30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。

2025年02月

ひとりごとを、努めて言おう

小学生の近くにいると、彼らが基本的にはリラックスできているのがわかる。
友達や先生と良いコミュニケーションをとり、家族に支えられながら、暮らすことができていると思う。

小学生が大人と違う点はたくさんあるが、その一つは、子どもはひとりごとをよく言う、ということだ。

あれ?

とか、

なんだコレ?

とか、

大人でもまあ、言うことはあるし、人によっても頻度は違うだろうが・・・

それでも大人は、目の前に起きた事象に対して、努めて黙って処理する大人が多い気がする。

しかし、子どもはよく、ひとりごとをつぶやいている。本当に、1人で、自分にだけ聞こえる声で。

この世の中には、誰か、ひとりごとを言う頻度を年齢別に調査した人はいるのだろうか・・・この「人間がひとりごとをいう確率」についてはエピデンスは無いが、たしかにそうだと思う!
長らく小学校の教員を務め上げてきた私の、個人的な見解だが、断言したい。

ここからが本題となるが、その小学生のノリが我が身に伝染してしまったようで、私も独り言が多くなってきてしまった。

これは以前の職業のときには絶対になかったと思う。システムエンジニアや、他の職業をしていたときには、独り言なんて言わなかったし、常に黙って黙々とやり続けるのが私の性格であった。

いや・・・もしかすると、ただ単に歳をとったせいかもしれないナ。

どちらにしても、独り言はとても良い効能がある、ということを、わたしはここで言いたいのである。


ひとりごとには、効用がある。

ぜひここでオススメをしておきたい。

独り言を言うとちょっと客観視できるようになる。
自分が今どんな状況に陥って、そのことに対してどんな反応をして、どんなことを思っているのか、感じているのか、それを一旦表現してみる。
すると、その自身の起こした反応や表現が、自分の耳を通して聴覚として伝わってくる。
その際、今の出来事と自身の反応について、客観視が行われるのだろう。

声のトーンや調子でも、自分の内面がよくわかる。
本当に焦った声なのか、それともむしろこの状況を楽しんでいるのか、めんどくさいと思っているのか、声の調子でも、そのことが自分にはよくわかる。客観的に自分の今のレベルが伝わってくるのである。

お勧めの独り言は、簡単なものだ。

おすすめの1番は、「アレ?」である。

日常生活の様々な場面でこれをよく使っていただきたい。

どんなときも、ひとりごとを言うのですよ。そして、ひんぱんに、あれ? とか、 アレー! とか、ことあるごとに言うのです。1週間やってごらんなさい。非常にこころもちが変わってきます。これは、子どもから教えてもらったことです。 IMG_5104





トランプ大帝国とゼレンスキー大統領

前回の記事で、学校から減らすものなくすもの、そして増やすもののリストをあげた。

そして、その最後に
【始めたり増やしたりするのは簡単だが、終わらせたりやめたりするのはめちゃくちゃ難しい】
と言うことを書いた。

すると、このことについて、私に直接メッセージくれた読者の方がいた。
確かに、そう思う、・・・と。
現にヨーロッパの戦争は、いまだに集結していないではないか、と・・・。

ホントですわ・・・。ゼレンスキーさんよ・・・。

人間関係のことを考えると、結婚もそうだろうと思う。
恋人同士になるのは、割と簡単で、その気になればすぐだ。
結婚するのも簡単だろう。その気になればスムーズなことが多い。

しかし、これを解消するのが難しい。
別れると言う事は、人間は非常に苦手なのだ。付き合い始めるのは簡単だが、それをうまく止めることが難しいと感じる人が多いんだろう。
昭和の歌謡曲だけではなく、万葉集の昔から、人は、過去に生きているために、未練もあろうし、寂しさもあろうし、あの時、あーすればよかったと言う後悔もあるから、やっぱりやめたくない、終わらせたくないと願うのが人間のようである。

子供の喧嘩も見ていると、あっという間に始まってしまう。
喧嘩を始めるのは超簡単なのだ。
これは、人間の認知能力が非常にもともと狭いもので、ある方向からしか物事を見られないために誤解を生じやすいから、致し方ない面もある。

