30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2024年10月

四年生国語・ごんぎつねで恋バナ

ごんぎつねの中で、意見の分かれる箇所がある。
それは、ごんが、本当に優しい狐なのかどうかと言う点だ。
第1場面から第4場面くらいまでを読むと、ごんが、素直で心の優しいキツネだということがよくわかる。
なぜなら、自分がやってしまったいたずらのために、兵十は母親にうなぎを食わせてやれなかった。それを深く反省し、償いを始めているからだ。
それも毎日のように栗や松茸を持っていってやっている。

怪しくなるのは第5場面だ。
栗や松茸が毎日のように家に届く兵十は、それを神様のお恵みだと認識するようになる。実際は、ごんが持っていってやっているのに、だ。

そこで、ごんはこう思う。

へえ、こいつはつまらないな。おれが、くりや松たけを持っていってやるのに、そのおれにはお礼を言わないで、神さまにお礼を言うんじゃあ、おれは、ひきあわないなあ。

ある子が言う。
「本当に心が優しいのなら、兵十は栗をもらって喜んでいるのだから、それを見て満足すればいい。兵十を喜ばせることができた、で、良いじゃんか」

しかし、ごんは欲張ってしまう。
自分がうなぎのいたずらをした償いのために、せっせと栗を運んでいるのだと言うことをわかって欲しくなった。兵十にその献身的な振る舞いを認めて欲しいと思った。褒めてもらいたくなってしまった。

この辺が、だんだんと、読み取りを進めるうちにはっきりしてくる。
すると、ごんという狐は心の優しい狐です、という単純なフレーズでは、間に合わなくなってきてしまう。

いや、そもそも第1場面の初めから、ごんは厄介ないたずらギツネだとして、登場してくるではないか。
畑へ入っていもをほりちらしたり、菜種(なたね)がらの、ほしてあるのへ火をつけたり、百姓家(ひゃくしょうや)のうら手につるしてあるとんがらしをむしり取ったりしている。

ここらへんを、再度、しっかりと読み直す。すると、

【ごんは、◯◯なきつねです】

という単純な言い方では、収まりきれないような感じがしてくるから不思議だ。

「本当は心優しいはずなんだけどなぁ。毎日、栗を拾ってくるし、お母さんのことも心配したり、悲しく思ったりしているんだから。でも、ごんはいたずらするんだよなぁ。そして、僕のことを見て欲しい。わかって欲しいと思ってるんだよなぁ」

教室の中に、ごんというキツネが、なんとも生々しい、生きた存在として、あるいは、非常に複雑な心の状態を抱えた登場人物として、くっきりと浮かび上がってくる。

ひとりぼっち、という叙述に焦点を当てる子もいる。兵十のことを見たごんは、
「おれと同じひとりぼっちの兵十か」
とつぶやいている。
そもそも第1場面からそう書いてある!と、改めて見つける子もいる。

ごんは、ひとりぼっちの小ぎつねで、しだのいっぱいしげった森の中に穴(あな)をほって住んでいました。


だから、自分と同じようだから、気にしているのだ。そばに行ってあげたくなるのだ。
第4場面で、わざわざ後をつけるのも、そばにいたいのかも・・・。

さて、第6場面まで、つまり最後までを通して読んでのまとめ、を考えよう。

ごんが第6場面で、兵十に対して思っている事は何だろう。
一番の切ない思いは、「わかって欲しい」だろう。わかってくれなくても構わない、兵十が栗を食べてくれたらそれで良いと、忍んで耐えるごんではない。見て欲しい、気づいて欲しい、とさらに兵十に近づいてゆく。そして、近づき過ぎて・・・

最後まで読み終えて、あらためて

【ごんは、◯◯なきつねです】

としてまとめてもらうと、
子どもたちは、
「ごんは、兵十に、僕を見て欲しい!こっち見て!と構って欲しいキツネ」
と書いた。

かまってちゃんだよ。

誰かがそっとつぶやいた。この一言に、教室中が笑い出した。

そうか!

