お正月に富士山を見に行きました。
思い出したのは、三四郎の一節です。
夏目漱石の書いた三四郎では登場人物が富士山を褒めるシーンがあります。
「さすが富士山ですね綺麗だな」という主人公に向かって、
「あれは元々日本にあった自然のものですよね。ところが日本には、人間が作ったもので誇れるものは何一つもない」
という有名なセリフがあるのです。
この三四郎が書かれたのは、日露戦争が終わって3年後の、明治三十何年、という時代であります。日露戦争が終わり、われわれは近代化に成功したと、日本人が身の程をわきまえないようになり、だんだんと我が身のサイズを間違え始めるタイミングですわね。
その後、増上慢になった軍部は、1933年には国際連盟を脱退、議会を無視するようになり、天皇直属で統帥権を持ってるのだと世の人を騙して多くの人が犬死にしてしまった、あの太平洋戦争へ突っ込んで参ります。
ほとんどの人が兵糧が無いための餓死だったとあとで分かり、息子の犬死にをなんとしても認められずに「餓死なんておかしい」と、勲章を欲した母の物語はいつ聞いても泣けますわね。
昨年、日本はついに一人当たりのGDPをお隣の韓国に追い抜かれてしまいました。
これを伝えると、今でも70代、80代の方は
「そんなの嘘だろう」
と思うらしいです。さすがバブルを知る世代ですね。
私は、もうGDPを指標にすることを、多くの日本人が拒否したい気持ちになってるんだと思う。実のところは・・・。
だれも、もうそのような世界を追いたいとは、思ってないんでしょうね。だから、日本は、だんだんとそちらへ向かっているのです。ごく自然に心の発する方へ、日本は向かっているのでしょう。
明治の頃の日本の生活レベルでも良いのだと、日本人の大多数が、本当は心の底で思ってるのではないかと感じます。まだ、明治の時代には、「勿体無い」という言葉がまだ社会的にも世間的にも生きていましたからね。
日本人の美意識とか、モノとの付き合い方とか、自然を愛する気持ちとか、見失ってしまっているのでは。
今はかなり無理して、GDPは人間にとって最高の指標と、そう思い込んでいるだけ。かなり目盛りの狂った状態なのではないか?・・・と。
人口で言えば、日本は世界で11番目位です。GDPも11番目位でも良いのかもしれません。そしてそのくらいの方が本当の意味で日本人が幸せになるのではないかと思います。
なんでこんなことを書くかと言うと、忙しすぎる小学校が、おそらくこの世の中の軋轢や圧迫感や強迫観念らしきものと、無縁ではないと思うからです。
子どもたちは大いに余裕を失っております。
そして、その余裕を失っている原因は、カリキュラムの詰め込みすぎです。
また、教育に予算をかける余裕がなく、他のことに予算を使うため、教育にはほとんどお金は回ってこないのです。
カリキュラムがなぜこうも忙しくなったかと言うと、学校で、パソコンやら情報やらインターネットについて教えることになったことや、大きく英語や道徳が教科になったことが挙げられます。
ですが、減ったものはほとんどないのです。昔に比べると低学年の下校時間は、ますます遅くなってますからね。
昔の子供だって、余裕があったわけではありません。
なのに、子供に対する要求度だけ爆上がりしているのです。
なぜ、子供に要求するかと言うと、大人が何かしら焦っているためですね。
その大人は、GDPと言う指標に焦っているのです。
おそらくGDPと言うものを語らなくなった瞬間から、日本は救われていくだろうと思います。子どもは間違いなく救われるし、もしかしたら大人も救われる人が過半数を超えるかも・・・。
ですから、11番目で良いのかもしれないです。本当は。
報道の自由度は、世界70位らしいですから、そんくらいでもいいかもね。
夏目漱石は、三四郎の中で登場人物にこう言わせております。
「身の程をわきまえなくなった日本人は、いずれ滅びます」