しかし、人間がこれだけ2000年以上も、文明を発達させているのに、喧嘩を止める方法と言うのは、未だ開発されていないところを見ると、多分、私を含めてホモサピエンスには、そのことを思いつく基盤がないのだろうと思う。

基盤がないのだから、要するに、そんな事は、今の人間たちには無理なのだろうとさえ思う。

ちなみに、その方法を、今の時代に誰かが唱え始めたとしても、全く共感はされない。なぜなら、荒唐無稽で、そんなのは無理だと言う概念に違いないからだ。



さて、ウクライナの戦争は、トランプ大統領になってから、なんだか方向が変わってきた気がする。
特に、トランプ大統領がプーチンと直接話し合い、その場にゼレンスキーを呼ばなかったところを見ると、急転直下、物事が進むような気がする。

トランプは、セレンスキーやウクライナのことを考えず、どうやら戦争を終わらせようとしている。
おそらくプーチンにもそのまま占領した領地を認めてしまうのではないか。

セレンスキーさんは、亡命するか、どこかに身を隠すことになる。今やトランプの目の上のたんこぶだからね。

ゼレンスキーを含めた政府首脳がスイスに亡命し、ウクライナの戦争は、トランプの鶴の一声で終わってしまうのではないか。

領土問題はそのままだ。
ヨーロッパも文句は言うまい。誰もプーチンと渡り合える人がいないからだ。

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仮にそうなった場合の次の展開はどうか。

これはアメリカの独走が始まる。
中国はそれに対抗したいだろうが、アメリカは中国とどこまでも様々なチャンネルで脅したり懐柔したり譲歩したり責めたりしながら、なんとか付き合っていくことだろう。
中国政府は恐怖支配をますます強め、監視を増やして1984をさらに進めるだろう。見せかけの民主主義と共に。

人々の考えは、おそらく二分されていく。トランプのように、【即断する強烈な支配】を好む層と、【ゆっくりで良いから弱者に寄り添う】層と。

そして、どちらにも共通する欠点が、

一旦始めた喧嘩を止める方法が見つからない

と言う点である。

ところが、小学校のクラスには喧嘩を止める方法が実は存在しています。
社会学者も、憲法学者も、政治国際学者も誰も注目しないんですが、実は足元に解決方法はあります。

それがお互いに諦めるということです。

小学生、特に低学年はすぐに言いますよ。
「ごめんね」
「いいよ」

特に年配の先生はそれを聞いてぎょっとします。

え?
いいの?
それで許しちゃうの?
ほんとにいいの?

・・・ってね。

夕方になって、保護者にそれを電話で伝えると、

「え?子供は許しても私が許しません!絶対許せないです!弁償してもらっても絶対許しません!」

と、保護者からは文句が出ますけどね。

学校から、なくすものとふやすものをリストアップ

【なくす】
家庭訪問、紙の印刷、通知表の所見、使っていない備品、学校からの配布物、現金徴収、連絡帳(3年生以上)など
【へらす】
授業時数、会議、学年費会計の報告回数、ワークシート、職員室に保管する物、子どもが学校にいる時間、掲示物など
【うつす】
学校通信や学年通信は配信へ、文書は紙からクラウド管理へ、教材作成や健康診断入力などはスクールサポートスタッフへ、連絡掲示板はGoogleクラスルームへ、など
【ふやす】
研修の頻度、外部機関との連携、ChatGPTの活用、Googleカレンダー、欠席連絡・保護者連絡アプリ、職員室のフリースペース、教育書共有本棚、年度末の個人懇談、職員間のコミュニケーションの機会、オンラインでのコミュニケーション、生活科・総合的な学習の時間での地域との関わり


わたしはどちらかというと、最後の
【ふやす】が大事だと思うね。
それらが、不足しているから、保護者含めて子どもたちをとりまく大人たちが、苦しくなっていると考える。
だが、それを【ふやす】ためには、なにかを減らさないとダメ。

