30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2024年08月

教育相談【YouTubeばかり見ている子】

夏休み明けの保護者からの相談。
動画ばかり見ている子、困ったものだと。

この手の話を聞くたびに思うのが、私自身の子供の頃の思い出だ。
つまり、テレビっ子であったこと。

念のために、クラスの子に聞いてみた。
家庭内のルールが、YouTubeは何時間までオーケーか?

1時間、2時間までが多い。
平日に、2時間も動画を見ていたら、子供の生活リズムだとほぼ食事、風呂、宿題、睡眠以外がYouTubeと言うことになろう。

これに+ αでゲームテレビとなれば本当に1日中画面を見ていることになる。

もう少し詳しく聞いてみると、ほとんどテレビは見ないと言う子がかなり多い。
いわゆる地上波、の放送は、既に子供たちが見るものではなくなっているようだ。

では、実際に誰が見ているかと言うと、テレビで育った世代、つまり30代以上だというのがデータで出ていた。20代より下の世代はすでにテレビは見ていない。
最もよく見ているのが50代60代70代だそうである。

総務省や民間の調査によると、20代の地上波テレビのリアルタイム視聴率が10%前後の場合、60代では50%から70%程度の視聴率が報告されることが多いです。


そうなのだ。
昭和に生まれた人たちは、テレビをよく見ていました。
本当にテレビが面白かった時代で、世の中の楽しみが全て詰まったビックリ箱のようなものでありました。

私はなんだか、子供がYouTubeばかりを見ていると叱られるのを聞くと、自分が子供の頃に
「テレビばっかり見てないで勉強しなさい!」
と、叱られたことを思い出す。

そして、休み時間に大好きなユーチューバーの話で盛り上がる子供たちを見ていると、自分がドリフやひょうきん族やアパッチ野球軍や不思議なメルモや海のトリトンやリンプリン物語や遠山の金さんを見て、次の日に、友達とその話をしながら、登下校をしたのが思い起こされる。

遠山の金さんは、早帰りをする水曜日には放送時間に間に合ったので、ほぼ欠かさず見ていたが、悪役の表情作りがなんて上手なんだろうと常に感心してみることができた。

時代劇と言うのは、非常に勉強になる教材で、現代と比較しながら動画を見るために、奉行所と警察と言う共通項で、社会の仕組みを考えたり、たらいをくくりつけた天秤棒を持って、食べ物を売りに来る人が、なぜ現代ではそれほど街に居ないのかを考察することができた。

後はちょんまげの不思議さである。
どうしてちょんまげなのかと言う疑問は、父も母も答えることができなかった。学校の先生もうまく説明はできなかった。夏休みの自由研究で、ちょんまげの不思議について研究しようとしたが、図書館にはちょんまげの本は皆無であった。学研から出版されていた秘密シリーズに、「ちょんまげのひみつ」があれば、誰もが購入したことだろう。

そして、今、私は、YouTube動画で、昔のコマーシャルCMについて見ることにハマっている。そして、驚くなかれ、かなりの率で、
「あ!これ!見たことある!」
と、思い出すのであります。

丸大ハンバーグとか
この木なんの木とか
ネスカフェ違いのわかる男とか
あなたにもチェルシーあげたいとか
ポテトチップス、あしからずとか
グリコアーモンドチョコレートとか
堺マチャアキのラーメンのCMとか。

つまり、私は相当テレビっ子でありました。YouTubeを見ている子には、ともかく
1)睡眠時間は削らない
2)健康に悪影響が出ないようにする
3)依存症という言葉を知っておく

この3つはオススメしようと思っております。

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いよいよ「叱らない」時代へ

このブログを始めた時、タイトルをどうしようかと思って
「叱らないでもいいですか」とつけた。
これは、初任者としてやはりどうしても遠慮がちにならざるを得ない、という正直な感想をもったためでありました。
「叱る」が前提になっている教育現場。そこで何も知らない初任者が、迂闊にも「叱らないで教師をやります」なーんて口走ったら、校長先生にたっぷりと指導を受けそうだったからであります。

しかし、私は妙な人生遍歴から、人に対して「教える」とか「叱る」とか、「相手をコントロールする」という行為がどうしてもできない精神構造になってしまっておりました。
子どもにも、「ふうん、そう思うんだね。そうかなるほど」というスタンスが基本であり、「早くしなさい」というありふれた声がけすら、どうしても違和感があってできなかったのですね。

