30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2025年01月

日本が誇るものと いえば

お正月に富士山を見に行きました。
思い出したのは、三四郎の一節です。

夏目漱石の書いた三四郎では登場人物が富士山を褒めるシーンがあります。

「さすが富士山ですね綺麗だな」という主人公に向かって、
「あれは元々日本にあった自然のものですよね。ところが日本には、人間が作ったもので誇れるものは何一つもない」
という有名なセリフがあるのです。

この三四郎が書かれたのは、日露戦争が終わって3年後の、明治三十何年、という時代であります。日露戦争が終わり、われわれは近代化に成功したと、日本人が身の程をわきまえないようになり、だんだんと我が身のサイズを間違え始めるタイミングですわね。

その後、増上慢になった軍部は、1933年には国際連盟を脱退、議会を無視するようになり、天皇直属で統帥権を持ってるのだと世の人を騙して多くの人が犬死にしてしまった、あの太平洋戦争へ突っ込んで参ります。

ほとんどの人が兵糧が無いための餓死だったとあとで分かり、息子の犬死にをなんとしても認められずに「餓死なんておかしい」と、勲章を欲した母の物語はいつ聞いても泣けますわね。

昨年、日本はついに一人当たりのGDPをお隣の韓国に追い抜かれてしまいました。
これを伝えると、今でも70代、80代の方は
「そんなの嘘だろう」
と思うらしいです。さすがバブルを知る世代ですね。

私は、もうGDPを指標にすることを、多くの日本人が拒否したい気持ちになってるんだと思う。実のところは・・・。
だれも、もうそのような世界を追いたいとは、思ってないんでしょうね。だから、日本は、だんだんとそちらへ向かっているのです。ごく自然に心の発する方へ、日本は向かっているのでしょう。

明治の頃の日本の生活レベルでも良いのだと、日本人の大多数が、本当は心の底で思ってるのではないかと感じます。まだ、明治の時代には、「勿体無い」という言葉がまだ社会的にも世間的にも生きていましたからね。

日本人の美意識とか、モノとの付き合い方とか、自然を愛する気持ちとか、見失ってしまっているのでは。
今はかなり無理して、GDPは人間にとって最高の指標と、そう思い込んでいるだけ。かなり目盛りの狂った状態なのではないか?・・・と。

人口で言えば、日本は世界で11番目位です。GDPも11番目位でも良いのかもしれません。そしてそのくらいの方が本当の意味で日本人が幸せになるのではないかと思います。

なんでこんなことを書くかと言うと、忙しすぎる小学校が、おそらくこの世の中の軋轢や圧迫感や強迫観念らしきものと、無縁ではないと思うからです。

子どもたちは大いに余裕を失っております。
そして、その余裕を失っている原因は、カリキュラムの詰め込みすぎです。
また、教育に予算をかける余裕がなく、他のことに予算を使うため、教育にはほとんどお金は回ってこないのです。
カリキュラムがなぜこうも忙しくなったかと言うと、学校で、パソコンやら情報やらインターネットについて教えることになったことや、大きく英語や道徳が教科になったことが挙げられます。

ですが、減ったものはほとんどないのです。昔に比べると低学年の下校時間は、ますます遅くなってますからね。

昔の子供だって、余裕があったわけではありません。
なのに、子供に対する要求度だけ爆上がりしているのです。

なぜ、子供に要求するかと言うと、大人が何かしら焦っているためですね。

その大人は、GDPと言う指標に焦っているのです。
おそらくGDPと言うものを語らなくなった瞬間から、日本は救われていくだろうと思います。子どもは間違いなく救われるし、もしかしたら大人も救われる人が過半数を超えるかも・・・。
ですから、11番目で良いのかもしれないです。本当は。
報道の自由度は、世界70位らしいですから、そんくらいでもいいかもね。