ところが、減らすとか無くす、というのは、とてつもなく難しい。

◯仕事を増やすのはかんたんだが、なくすのは難しい。
◯けんかをはじめるのは簡単だが、やめるのは難しい。
◎戦争をはじめるのはカンタン。やめるのが難しい。

↑ 人間が苦しんでいるのは、すべて、これですわ。


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努力して何かを成し遂げる、の怖さ

ブラック企業しか経験してないために、私の評価軸はかなり狂っているのかもしれません。
二十代は、本当に土日という概念がありませんでした。だって休日が無かったからね。

というと、大げさだという人がいますが、本当に1日も休まなかったのですから、これは他と比較しても誰も文句の言えないレベルのブラックだと思います。

さて、三十代は、ブラックでお馴染みのIT業界。その後もブラックの代名詞であります教員と。
ブラック街道を渡り歩いて参りました。

1番のブラックは、教員ですね。IT業界よりも畜産よりも編集よりも販売営業よりもイベント企画よりもブラックです。全部経験して、私自身が証人であります。なかなか世間に居ないかもね、それ全部経験、やった人は・・・。

いや、意外といるのかも?(いらっしゃったらコメントくださいませ。同じ教員という仕事について語りたいです)

さて、ブラック、の本質って何でしょう?

私が考える、ブラックをブラックたらしめるポイントとは何か。

一つは、しない方が良い努力をする、という点。
誰の得にもならない努力があり、正直に言えば、やればやるほど別の方向に行く、ということ。

で、長い人生を考えると、おそらくですが、その「ただしい方向」というのが怪しいのです。それも、Aの方向が正解なのにBを目指してしまった、ということではなくて。
そもそも、「ただしい方向がある」という強迫というか思い込みがすでに間違っている、というわけです。

多くの人は
なにか成し遂げると素晴らしいことがあるんや、この方向や!これがワイの夢なんや!
ということがあって、努力をしていると思います。

で、その方向を間違うと、えらく目的地から離れた場所に行ってしまい、こんなはずではなかった、と思うらしいですな。ブラック企業では、毎日、それが常態化してるのでしょう。

ところが、ブラックとは縁のない生き方をする限り、こんなことは「起こり得ない」のです。
無駄な努力をしない人は、方向なんて考えないのかもしれないんです。

どれだけ働いてもブラックにならない人は、わりと直観で、人間として間違ってない、という程度のことで進んでいる。

やるべきだ、で進まないから、自然に進みたくなるから、間違わないのですね。したがって、後から、こんなはずではなかった、とは断じてならない、というか、非常にそうは、なりにくい。最初から、後悔とは無縁なのです。最初から無縁、というのがポイントかなぁ。

つまり、多くの人が考えるところの、ああ成し遂げた!というのは、一体何を成し遂げたと言うのか、なかなか難しいということです。
もしかしたら、まったく成し遂げてはいない、ってことだってあり得る。
世の中を見てみると、後者の方がどちらかと多いのパターンなのかもしれません。

こう考えると、おそらく人間は、努力、という、なんだか野蛮で、はしたないことを、すればするほど、ズレるのかもしれなくて、

ただ、美味しい飯を食って、家族がいれば家族をささえながら、気分よく何かに取り組む、ということが進み方としては一番良いのかも。

私は血眼になるのは、人間としては面白いですから大好きで、血眼の人を見るのは好きです。
血まなこと言うのは、ある種のトランス状態に近い。
それに、自分も血眼になることは愉快なので時折、それをするんですが、それでも何かを成し遂げるために血眼になるのは、どこか強迫的で品がなく、拒否したい気持ちがありますね。病的な感じがして。「オレは大物にならなくては・・・!」という雰囲気の子が、ごくたまーにいるのですが、ハッキリいって、病的な感じがします。それがブラック、ということですからね。

美味しいカフェ・オ・レを飲みながら、気分よく勉強するのが、ブラックではない人の過ごし方であり、名誉か褒美か、そういう自分以外の何かになるための働き方をするのは、ブラックだと思います。

その意味では、私の二十代は、面白すぎました。もっとも洒落ていた、と今でも思います。
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基本、やらなくて良いことばかり