いたずらばかりしていたのも、こっち見て欲しいサイン、かまってちゃんサインだったのかも・・・

ある子が言った。
決まった女の子だけに意地悪を言う男の子っているよね。他の女の子に対しては全然普通の態度なのにさ!特定の子にだけ、ちょっと意地悪するんだよね。

そしたら女の子が、「なんでそんなふうにイジワル言うの?」って、その子が目の前に来て自分に言うもんだから、その時はもう、心臓がドッキンドッキンしてるんだよ!そういう男の子、いるんだよね!

これで一気に教室中が爆発的に沸いた。

ごんは、一人ぼっちだから、友達が欲しかったんだよ。

という意見が出ると、ほとんどの子が自分も同じ意見だと表明した。
寂しいから、友達が欲しいから、かまって欲しいから、自分が優しいってわかって欲しいから、だから、近寄っていくんだけど・・・

別の子が、それに付け足した。

でも、だからこそ、いたずらをしちゃう時があったんだよね。

ははぁ・・・そうか・・・(笑)


ノートに書かれた、最後のまとめを読むと、こう書いてある。

ごんは、相手が困っていたら、助けてあげたくなるくらいに、本当の本当は、友達思いなんだけど、恥ずかしくていたずらをしてしまう、キツネ。

この授業の後、なんとなく教室の中の雰囲気が柔らかくなりました。そして、男子が女子に、女子が男子に、近くなって話をしているのです。
誰かの冗談に、男子も女子も一緒になって笑っている姿がありました。

みんな、一人ぼっちなんだよ、そして、友達が欲しいんだよ・・・

ごんの姿を通して、子供たちの心に響いた何かがあったのでしょう。 あと、このクラスは半年だ。みんな、なんとなくそれを感じ始めている。5年生になったら、クラス替え。今隣にいて話ができている、この友達と、こんなふうに話ができていることの嬉しさ。
新美南吉さんの物語は、直接的ではないからこそ、やはらかいからこそ、心の琴線にふれたのでしょう。

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花火大会の有料化から想像する世界

全国の花火大会が、実は稼げる商業イベントなのだと自治体は認識し始めた。

昔は早い者勝ちだったためにいわば誰でも根性があれば見られたのに、今はS席、A席などに区分けされて料金を支払って観るようになった。
つまりお財布の事情によって、子どもたちは花火が見られる子と、見られなかった子に分けられることになる。

次の日の学校ではきっと、
「俺、花火見たー」
と無邪気に喜ぶ子と、
「うちはお金がかかるから行かなかった」
と残念がる子の、両方がいるのでしょう。

公共の場が、マネーの世界に飲み込まれ始めたわけで、これは国鉄がJRに変わったように、民営化の流れがある以上、確定した流れであります。
郵便局は株式会社ゆうちよ銀行になり、田舎のATMはどんどん維持費削減のために撤去されています。
昔、住民のため、と用意された『公共』は、今では、マネーのため、と撤去されているのです。この流れは、新たな哲学が生まれるまでは、さらに進んでゆくでしょう。

いずれ、学校も、マネー主義に飲み込まれるかもしれません。いや、すでに私立校があるではないか、と思うかもしれません。しかし、それ以上の世界が近くまで来るのではないかと私は恐れています。

琵琶湖の花火大会のように、教室の座席も、自治体がマネーになる!と発想を変えていくのではないか。
これからの新しい時代に取り残されないために、マネーを導入し、新自由主義の風を吹かそうとするのではないか、と危惧します。

教室もコンサート会場のように、S席、A席ができるのでは。
そして意識の高い消費者はスマホで申し込むのでは、と。

ところが、そうはなりません。
なぜか。
実は、人の繋がりを感じられる空間では、新自由主義は居心地が悪いのです。マネーの病理は蔓延しないのですね。
教室は、小学校は、まだ人の繋がりを感じられる空間ですから、マネー主義の壁を作ってマネー主義の板かなんかで公共空間を囲い込んでしまおうと意図しても、人の体温でボンドが溶けてしまい、穴が空いてしまうのですね。完全なマネー主義を構築するのは無理で、資本主義だけのマネー純粋主義は実現できないのです。