夏目漱石は、三四郎の中で登場人物にこう言わせております。

「身の程をわきまえなくなった日本人は、いずれ滅びます」

IMG_8292

コーヒーに関する雑学

私がおいしいと定義するコーヒーのポイントは、単純に言えば

際立つ印象的な風味特性があり、爽やかな明るい酸味特性があり、持続するコーヒー感が甘さの感覚で消えていくこと。

最後の「甘さの感覚で、コーヒー感が消えていく」と言うのは、1番大切な部分で、この余韻を楽しむために、コーヒーを1口1口大切にすすっている。

職場でコーヒーの話になり、どのコーヒーが1番おいしいの?どう違うの?と聞かれたが、これは非常に子育てに通じることだ、と思った。

こちらに、正しいセンサーがあるかどうか。

小学生の担任となって、はや20年。この間、様々な子供とめぐりあい、一人ひとりと濃厚な時間を過ごしてきたが、どの子も同じだろうと言うのは間違いである。その個性や特徴は、ハリーポッター1冊では及ばない位の文字量が必要になる。

コーヒーも同じで、どれだけ言語化できるかというのは1つの目安になる。
コーヒーを飲んだときに、おいしい以外の表現ができるかどうか。
違うのはわかるけれど、どう表現をすれば良いかわからないと言うのが私の最初の出発でした。
コーヒーの風味の表現は、フルーツやナッツなど、他の食べ物に例えられたり、余韻の長さ、口当たりの感覚、甘さの周囲など様々なコメントをつけることができる。
正確なコメントをつけるには、訓練も必要。

◯柑橘系のフルーツの酸味に似てる
◯チョコレートみたいな香りがする
◯蜂蜜みたいなトロットした感覚がある
◯透明感がある

ただし、言語化する際には、いつもつきまとうのが、その言語が100%合致する事はないということ。
その豆の風味や味わいについて、できるだけ近づこうとして言うことはできるけれども、言語にした瞬間に、少し外れてるなと直感するのがオチなのだ。

子供についてもそうだ。
よく職員室で、あの子はこんな子だね。この子は、こんな特徴があるね。
話題にする事はあるが、言葉にした瞬間に、やはり本当の事実実態としてのその子の本性はもう少し違うところにあるだろうなと予感がされる。

言葉と言うものは、人間の気持ちや、感覚をできるだけ事細かに説明しようとして、発達していった部分があるが、やはり言葉と言うものは、最後の最後にはちょっとズレるものなのだろう。

だからといって、言葉を全く信頼しないと言う事はまずい。
言葉が信頼できなくなったら、もう対話することを諦めてしまうからだ。
100%通じなくても90%位は伝わったら上出来だし、残りの10%は、本当はどうかなとさらに突き詰めていくためのエンジン燃料添加剤になる。

ひとは、ことばを信じることができなくなると、自暴自棄になりやすい。
パワハラや各種ハラスメントが話題になるが、言葉の力を諦めた人が、相手を意のままに操ろうとしたときには、ハラスメントになってしまうだろう。

コーヒーを飲む時も、できるだけ自分自身が正直に言語化してみる。
しかし、そのおいしさを本当に言語化する事はできないので、改めて謙虚になる。この繰り返しが1番良いのだろう。

IMG_20250126_112619

6年生の歴史で何を課題にするか〜人類の挑戦を理解させる〜

小学生は、6年生の歴史の授業で、いったい最終的にはどんな態度を身につけることが目標なのか。

みなさんはどう考えますか?

もっとも避けたいシナリオは、

「どうせ滅亡だ」とする破滅論です。

これからの未来はどうなっていくのか、一番希望に胸膨らませてほしい少年や少女たちが、肩を落として「なにをやったって、どうせ無駄なことだ」と意気消沈していたら、本当にこの世は終わりでしょう。

ただ、破滅論にも意味はあるのでせう。これはリスクマネージメントにつながるような意味では必要な論なんであります。
大人の世界にはこういった「リスク」について考える視点が必要で、たとえば南海トラフ沖の大地震は高確率で起こるだろうから、都市機能や行政機能は従来のハブ・スポークデザインで国内に設置するのではなく、個々の都市が重要な役割をそれぞれ持ったネットワーク型にすべき、というような視点は、このような「滅亡イメージ論」から生まれることが多いです。優れた行政マンや政治家がSF好きなのはうなずけますね。SF作品はリスクを眼前に突きつけますから。