人生は、基本、やらなくても良いことばかりだろう、と思います。

とは言え、生きていくためにやるしか無いこともあります。
それは、原始時代の人間も、今の人類も、変わらずやることでして、すなわち衣食住のこと。
衣食住の基本部分について、ある程度自分でやれるのが一番で、それ以外は本当は人間がどうしてもやらなければならないことでは、無いのかもしれません。

小学校はそういう意味では、かけるべい時間がもっと衣食住に偏っても良い気がする。

これ、役に立つな!と、
本当に子どもが思えることか、あるいは子ども自身がやりたくて仕方のないことを、やるのですから、みんなやると思います。

さて、現役で教師をしていると、さまざまな親子をみることになるのですが、そういった、ある意味人間にとって原始的な行動をしっかりさせることが、その子のやる気を結局は伸ばすことになると、私は感じておりますね。

宿題、とか
勉強、とか
算数、とか
掛け算、とか、
英語、とか漢字とか。

そういう話題を子どもと話す前に、

食べること、とか
寝ること、とか、
パジャマが快適か、とか
洗濯するとどうなるか、とか
毛布のこと、とか
寒さとか暑さとか、
汗をかいた、とか
病気のこと、とか
この佃煮おいしいね、え、お母さん、つくだにってなあに?とか
残りご飯でチャーハンつくろかな、私も手伝うーとか
お風呂ってなんであんなに気持ち良いの、とか。
頭が上手に洗えたね、とか。

そういう話題でとことん話してますか、ということ。

おそらく、1対50000
くらいの比率で、宿題の話よりも衣食住の話をした方が、子どものパワーは上がりますよ。結果として学習の力もね。案外、遠回りが近道なのかもね。

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伝統的な校則?〜校則が複雑だと誰が得をするのか〜

近年、話題になってる、神社にお参りするときの「二礼ニ拍手一礼」を近所の94才のお婆様がご存知なかったことがショックです。

自治会の年度末の係の寄り合いがあり、待ち時間に駄弁っているときに判明したのです。

若い30代の男性が「二礼二拍手一礼を子どもに教えた」という話をしてたら、「地元の年寄りはそんなの昔は誰もやらんかったわ。今でもやりゎせんけど」と、その94歳の素敵なお婆様がおっしゃってました。

それを聞いて、みんな笑ってましたけど、たしかその場には神主さんもいたんだよね。普段着だったけど。否定してませんでした。

明治期、特に昭和になってから流行してるムーブメントのようで、伝統というわけではないようですね。私はてっきり伝統なのかと・・・。

さて、このように明治期に始まったものが「伝統」と呼ばれるのには違和感を抱くわけですが、江戸時代から、あるいはそれよりも前の神社はどんな雰囲気だったのでしょうか?

まず、今のような二礼ニ拍手一礼、などと言うような決まった作法を、江戸時代の人はそれぞれ持っていなかったようです。町人なら町人、商人なら商人、大工さんであれば大工さん、武士なら武士、と言うそれぞれの人間の、畏敬の念をそれぞれが示していたと言うわけです。

ちなみに落語に出てくる熊さんとか、天神様にお参りしたりしますが、誰もそんな複雑な事はしていません。

明治8年の式部寮による「神社祭式」ではただ「再拝拍手」とのみ記されています。それまでの日本では、古来よりそのことすら定まっておりませんでした。定まってない、ということが伝統だったわけ。

なんだか、校則を想起させますね、この展開・・・。神社の作法と校則の、類似点が凄い。「これが正しい!間違いは許さない!正当なもの以外は排除する!」ってな、雰囲気を感じるんだよねー。

まあ、私が住むような田舎では、江戸時代から昭和を経て、令和に至るまで、礼拝の作法の形はずっと自由だったようで、まあ普通はそうだろうなあ、でなきゃ続かないもんな、と納得したのでした。

それにしても、我々は、江戸時代の庶民の実際の姿や心情を、もっと学んだ方が良いかもしれません。江戸時代の川柳とか、庶民の心持ちに多く触れることができますから。

参考文献・
神道の成立(高取正男・平凡社ライブラリー)
古神道は甦る(菅田正昭・橘出版)
神道の本(学研)