いやあ、本当に変な精神状態でした。今から思えば。20代に過ごした環境が浮世離れしてたせいで、「早くしなさい」すら、言えない状態でしたね。
そんな状態ですから、叱る、なんてできそうも無い。また一方で、

「叱らないでもやれるんちゃうか」

という思いがありましたから、思い切ってタイトルを、「叱らないでもいいですか」とした。

そしたら、どうも時代がそうなってきてるみたいで、こんな記事を見つけた。



まさに。
学者の方が文章にすると、こうなるんやなあ、と感心しましたね。私の言いたいことが、ドンピシャに書いてある。

私が叱る、叱らない、ということについてこのブログで書いた記事を探すと、たとえはこんな記事がありました。

すべて、叱らない、という教師の思いに関しての、記事、投稿であります。

もし、「叱らない」に興味を持った先生で、このページをご覧になった先生は、ぜひリンク先の記事も見てみてくださいね。

お気軽にお問い合わせください!

教師ならばロシア情勢を語ろう

ウクライナが核を恐れずにロシアに攻め入った。
衝撃だ。相手、敵であるロシアが核を持っているのにもかかわらず、だ。
わたしは朝食を食べながらそのニュースを知り、思わず手にとったカップをもう一度、もとに戻しました。

ここ10年くらいの国際情勢で、もっとも大きなニュースではないでしょうか?

大事な点は、このことが、人類の歴史を変えてしまった、ということにある。
ほら、冷戦後は世界中の人があることを信じていたでしょう?
それは、「核」を持つことにはメリットがある、という点でした。
アメリカもロシアも、それを主張しましたし、他の国もその点は理解していた・・・ということになっていましたね。
ところが、本日、核が戦争を抑止している、という話はどこかに消えてしまいました。すごい話です。
核を持っておくメリットは、相手に攻められないことだ、という話だったはずで、世界中の政治家も識者も学者も市民も、それを前提に話をしていたと思います。

しかし、今の時代はそれが崩壊してしまいました
だって、ウクライナは核を持っておらず、ロシアは核を持っていましたからね。
で、弱小で核を持たないはずのウクライナが、大国で核を保有するロシアに攻め込んだのです。ウクライナは、『実は核は何も「抑止」しないのだ』、と世界にバラしてしまったわけです。
これまでは核を保有する大国どうしが、核をお互いに保有することを宣言し合うことで、お互いの攻撃を避けるだろう、と思われていました。それをさらに、超えるレベルの話なのです。だって、核持っていない国(ウクライナ)が、持っている方の領土に攻め込んじゃったので・・・。

これは、世界情勢をガラリと変えるかもしれません。

そもそも、核で報復するにせよ、最初に使うにせよ、ものすごい被害が出るわけですから、何がそのような大規模な被害を正当化することができるだろうかというモラルや倫理の問題があるために、そもそも核は使えない状況がつづいていました。

それでも世界中で、核はお互いの戦争や紛争を「抑止」するのに役立っているのではないか、という議論がありまして、その立場に一定の理解を示していた人も多くいたようです。
しかし、今回のウクライナのロシア侵攻により、「共同幻想」的な思い込みがくずれてしまいました。

これまでは、周囲に脅威となる国があると認識し、その脅威に対し核兵器は国や体制の存続を保証するものだと見なしている限り核兵器は必要と考えられていたのです。ところが、今の時代は核をもっていたって攻め込まれるわけで、現実にロシアは核をもっているのにもかかわらず、領土を侵犯されたのですね。

わたしが若い頃、アメリカの大統領はブッシュ大統領(息子の方)でして、戦争をやりました。そのときのブッシュ大統領は「戦争に、やる気を見せたほうが得だ」と考えているような節がありました。
9.11の後に、ブッシュ大統領は「これからは抑止ではなく先制攻撃だ」という雰囲気でスピーチしていました。私はそれをテレビで見て、ちょうど数カ月後に結婚を控えた頃でしたが、「これから新しい生活が始まるのにまた戦争かよ」と、げんなりしたことを覚えています。

案の定、ブッシュはイラクへ侵攻しましたが、結局大失敗をして、かわいそうなことにアメリカ国民からも愛想をつかされて政権交代をさせられ、悲しく引退しました。ブッシュ・ドクトリン、とかいってブイブイ言わそうとしていましたが、やはり道理にかなっていなかったのです。