思い出したのは、三四郎の一節です。
夏目漱石の書いた三四郎では登場人物が富士山を褒めるシーンがあります。
「さすが富士山ですね綺麗だな」という主人公に向かって、
「あれは元々日本にあった自然のものですよね。ところが日本には、人間が作ったもので誇れるものは何一つもない」
という有名なセリフがあるのです。
この三四郎が書かれたのは、日露戦争が終わって3年後の、明治三十何年、という時代であります。日露戦争が終わり、われわれは近代化に成功したと、日本人が身の程をわきまえないようになり、だんだんと我が身のサイズを間違え始めるタイミングですわね。
その後、増上慢になった軍部は、1933年には国際連盟を脱退、議会を無視するようになり、天皇直属で統帥権を持ってるのだと世の人を騙して多くの人が犬死にしてしまった、あの太平洋戦争へ突っ込んで参ります。
ほとんどの人が兵糧が無いための餓死だったとあとで分かり、息子の犬死にをなんとしても認められずに「餓死なんておかしい」と、勲章を欲した母の物語はいつ聞いても泣けますわね。
昨年、日本はついに一人当たりのGDPをお隣の韓国に追い抜かれてしまいました。
これを伝えると、今でも70代、80代の方は
「そんなの嘘だろう」
と思うらしいです。さすがバブルを知る世代ですね。
私は、もうGDPを指標にすることを、多くの日本人が拒否したい気持ちになってるんだと思う。実のところは・・・。
だれも、もうそのような世界を追いたいとは、思ってないんでしょうね。だから、日本は、だんだんとそちらへ向かっているのです。ごく自然に心の発する方へ、日本は向かっているのでしょう。
明治の頃の日本の生活レベルでも良いのだと、日本人の大多数が、本当は心の底で思ってるのではないかと感じます。まだ、明治の時代には、「勿体無い」という言葉がまだ社会的にも世間的にも生きていましたからね。
日本人の美意識とか、モノとの付き合い方とか、自然を愛する気持ちとか、見失ってしまっているのでは。
今はかなり無理して、GDPは人間にとって最高の指標と、そう思い込んでいるだけ。かなり目盛りの狂った状態なのではないか?・・・と。
人口で言えば、日本は世界で11番目位です。GDPも11番目位でも良いのかもしれません。そしてそのくらいの方が本当の意味で日本人が幸せになるのではないかと思います。
なんでこんなことを書くかと言うと、忙しすぎる小学校が、おそらくこの世の中の軋轢や圧迫感や強迫観念らしきものと、無縁ではないと思うからです。
子どもたちは大いに余裕を失っております。
そして、その余裕を失っている原因は、カリキュラムの詰め込みすぎです。
また、教育に予算をかける余裕がなく、他のことに予算を使うため、教育にはほとんどお金は回ってこないのです。
カリキュラムがなぜこうも忙しくなったかと言うと、学校で、パソコンやら情報やらインターネットについて教えることになったことや、大きく英語や道徳が教科になったことが挙げられます。
ですが、減ったものはほとんどないのです。昔に比べると低学年の下校時間は、ますます遅くなってますからね。
昔の子供だって、余裕があったわけではありません。
なのに、子供に対する要求度だけ爆上がりしているのです。
なぜ、子供に要求するかと言うと、大人が何かしら焦っているためですね。
その大人は、GDPと言う指標に焦っているのです。
おそらくGDPと言うものを語らなくなった瞬間から、日本は救われていくだろうと思います。子どもは間違いなく救われるし、もしかしたら大人も救われる人が過半数を超えるかも・・・。
ですから、11番目で良いのかもしれないです。本当は。
報道の自由度は、世界70位らしいですから、そんくらいでもいいかもね。
夏目漱石は、三四郎の中で登場人物にこう言わせております。
「身の程をわきまえなくなった日本人は、いずれ滅びます」
