同じで、劇団員の生活や恋愛、経済状態までどんなこともひっくるめて、世話をし、相談にのるのが鴻上さんの仕事です。担任も、ほぼ子どもをとりまく全部の世界に関わって世話をします。
悩みを打ち明けた、この先生も、子どもの全てを世話することの意味と価値を問うたのですね。

鴻上さんは、こうも書いてる。

「全てがコントロールできるのなら、全ての責任は自分にある。でも、相手は人間だから、全てをコントロールできないし、コントロールしようとしてはいけない」

私は、鴻上さんのアンサーにとても近いのですが、ほとんど先生には力など無いのでは、というように思ってます。

しかし、この30代の先生を励ますために、このように書かれたのでしょう。
私はそんな鴻上さんの気持ちに、全面的に賛成しますね。

ただ、私は歳をとって、すでにお爺さんの目線で子どもを見ているために、自分に力がなくても、まったく大丈夫だと思うようになりました。なぜなら、子ども自体に力があるからですね。

IMG_8990

学級経営と言う言葉から離れる

今年になって、学級経営と言う言葉が引っかかるようになってきました。

言葉の元の意味としては、全く問題のないことであり、言葉の原点に立ち帰れば当然あるべき言葉です。

しかし、我々教師の意識として、どうにもついて回るうさんくさい意識があり、そのことから、逃れたいと言う気持ちが出てきたのです。

それが経営と言う言葉の後ろに隠されている意識で、「このようにすればうまくいく」と言うものです。

教師がこのような意識で、このような指示を出し、このように子供と接すれば、子供との関係がうまく作れてうまくいくと言うストーリー。これが最近語られている学級経営と言う言葉の意味になってきているような気がします。

ところが、教師がいくら何かを願って、何か行動したところで、それがうまくいったいかなかったと言うふうに捉えるのは間違っていると思うようになりました。

そもそもうまくいくとかうまくいかないと言うことも無いのではないか?というのが、今の心境です。

無い。
うまくいくとかうまくいかないとか、そういうものがそもそもないのではないかと言うことです。
だから、うまくいかせようと思って、何かをすると言うことが、そもそもないのではないか?・・・と。

なぜそんなことを思うようになったかと言うと、年末にある研修を受けたのですが、その研修がもう5分後には嫌になっていて、開始5分後にもう参加しているのさえ辛くなってきたからです。

その研修は、要するに、どういうものだったかと言うと、「こうすれば、うまく子供が操作できる」と言うものでした。

いわゆる教育技術と呼ばれるようなものですね。

20年前の私ならそれを喜んで受け入れたかもしれません。でも、今の私には全く不要だとさえ思いました。
というか、20年前の私ですら、それは害悪だったでしょう。

要するに、子供を操作しようとか、変えようと思うこと自体が、すべての誤りの出発点だったように思うのです。

そして教師が何かをしたから、きっと子供にはこのことが良い影響になるだろうと言うのは、完全に教師の思い上がりであり、私たち教師が何かをしたら、そのことの効果が上がると思っていること自体が思い違いなのです。

教師が何かアクションをすると、きっと良いことがあるだろうと言うのが既に間違いだと思うのです。

では、なぜ教師が学校などと言う制度の中で、子供に対してアクションを起こしているのでしょうか?
それは子供の安全を守るためです。
それと、子供が安心するからでしょう。おそらく・・・その2つでしょうね。

教師が何かをしたところで、うんと効果があるなんて事は無いのです。
おそらくほとんど効果のないことを試しにちょっとだけやってみると言うのが教師の事実です。それらはほとんど効果はありません。もし、あったとしたら飛び上がって喜ぶべきです。さらに言うと効果があったと言うふうに判断するのは、少なくとも10年後の子供たち本人です。我々教師は、口が裂けても効果があったと言い切ってはいけません。

FullSizeRender


記事検索
メッセージ

名前
本文
月別アーカイブ
最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 累計:

プロフィール

あらまそうかい

RSS
  • ライブドアブログ