ところが子どもたちは、その大前提としての、

人類が平和と平等に向かって突き進みつつある

という第一の王道について学習すべきなのです。

18世紀末ごろからのフランス革命や貴族階級の特権廃止やアメリカの独立革命を端緒として19世紀の奴隷制の廃止、労働運動の高まり、選挙権の拡大が起こりました。
そして20世紀になって社会保障の発達、累進課税、植民地の独立といった流れがあったのです。

まさにこれが今の子どもたちが学習すべき最終地点だと思います。
大きな流れをつかみ、そこから各自が次の世界、社会を想像することが大事なのです。

あくまで長い歴史を見て行った時に、平等に向かう「大きな流れ」は強く存在していると考えることで、今の政治的苦難にどう対処すべきかも見えてくる。
これは昨今有名な社会学者・経済学者であるピケティの言葉です。
まさにこれからの世の中を切り開いていかねばならない子どもたちには、絶対に必要な知であり見識であり、常識ですね。

わたしはこれからの小学生は、平等、ということを学ぶために、おそらく税金をだれが多く負担するか、ということについても議論すべきだと思います。
金持ちの減税をするべきなのか、それとも貧困者の減税をすべきなのか。
減税と叫ぶ政治家の多くは、「金持ちの減税」を実施しようとしています。
富裕層の減税をいくらしたところで、社会の中間層は「では俺達が税を負担しよう。仕方がない」とは思わないでしょう。

小学生は、そのへんのところをどう考えるのか。
平等とは何なのか、面白い議論だと思います。

財務省は小学生向けの「税金を学ぶブックレット」などを出版し、学校で扱うように運動していますが、その内容には「富裕層」「中間層」「貧困層」という区別はまったく書いてありません。
しかし実態とかけ離れてはいけませんから、ぜひ明記すべきだろうとわたしは思います。
それこそ無着成恭のやまびこ学校では、「なぜわれわれは貧困なのか」について、真正面から問うことが生きるチカラを生むのだ、と考えて「考え続ける小学生」を育てました。

かつてこの誇り高い日本には、このような学習もあったわけで、その価値を再認識すべきだろうと思います。

imagelink_2010022500372

蜂飼耳さんの意図する世界

5年生の国語の教科書(光村図書)には、蜂飼耳さんの描いた物語が登場する。
以前、記事にしたことがあるが、

蜂飼さんの文章には、物語のある人物の行動を、周囲の人がどのように認知したのかということが丁寧に書かれている。
ある人物の言動について、その受け手がどんな印象を抱いたのか、周囲の人がそれをどのように受け取ったのかと言う受け手側の視点が丁寧に描かれるのは、ありとあらゆる小説の醍醐味だ。
蜂飼耳さんは、受け手側がどのように受け取り、どのように誤解(ごかい)したかを、物語の主題に据えることが多い。
小学校5年生の教科書に載せられた物語でも、小さな誤解というものが、主題になっていた。

考えてみれば、相手の行動や言動をその人に完全に成り変わって意図を理解する事は、周囲の人には不可能なこと。これはキリストでもブッダでも不可能。なぜなら本人では無いのだから。

しかし、いかにも、私はあんたの言いたいことがわかるよとかあなたはこう言いたいんでしょとかあなたは僕のことが嫌いなんだろう、などと言うように登場人物が主人公の意図を勝手に誤解していく事はよくあるパターンだ。
誤解と言うのも違うかもしれない。何故かと言うと、そもそも誤解が当然で、認知が事実とぴったり合うことなんてないわけなので、どれだけ親しくどれだけ相手のことを理解しているつもりになっていたとしても、わからないのが当たり前だ。相手の言動の本当に意図された世界と言うのは、他人にとっては、誤解をする以外にしようのない世界である。