つまり、今の時代には、抑止もダメ、先制攻撃もダメ、ということがわかってしまったのです。
何をしたって、あとで「やらなきゃよかった」になるのが戦争です。

そのうちに各国の首脳が、核って意味あるのかな・・・と本当に考え込む日がやってくる気がします。
たぶんそのうちに、「ああそういえばそんなのあったな」と忘れられる存在になるでしょうナ。

そして、各地域でのもめごとを解決する手段は武力ではなく、まったくちがったアプローチから始まる気がします。
それはもしかしたら政治の側でなく、経済の側から行われると予想します。なぜなら、みんな政治には不信感しかないし投票率も低く真剣でないけれど、経済にはみんな正直だしまじめに取り組むからね。たぶん経済の仕組みがかわることで、政治の問題も解決していくと思う。国同士のもめごとも。


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地震が明日起こるんだって!

「先生、知ってる!?あした、地震が起きるんだって!」

朝、教室に入るや否や、こう言われました。
あなたなら、どんな反応をしますか?

こんなことは、小学校ではあるあるです。子どもは本当に信じていますから、即座に馬鹿にしたり否定してしまってはいけないと思います。
否定したら、もうそうやって、気軽に話しかけてはくれなくなるでしょう。担任としてはそれは避けたいところです。

だからといって、あ、そう!そうなんだー!と、あっさりと同意してしまうのも、何か違う気がします。
同意したとわかった瞬間に、その子は

「だって、新間先生もそう言ってたよ」

と、周囲に触れ回り始めます。
一切、そんなこと言ってないですが。
あ、そうなんだ、と感想を言ったら、先生もそう言ってた!に、なりやすいです。小学校では・・・

高学年だと、確率と割合の違いについて、一緒に考えることがあります。
そして、明日、地震が起きる【確率】と、明日、地震が起きる【割合】と、それらを明確に区別してから考えていくように声掛けをします。

そうすると、後者の言い方がなんかへんだ、ということに気づきます。
あした地震が起きる割合って・・・そんな言い方へんだな・・・

そうです。割合とは、5年生の算数でも習った通り、あるものが全体の中でどのくらいの個数 含まれているのか、ということを示すものですね。
だから、現在(もしくは過去)のことであれば、「全体数が100あって、赤い玉は5こ有ったから5%」という言い方ができるので、割合となります。
でも、確率のように、未来を示すことはできない、のです。

くじが10本あり、つぎに◯◯ちゃんがひいて、当たりくじをひく確率は・・・というのは、未来予測ですね。このとき、全部で10本のくじがあり、その中に明確に1本のあたりくじが「絶対にある」からこそ、10分の1、つまり10%だ、という確率を数値として示すことができます。

ところが地震予測では、未来予測はムリなのです。
なぜなら、わかっているのはすべて過去のことであり、それは過去の「割合」なのです。
こういう地面の動きがあり、同じような地震の分布があり、データを見比べると似たような条件がこれだけあり、そうでない場合がこのくらいあって、地震がこれまでに起きたのがそのうち何回、というようなことだけがわかっている<だけ>です。

つまり、地震学者がなんとかインタビューに応えようとして、

「1年以内に地震が起きる確率は30%です」

なんて言ってますが、これはかなり苦しい言い方です。
明確に当たりくじが1本ある、「絶対にある」って、言い切れないからです。
地震学者は、【割合】から無理やり【確率】を言おうとしているのです。世間に要求されるから・・・

このあたりのことが、以下の本で紹介されています。


デタラメにひそむ確率法則――地震発生確率87%の意味するもの (岩波科学ライブラリー)

要するに、
南海トラフのデータは、かなり少ない(分かってるのがたった数回)のため、その割合から確率を計算しようとすると、ものすごくアイマイな数値しか出しようがない

ということです。
当たりくじつきアイスキャンデーのように、明確に1本の当たりくじがある、とはとうてい言えないような状況を踏まえて、たった数回の過去の事例を「ぜったいにこの間隔で起きる」と断言するようなデータの使い方をして、計算しまっています。(それも過去のデータもかなりあいまいなもの)

なんせ地球の歴史が長すぎですからね。
確率とは、データから計算される割合のことですが、たった数回のデータでは、「割合から確率を計算する」のが、乱暴すぎるのでしょう。