ちなみに、
この神社での作法については諸説あります。
「二回おじぎをして二回拍手、一礼(再拝二拍手一拝といいます)」というポピュラーな作法についても、「いや、拍手をする習慣は宮中にはないので拍手をしてはいけない」とか「男性はいいが女性は拍手をするものではない」とか、「一般神社は再拝二拍手一拝だが、出雲大社と宇佐神宮と弥彦神社は再拝四拍手一拝なのだ」とか、「伊勢神宮は四拝(または八拝)八拍手(八開手・やひらで)一拝だ」とか、「いや、本来古い祭祀を司ってきた白川神道の正しい所作は三拝三拍手一拝で、それが正しいのだ」とか、さまざまな異説、ときに「すべて間違いだ」という指摘があります。
だそうです。非常に難易度が高いですね。これではますます神社が遠いものになりそうです。
こうした論議も、なんだか学校の校則のようで、なんだか残念な気が・・・。


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節分は学校では扱わない方が・・・

私自身は日本の古来から続く良き伝統を大切にしたいと思っていますし、神社のあの静寂さも大好きです。

さて、日本では正式な伝統として名高い「節分」ですが、豆まきは校長先生にはウケが悪いです。

なぜか。

読者のみなさんは、ピンときたかな?

ハイ、ご名答!

「苦情の電話がくるから」

その通りです。
保護者からの電話が鳴る案件は、校長先生としては、厄介なのですね。

「落ちた豆を子どもが食べたらどうなるんだ!」

確かに、不衛生だし、「食べないで」と指導しても子どもは食べちゃう。
落ちた豆を子どもがもし口にしたら、学校としてはマズい。

これ、実は名案がありまして・・・。

ピーナッツでやるんですよ!

それも、殻付きの・・・。
そしたら、豆まきというか、鬼に向かって殻付きのピーナッツを投げた後、回収して、先生が殻をむいて食べれば良いですからね。

そしたら、子どもが言うそうです。

「ズルい!先生だけ食べるなんて!」

ところがこれも保護者からクレームが来たそうです。どんなかって?

「殻付きとはいえ、子どもに落ちたものを食べさせるなんて、ひどい!」
たしかに。
もしかしたら、偶然にも床のホコリになんか良くないものが絡まっていて、殻付きであってもやばいことがあるのかもしれません。

そこで、もう節分に対する解釈をかなり改良?しまして、鬼に向かって投げたフリをする、ということにしました。
実際には投げません。これでクレーム対応はバッチリです。

なにしろ、文科省からはなんとなく、日本の伝統を重んじ、季節を感じる日本の美意識の涵養につながるような行事をやれ、伝統的文化は日本人の心を養う観点からも推奨することが望ましい的な、言葉にならないくらいの圧迫感が現場に降りてくるんすよ。
いや、実際にはハッキリ文書が出てるわけでは無いですがね・・・

そこで、良き日本の伝統文化を子どもに継承するため、今年も先生たちは鬼の面を被って、殻付きピーナッツを浴びようとする。

ところが、これもクレームがはいるのですよ。こうなったらもう、節分には関わらない方が良さそうです。

ピーナッツ・アレルギーの子がいるかもしれないからです。

保護者が知らない、というアレルギーがある。保護者が、そんなにピーナッツを子どもに食べさせたことがなくて、本当にうちの息子がピーナッツアレルギーだと、知らない場合があるんです。滅多にないでしょうが、それでも、あり得る。書類に「ピーナッツアレルギーはありません」で、マルをつけちゃう。

その子は最初、たらん、と鼻水を出しただけでしたが、徐々に呼吸が荒くなって青ざめてきまして、救急車で運ばれたそうです。私も校長先生から聞いた話ですが。

「昔はこういう行事があったらしい」
と、絵本を読む程度にすれば良いのかも。

ちなみに七夕は、起源が中国ということで?の謎クレームが来たことが。

それにしても、かわいそうなのは現場の先生です。

文科省を含めた世間からは、伝統行事を重んじろ!節分も行事もやれ!と言われ、保護者からは、節分行事やめろ!と、はさみ撃ちに・・・
これを、ダブルバインド、と言います。

ダブルバインドって、人を病ませる、一番やってはいけない「価値観の縛り」らしいですな。うつ病の原因らしいです。

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