今回、蜂飼耳さんの文章が、大学入試の共通テストの国語で出題されたらしい。
第2問で出題された、2005年発表の蜂飼耳(はちかいみみ)著「繭の遊戯」に、「ヒス構文」が登場したと話題になった。 「ヒス構文」とは、お笑い芸人のラランド・サーヤさんがYouTube動画で発信し、Z世代に話題になった言い回しのことで、「母が論理を飛躍させるなどしながらヒステリックな語気で相手に罪悪感を抱かせる構文」のこと。
・・・だそうだ。

〇〇構文、というのはいかにも学生の世代が使いそうな言葉で、ある決まった文章の運び方、言い回しの事だ。
ヒス構文も、蜂飼耳さんの得意な世界だ。今回話題となった、出題文の中でも、該当の部分は相手の言動を完全に誤解して理解した上に誇張させ、今度はその勝手な印象を、さらなる強烈な誤解とともに相手に押し返すと言う文章になっている。

このように、ヒス構文そのものは大学入試で出てくるくらい普遍的な世界なのだが、改めてネーミングされたことがすごいのだ。「ヒス構文」と、これまで名付けられたことのない言い回しそのものに対して、そこに新たなネーミングをすると言うところが、いかにもZ世代らしい。
ゆくゆくは、「そもそも相手の言動を当然理解することなどできないのだ」と言うことについても、新たなネーミングが始まることだろう。

振り返ってみれば、進次郎構文、石丸構文、などがネットの世界では有名になり、それあなたの感想ですよねと言うひろゆき構文も、今は世の中の人が堂々とは使用できなくなりつつある。なぜなら、このようにネーミングされてしまうほどに有名になった構文は、手垢が付きすぎて、堂々と使うのははばかられる気分が出てきたせいだ。

今、ヒス構文をそのまんま使ったり、「それってあなたの感想ですよね」とか、「また同じ質問ですか?」「もう一回言えってことですか?」などのような構文を使えば、たちまちにして、あっ、◯◯構文を使っているな、と反応されてしまう。

ただ私は、この◯◯構文にも、功罪の両面があると思っている。
なぜなら、空気を読めよと言うような、いかにも世間体を守るのが当然だとするような世の中の空気は、若い世代には、やはり居心地が悪かろうと思うのだ。このいかにも昭和の人間が縛られやすい世間体と言うものについては、その中に巻き込まれていたら、息が苦しくなってしまうと感じる若い世代も多いだろう。
若い世代は、若い世代なりに考えて、1対1の社会の中の人間と、人間同士のコミュニケーションの仕方をあえて作り直そうとしているようにも感じる。
あなたが今進めようとしているその言い方だと私は世間的に巻き込まれそうになります、だから一応リセットして、あなたと私の1対1の社会的な結びつきを確認しましょうよ、と言う気持ちで、「それってあなたの感想ですよね」と言う場合もあろうかと思うのだ。

私のような昭和生まれのおっさんにとっては、カチンと来そうな言い方なのだが、立場の弱い若い世代にとっては、せめてもの、かすかな反撃の狼煙なのかもしれないと思う。

蜂飼耳さんのヒス構文は、相手を世間体で絡めとって、操作しようと言うコスイ考え方が裏に見えている。蜂飼さんは、コミュニケーションの取り方に、何かしら言いたいことがあるんだと思う。小学校5年生の国語の教科書にも、子どもどうしの、かすかなコミニケーションの違和感が主題になっている。主人公の女の子は、自分の勝手に受け取った印象で、相手を思わず決めつけそうになっていた、そのことに気がついて、ちょっと切なく遠くからサッカーに興じる、男の子の姿を見つめ直すのである。

芸人のノリと学級のノリの違い

ひな壇に芸人がたくさん集まって、ワイワイとおしゃべりするのが楽しいテレビ番組がある。
私も好きで、ごくごくたまに見ることがある。

ただ、この楽しい雰囲気を学級で真似しようと思うのは、注意が必要だ。

私の失敗をあげてみる。

島田紳助さんが、昔の番組でひな壇に芸人を座らせ、おしゃべりトークをしながら軽快に番組を進行していた。
このときの島田紳助さんの狙いは、芸人一人ひとりのキャラを際立たせて、そのキャラを番組の決まりごと(セオリー)として視聴者に周知させ、いわばお約束のように芸人をいじると言うやり方だった。