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学校で習う経済と資本主義のこと

経済、と聞いて、ワタシがよく考えるのは、経済と戦争の結びつきのことで、興味を持ったきっかけは、中学校の社会科の教科書で習った朝鮮戦争のことでした。

朝鮮戦争が始まると、日本人は経済が潤った、と書いてありました。
「戦争で人が死んでいくのに、儲かる?!意味わからん」
これが、戦争と経済の関係に興味を持った最初でしょうか。

さて、ウクライナとロシアの戦争が始まって、だいぶ経ちましたね。

そもそも戦争の始まったころのこと。
ウクライナが兵器を恵んでくれとアメリカに依頼(国会での演説〉し、アメリカはそれに応じました。
これで、アメリカ国内では若者の雇用が生まれ、産業が起きてモノが売ったり買われたりし、給料の支払いがされました。コレ、元は税金なので、国富ののばら撒きが起きたわけ・・・。

コロナでも、対策と称して税金を対策に使ったので、ここでも国富は消費されました。

緊急事態は仕方ないのですが、国富を使い過ぎてしまうとマズイですね。国の力が衰えます。
・・・と、ここまでは中学生でもかんたんに習う話なので、国民全員が納得する話だけど、なぜ鈴木財務大臣はじめ、財務省の官僚も平気な顔をしているのかというと・・・

今は緊急時だから。

というわけです。
将来の人がなんとかしてくれるやろ。
今は赤字国債を、発行するが、それでみんな助かるんや!

これを日本はかなり前から、アベノミクスの時はもちろん、戦後のほとんど時代において延々と続けてきたのです。

問題はあるけど、赤字国債でなんとかしてるから大丈夫、というわけです。
本質的にはアカン。でも、赤字国債を、発行すれば、今は大丈夫に見えるやろ?だから大丈夫。

・・・というわけです。

ところかこれは、表面的には大丈夫と見せかけてるだけ。差し迫った危機を回避するためには、将来の問題を後回しにしよう、ということです。

ここまで、実は早ければ中学3年生の社会、ほとんどの学校では高校の現代社会で習います。国債、という言葉の意味を習うのですね。
習った子どもたちは不安になり、「国債を発行する量をたくさんにし過ぎるとまずくないですか?」と思います。そのことについても教科書に載っていて、「マズイです」と答えが書いてある。

ところが、政府の役人や通産省・財務省の官僚や大臣が平気な顔してるので、みんな国民も、あれ?大丈夫かな、と麻痺してしまいます。

株が下落し過ぎたので、財務省はちょっと困ったでしょうね。今回、こんなにでかいニュースになっちゃったから。

これから、どうなるでしょう。

政府は金利を上げたばっかりですが、慌てて元の緩和政策に戻すのではないか。

というのが、ワタシの見立て、です。

なぜなら、今の政府が累積した問題に向かい合うのは、難しいでしょうから。

現在の与党政府には、日本の国の実態に合わせた、国家の等身大の経済の状況に戻していくほどの勇気は、ないだろう、と思います。

話をわれわれ国民の側に戻すと・・・
愛国心を持った勇気のある正真正銘の日本人なら、一度購入した国債を売ろうとはしないでしょう。

しかし、国民がみんな、猜疑心を抱き、もしかしたら、国家は返す力を持っていないのではないか、と判断するようになると、国債は売れなくなります。

ある日、政府が

「国債は、満期でも、お金を返せないので、お金を返すのにあと3年待ってください」

と言ったら、国民は従わざるを得ない。現金にするのに我慢しないといけません。

・・・なーんてことになれば、みんな買わなくなり、国債の価値は下がり金利はどんどんと上がっていくでしょう。

しかし、日本人は到底そんな風には考えないと思います。なので、実際には、金利はそれほど上がらず、国債の発行額も、ますますうなぎ登りに登り詰めていくことでしょう。人口も減っているし、賃金を上げられるほど、企業の売り上げは伸びません。金利を上げられる体力は日本には無いのです。

だから、そうならないために、みんな、国家には、無限の力があると、そういうことを信じているんだと言うことにしておいて、経済活動を続けていくのではないでしょうか。

この時、無限の力を持った国家だということにする、というところがポイントです。

〜と言うことにしておく

これが、経済を、行き詰まらせない唯一の方法です。

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