「S席を買ったの、俺だけかよ」

となった花火会場があったら、楽しいでしょうか?というのが、どうも人間の心理のようで、

自分だけ美食では気が引ける

というのが、人間という生き物。

知り合いばかりのクラスで、金の力で他の子を差し置いて、自分は
「金を払ったんだから良い席で当然!」
と、大きな顔をできるか、ということね。

これ、他の人が全部知らない他人ばかりなら、成り立つのですよ。マネーは、人間関係が希薄だとパワーを持ちますから。

でも、人間同士が知り合いだったり、お互いが親しく振る舞おうとするコミュニティなら、俺は良い席、お前は遠くの席、金の力で決まるんや!・・・とはなりにくい。

マネーは、人の繋がりの薄さに、つけ込むわけです。

ゆうちょ銀行のATM撤去も、そこに他人しか住んでないから、撤去しよう、となるわけで。
田舎のJRも、路線バスも、どんどん撤去されていくけど、都会人からすると他人だからでしょうね。

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やさしいことをふかく・・・

むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに。

これは、井上ひさしさんの言葉です。

小学校や中学校の、すべての営みがこうあると良いなあ、と思わせる言葉です。
もしかしたら、高校もそうかも。

とくに良いなと思うのは、

やさしいことをふかく

という部分ですな。
易しいことを深く、というのは、思いのほか難しいことです。易しいと一見思われることも、それを本当に真正面に据えて、取り組もうと思えば、なんにしてもなかなかに難しいことであることが多いからで、

すべての授業がこうであるべきだと思いますな。

そんなの簡単!
と、子どもに言わせるようでなければいけないと算数をしていると思いますし、国語の物語を読んでいるときは、あれ?意外と裏の解釈もあるぞ、そっちの方がさらにおもしろそうだ、と言わせたいです。

今、4年生ではごんぎつねを習っておりますが、ただ、狐が死んじゃう話、というだけではなく、作者の新海南吉(『あめ玉』の作者)が、なぜ物語の最後で、兵十にぱったりと火縄銃を落とさせたのか、その心の深い動きまで読み込ませたいと思いますね。

本当なら、昔の国語の教科書5年生に掲載されていた、あめ玉を続けて読ませることで、新美南吉と言う作者が、世の中をどう見ていたのか、考えるきっかけにもできると思いました。

あめ玉では、威厳のあるはずのお侍さんが、実は、普通の人と変わらなく、世間体や体裁、恥ずかしさを感じることがあり、強そうに見えるかもしれないが、実際にはただの弱い普通の人間だ、と言うことになっておりました。

ごんぎつねでも、兵十のことが、狐から見ると、大きな力を持つ存在に書かれていますが、実際にはそうではなく、仲間に神様のおかげだとさとされたら、そうかなぁと半分信じたり、火縄銃を持てば、狐を撃つのですが、すぐにしまった。やるべきではなかったと思うことのできるただの普通の人なのです。


それにしても、井上ひさしさんを、久しぶりに思い出すことができました。
あの、くだらない長編、吉里吉里人の作者だと思うと、あのくだらなさと、今回紹介したこの文章との乖離がすごく印象深いです。しかしまた、井上ひさしが、若い頃に、ひょっこりひょうたん島を書いていたのを知ると、この方の才能の豊かさに、改めてリスペクトの気持ちが湧きます。

もう一度文章を掲載します。

むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに。

何度も味わいたい言葉です。

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子どもの「それってあなたの感想ですよね?」にどう返せばいい?