島田紳助さんは、磯野貴理子さんをいじるのが得意だった。
これは、紳助さんが磯野さんにどんなキャラ設定をするか、そのキャラをからかうことで、どんな笑いが生まれるのか、計算をしてのことだった。

確かに、キャラ設定がはっきりしていればいるほど、そのキャラをいじったり、意外性に持ち込んだりすらことが出来て笑いが生まれる。また、そのキャラ設定の約束事をその場にいる全員が共有していることで生まれる安心感もあるし、仲間意識を演出することができる。島田さんはそれを狙った。

学級では、これは御法度だ。
一旦できた約束事があれば、その約束事を認識している仲間うちでは、共感の笑いに持ち込める。芸人は、からかい、からかわれることでタレントとしての笑いを生み出す。それが仕事だ。

小学校の学級では、その場にいる子ども一人ひとりにキャラ付けをする事は、担任なら容易にできてしまう。
しかし、相手はタレントではなく、生きている成長過程の子供である。

私は、以前、極真空手を習っている子が話題になったときに、失敗をしてしまった。

ある子が、その空手を習っている少年について、
「だって◯◯君がこうしろって言ったから失敗したんだよ、◯◯君のせいだよ」
と言うふうに、言った。
クラスのみんなが、その発言につられて、話題になった空手の少年を見た。

空手を習っている◯◯くんは、そんなことあったっけと言う顔でみんなの方を見ている。
この時、私は
「え?そんなこと言っていいの?◯◯くんは空手習ってるからね。下手なことを言うと怖いぞ〜」
と、少し面白おかしく言った。
言い方が面白かったのもあって、教室は爆笑になった。

話題を振った当人の子は、とっさに
「マジか、◯◯くん、ごめん!」
と、両手を合わせて大げさに謝罪をしたので、さらに大きな爆笑になった。

空手を習ってる◯◯くんも、爆笑の中心にいることが楽しかったようで、ニヤニヤしながら空手の型を作った。さらに爆笑になった。

後日談があって、彼が卒業するときに昔話をしていると、新間先生が、ぼくの空手についていじるのが、嫌な時があった、と言うのでした。
つまり、空手習ってるからあいつは怖いと言うようなことを、後で面白おかしくネタにする子がいたらしい。
そのことの発端は、おそらく私がその子にキャラ付けをしたことだ。空手を習っているから、強い、と笑いにしたことが、子どもたちの間でも、変な見本のようになってしまい、あぁやって友達をキャラ付けすることが面白いと言うふうになってしまった。

それが6年生の後半は嫌な時があったと言うのである。

私は彼にすぐに謝った。
彼は冗談めかして、それを言ったのだが、本音の部分があっただろう。
キャラ付けをされると言うのが、面白おかしいと楽しい間は良いかもしれない。しかしそうやって、固定化されたキャラ付け苦しむ子も出てくる。特に自分が意図したわけではないのに、周囲に勝手にキャラ付けをされてしまう事は、苦しいに違いない。
妙なタグや妙なレッテルを貼られてしまうようで、実際の自分というよりも、面白おかしいキャラ設定を優先しなくてはいけないように感じる子だっているかもしれない。

◯◯ちゃんって、こうだよね
⬜︎⬜︎さんって、ああだよね

こう言ったタグをつけてしまうような言い方そのものを聞いた時、敏感にそのうさん臭さや怪しさを感じ取って、そのキャラ設定と実際の自分は違う、ということを自覚できるような教室空間にしなければいけない。

タレントと子どもは、違うし、学級とテレビ番組は、違うのである。
もしかしたら大人の空間でもあるかもしれない。職場でも同じようにキャラ付けと言うようなテレビタレントの世界のお約束事が浸透してしまっているところがあるかもしれない。学級やクラスにもそうしたムードや空気があるかもしれない。

敏感になるべきだ。

これはタレントや島田紳助さんが悪いと言っているのではないです。くれぐれも。タレントは商売ですから。シナリオがあり、構成作家が台本を書くのですから。虚構と分かっていて、進めていることですから。

実際には、生きている実際の人間には、キャラ付けは不可能、ということです。
キャラをつけた途端に、そのキャラと実際の人間との違いがどんどんと明らかになるからですね。
AとBは同じだとだれかが言った瞬間に、もうAとBは違うのですから。そうです。昨日の自分と今日の自分は違うし、1分前の自分と1分後の自分は違うのです。目の前の石ころも、次の瞬間には、違う石ころだと言うわけです。

同じって何?
違うって何?

こういった話を子供たちとしていく授業は、面白いですし、こどもが哲学的な顔になりますね。

IMG_8239

「機嫌の良い先生」を保証する

子どもにとって何が1番良いかと考えると、最終的には、機嫌の良い大人がそこにいると言う事のような気がする。

叱らないでもいいですか?

このことの本当の意味の意訳があるならば、それは「機嫌の良い先生でいる」ことの保証、であると思います。

ここまでの話をすると、多くの方は、そんな事は無理だよ、人間だもの機嫌が悪くなるに決まっている、腹を立てないなんて無理な話だ、喜怒哀楽って言うでしょう。怒りっていうのは大事な感情ですよ。

と言うような反応が返ってくる。
最後の一行はとっても大事で、怒りと言うものは本当に大事な感情であります。
その大事な感情を、本当の意味でしっかり捉えていれば、最終的に怒りと言うものは、人間の手から離れるものです。
(この辺のメカニズムについては、本ブログの検索欄で、『怒り』と検索していただければ、数々の記事がご覧になれます)

さて、多くの先生が機嫌が悪くしているのには理由があります。そのほとんどが子どもの状態や子どもの言動に起因しないと言うことが明らかになっています。

なぜなら、多くの先生たちが、体力に余裕があり、気持ちに余裕があり、時間に余裕がある場合には、子どもの言動や反応に対して、上手に対応できるからです。

原因の80%以上は、教師の疲労と言うことになるでしょう。
もちろん、これは、教員だけの問題でなく、日本人の大半の大人の人が、これと同様の状況になっていることでしょう。

疲労と言うのは、休日に少し休めば、あるいは睡眠をしっかりとれば取れると思い込んでいる人が多いと思います。
しかし、これは休養あるいは休憩と呼ばれるものの、ほんの1つの側面にしか過ぎません。
アクティブレストと言う言葉があります。積極的で体を動かしたり、知恵を動かしたり、創造的な活動をすることが、かえって大きな休養になると言うことが、アメリカの心理学会で既に証明されております。

アクティブレストは、疲労困憊した体力を回復させると言う事とは別に、今度は自分の活動に向かうために、心の準備や頭の準備、気持ちの準備と言うものを整えていくための、無理矢理日本語にすれば、休息ではなく「活力活性化」のようなもの。

今このアクティブレストに当たる活力の復帰時間は、小学校の子たちにはほとんどありません。あるとしても、該当する子はほとんど1%にも満たないと思います。100人子どもがいれば、おそらく0.5人以下でしょう。そんな時間が取れるのは。

したがって、政府はこれを子どもたちに保障すべきです。つまり、小学校の授業の時間以外に、子どもたちが自分が学習に向かうための気持ちを準備する上で、やってみたいと思えるような自由な創造的活動の時間、を、与えるのです。これは政府が子どもたちに与えるのです。

そうなると、やはり、土曜日の復活が大切になってきます。あるいは、勉強の時間を削るかですね・・・。え?無理ですか?無理ですね。

では思い切って教員の数を2倍に増やし、土曜日だけの先生を雇ったらどうでしょうか?
やりたい人はたくさんいると思います。現にうちの母親に尋ねてみると、喜んでやりたいそうです。まぁ83歳なので、本気かどうか分かりませんが。
今の日本に豊富に潤沢にある資源としては、老人の活用が社会資本として有効です。そして老人と子どもと言うのは、もともと相性が良いものだと思います。