タイトルに有るようなことは、実際にある。
教室でも、そういうことを言う子がおり、わたしは感心してしまった。
本当にそうだと思うからだ。

「え、すごい!そうなんだよね、感想なんで、事実はわからないよねえ!」

わたしが目をキラキラさせてそういうと、ちょっと不思議な空気ができる。

わたしは最初、この有名なセリフ、

「それってあなたの感想ですよね」が、世間で有名なフレーズになっていることをよく知らず、へえ、この子は事実と思いを分離させて考えているのかな、と考えて、ほとほと感心した。

事実はどうなのか。
どうなのか、というよりも、なんなのか。

今、わたしたちが事実ととらえているものは、事実と呼べるのだろうか。
そして、いろんなことがわからないことだらけで、こうじゃないか、ああじゃないか、と思って事実をまわりをぐるぐるとしている。

そのうえで、肝心なこと、つまり私達は、今どうすることが願いを実現することになるのだろう?

「事実に焦点をあてて、考えてみようじゃないか!」

と興奮するわたしの前で、

「先生、知らないの_?◯◯◯◯のこと!」

有名なインストラクターの人がいて、その人がユーチューバーらしく、インターラクティブでインベーダーらしいが、イノベーターでインフルエンザの私にはよく分からない。

ともあれ、子どもは敏感で、事実と感想、ということについて、なにかしら鋭敏な感性をもっており、

◯事実と思いをわけて考えてみる

というようなことにも、実際にはかなり前向きなのだろうと思う。

そのうえで、真正面から「幸福」というものを、子どもなりに考えてみるのも、今の時代には合っているかもしれない。

いわゆる快楽とか気分を消費することが、「幸福」だとは、Z世代は考えないような気がする。

薬物中毒の状態が幸福と言えるかどうか、スーパーに陳列されたものをその場でいきなり食べ始めるようなことが幸福なお互いになる道筋なのかどうか。

道徳の教科書にはお涙頂戴的なおはなしがいくつも掲載されているけれど、実際には真正面から

「幸福」

という2文字を相手にする時代が来ている気がする。というか、今の子たちは、そういう直接的なアプローチしか、効かない精神になってきているように思う。

今はユーチューブなどで、「ほぼ無料で見放題の動画を見て過ごす」ことが人間の一日の主な行動になりつつある。もはや、そのサービスがなければ、人間は快適に暮らすことができなくなりつつあるようだ。一度スマホを手にしたら、幼児も小学生も、大人も老人も、ユーチューブを大きな楽しみとして消費し始めている。

そして、今や表に見えている表面的な出来事の、さらに裏事情までが即座にアップロードされて話題になり、どちらが表の情報なのかすら曖昧になってきた。

こういう時代だからこそ、

「それってあなたの感想ですよね!」で一本とった気になる子が出てきて当然だし、うわべのとりつくろったような化粧や常識は、あっという間にはがされてしまって、その裏の裏までが話題になっていくから、カーブやスライダーを投げたって、子どもに鼻で笑われてしまう。

勝負するのは、もう、直球、ど真ん中、だけであろう。

おりしも、地球環境の問題は、あとにひけない余裕のない課題になってきた。
政治も経済も戦争も、人口の減少まですべて、冷や汗の出るような切迫感がでてきた。

もう道徳の授業は、

幸福はいずこにありや

というド直球でしか、子どもの心情には響いていかないのではなかろうか。

ほんの5年ほど前までは、

幸福、という言葉が、いかにもうさんくさくて、人をだましているようで、本気ではないような気がして、それこそ化粧で包まれたおかしな言葉にも聞こえていた。

それは、今振り返ってみると、心の何処かに、「幸福というものを、心のどこかできちんと把握している」というような自負があったからだろう。だからあえてそんな大仰な言葉を用いなくても、幸福についてさりげない会話やスマートな所作で、とらえることができると信じていたから、使いたくなかったのだ。

しかし、今の子たちはちがう。

ド直球で、「事実とはなにか」「思いや感想とはどうちがうのか」「人間らしさとは」「幸福とは」と、考えていくべき時代だという予感がする。

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