子どもは優しいので、おばあちゃんにも優しくすると思います。まぁうちの母は少し口うるさいので、どうか分かりませんが・・・

ともかく、子どもたちが疲れていることを、見て見ないふりをすることをやめましょう。不登校の対策はそこからだと思います。子供が疲れていないという幻想にとらわれて、事実を見ないことが原因です。不登校の現象を抜本的に解消するには、学習に向かうための助走時間を作ってあげることです。それを担任がやるのではなく、その地域の優しい大人がやるのです。叱らないで、子どもに接することができる人です。毎朝8時半から10時までは、地元のじいちゃんとばあちゃんが、子どもの自主的、自発的な活動をひたすら見守るわけです。

どなたか、文科省の方が本ブログを見てくださることを祈っています。

IMG_8138


2025年、明けましておめでとうございます

2005年の4月に、教員となって、小学校に勤務し始めました。

その後、このブログを書き始めました。
この春、4月になれば教員人生が20年というわけ。

昔のことを思い返すと、本当に夢か幻のように思いますね。
教員になる以前の、システムエンジニアだった時代も、今となっては、そんなことあったのかと不思議な気持ちになります。
さらにその前の、東京や大阪で卵を売り歩いていた時代の事も、自分の中では大事な思い出です。
大阪のおばちゃんに、卵がおいしいわ、と褒めてもらえると、自分が褒めてもらったように嬉しかったですね。

さらに、その前に、牛の角を切ったり、生まれたての子にミルクをあげたりしている時代のことや、カメラを持って、農業に携わる若者を取材して回っていた時代の事など、実際の記憶はあるにもかかわらず、どこか虚構であり、ただのイマジネーションに過ぎないもののようにも感じます。
記憶と言うのは、どこかしら甘酸っぱくも感じながら、ぼーっと霞んで綿菓子のようにふわふわしているようです。

ただ、教員になってからはありがたいことに、ブログというものがあって、このような熱心な記録をつけてくることができました。
自分が歳をとって、54歳と言う歳になってから、振り返るために書いてきたわけではもちろんないのですが。
書いているときは、わけのわからない教育と言う仕事に向き合うために、あるときは、明日の授業をどうしたらいいかわからないと言う切迫した気持ちからやむに止まれず書いていたこともありました。

長く、こうしてブログを書き続けてきて、読み返してみると、我ながら、なかなか面白いです!
自分では書いた記憶がなくなっているので、と自分が書いたものとは思えない。初めて読む文章のようにして読んでいくわけです。すると子どもにこんなふうに接するんだ、なるほどな、とか、自分でもかえって勉強になったりします(笑)。

特に、叱らない、と言う点にこだわって、教育を実践し続け、さらにそれを20年間たんねんに記録してきたと言う点が、当ブログの存在価値ですね。

小学生の夏休みの自由研究のようなテーマ、「叱らないで、小学校の教員はやれるのだろうか」。
これをまさか20年続けることになるとは、2005年の当時の自分は思っていなかったでしょう。
しかし、スポーツクラブのコーチが怒鳴り散らす絵柄や、部活の顧問が大声で叱りつけるニュース、そして大人の世界でも、企業で上司がパワハラを繰り返すなど、兵庫県の斉藤知事のパワハラ問題だけでなく、要するに、これは日本の大きな病理なんだと思います。

小学校からパワハラをなくすということで、大人が一致しはじめているのは大きな前進で、さらに小さな実践を積み重ねていく事は、大切なことだと思っています。

2025年もどうぞよろしくお願いします。
チャンネル登録とグッドボタン、ぜひよろしくお願いします。IMG_4791
記事検索
メッセージ

名前
本文
月別アーカイブ
最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 累計:

プロフィール

あらまそうかい

RSS
  • ライブドアブログ