30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2024年07月

『ぼくとおじちゃんとハルの森』(山末やすえ)

これがおすすめなんですわ。
ぜひ、読書感想文を書きましょう!

クラスの仲の良い友達が引っ越ししてしまい、心に穴があいたようになって、ちょっとさみしくなっていた小学4年のぼくが、夏休みに田舎で心のエネルギーをとりもどす話です。

田舎のおじちゃんのところに行って、犬とおじちゃんとしばらく一緒に過ごすのですが、これがたのしくて。

子どもが大人を見つめる視線って、こんなふうだよなあ、というのがよく伝わる本です。
で、実は大人も、子どもに助けられるんですよね。どちらかというと、大人が救われるわけです。
しかし、この

「ああ、これは大人がすくわれていく話なんだなあ」

というのは、大人になってからしかわからないようです。
子どもは、その視点をもたないで読みますから、この本を読んでもそういう感想は出てこない。子どもの感想文にはそんなことは書かれないのですが、大人はこれを読むと、「おじちゃんは嬉しかったでしょうし、ぼくに感謝しているだろう」と思う。

つまり、大人が読むと「おじちゃん視点」で読むことになり、
子どもが読むと「ぼく視点」で読むことになる、という不思議な本です。

どうでしょうか。
こんなふうに本の中身がちょっとわかると、「あ、読んでみたい」と思うでしょう?

朗報です。
ここで、読書感想文を子どもに書かせるコツを伝授しますね。

お子さんが図書館の本棚をぐるぐると回りながら、
「いい本がない〜」と言っていたら、です。

まず、本にはジャンル、というものがある、ということを教えてあげてくだされ。

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文学であれば、

1)日本のもの
2)外国のもの


という2つのジャンルがあります。
日本がいい、とか、外国がいい、とかのように、こっちが( ・∀・)イイ!! ということをすぐに言える子もいます。

「そんなのどっちでもいい」

という子が大多数ですが・・・

3)むかしばなし
で書ける!
という子もいます。なんとなくストーリーを知っているので、とっつきやすい、というのがあるからかもしれません。

4)すでに知っている話
なら書ける!という子は、わりと多いです。
もうすでに読んだことがある、とか。
教室の片隅に置いてある学級文庫で、実は少しだけ読んだ、とか。

5)小学生もの

これは、主人公が小学生なので自分にも身近な存在に思えるから、まあ読んでみるか、と思うのでしょうか。たとえば山中恒さんの「あばれはっちゃく」とか「くたばれかあちゃん」とか。

6)事件・サスペンスもの

名探偵◯◯、とかですね。コナンとか。銭天堂もこのジャンルかと思います。

いずれにしても、本が選べない〜、と図書館で泣いている子、あるいはお父さんに泣きついている子、お母さんと口喧嘩を始める子、については、

「どうこれ?こんな感じのおはなしだけど」
とか
「これいいじゃない?主人公は小学生でね、◯◯と出会ってたいへんなことがもちあがって、◯◯してすごいことになるんだけどね。知恵を出して仲間とね、ハカセがハチベエとモーちゃんに・・・」

みたいなことをおうちの方がお子さんにお話なさると良いですね。
すると
1)予備知識ができてくるので

2)ちょっと安心して

3)興味をもって

4)ぼくにも書けるかも

となって、読書感想文が書けるわけですね。

つまり、ちょいとした「誘い水」が、あるかないか。
物事は、意外と単純ですね。

あとは、

ぼくが読んだこの本の主人公って、こんな特技があって、こんなことになっちゃったけど実はこんな工夫をして仲間と相談してすごいんだよね。

というように、その本の良いところを先生に教えるつもりで書くと筆がすすむでしょう。

映画にラベルをつけてほしい

映画館についても、なかなか入場する気にはならない。
なぜかと言うと、映画のタイトルやポスター類をみても、どんな映画なのか、よくわからないのだ。

ともかく、私のその時の希望は、

できるだけ音が少なく、爆発などせずに、欲を言えば、あまり複雑なストーリーではなく、できるだけ楽にぼーっとして見られる映画が見たい。

ということだった。

何せ2時間近くも、座っているだけで疲れるのである。
画面の向こうに、大きな音が聞こえて、破裂などしていれば、聞いているだけで疲れてしまう。

できるだけ、静かそうなのが良かった。最後まで、静かでおとなしそうなのが。
できたら、ドキドキハラハラもしたくない。

こんなこと言うと、そんなつまらなさそうな映画どうして見るの?
などと、おそらく、若い人ほど言うに違いない。私も若い頃はそうだった。スリルを求めた。サスペンスが好きで、ハラハラ・ドキドキすればするほど満足した。

自分も今日映画館に着くまでは、自分のことをそうだと勘違いしていた。
実際にその場に着くと、私は自分の年齢を自覚した。もう、ドキドキ、ハラハラすら、求めなくなっていたのである。

その代わり、起承転結も必要なく、できたら、起・承・承・・・・くらいが望ましい。結すら不要である。主人公のその後がどうだろうが、どうでも良い。それぞれが好き勝手にすれば良いだけのことだ。

私は、究極的には、どこかの何も知らぬ爺様が出てきて、そのおじいさまが、朝起きて、起き上がって、椅子に座って、新聞を読みながら、茶をすすっている、たったそれだけの映像を、2時間連続で見たほうが、どんなにか、人生について考えられるかとも思う。

そのような映画があれば、私は毎日でも見に行きたい。
今度のじいさんが、前回のじいさんと、どのようにお茶のすすり方が違うか、それだけでも本当に勉強になると思う。そして、そこから、彼の人生と、これまでの遍歴と、人生観の違いすら感じることができそうだ。
新聞を取っているかどうか、どこの欄から読み始めるのか、お茶を飲むのか、それともホットミルクを飲むのか、あるいは使い古したマグカップなのか、それとも寿司屋の湯のみなのか。

座っている椅子はどんな風か、腰をかけて、どんなふうにため息をつくのか。
その様子を眺めているだけで、人生を考えることができる。

映画館に要望がある。
静かな映画にはサイレントの頭文字である【S】と言う記号を、タイトルの横につけて欲しい。そうすれば、私のようにもうドキドキもびっくりもしたくない。静かにぼーっとしていたい人も、その映画を選択できるからだ。
体力がない。ドキドキする体力は、夏休みの研修をこなしている現役の教師には、もう残っていないのである。

私がそんなふうに、できるだけ静かな映画を探していたところ、1つ見つけた。
それが、【90歳。何がめでたい】という、佐藤愛子さんのエッセイ集を元にした映画であった。

これは、静かだろうな。

直感が当たった。

映画は、期待通りの静けさであった。
草笛光子さん演じる、愛子ばあさんの一挙手一投足を見ているだけで、こみ上げてくるこの満足感がたまらなかった。

火薬はいらない。
盛り上げもいらない。
淡々と人生の日々の出来事が繰り返されていくのが、この人生の最も価値のある瞬間だ。また、その人一人ひとりの自己決定の清々しさを、他人はすべからく尊重するべきで、そうなると、人は必然的に余計な口出しをしなくなる。

【90歳。何がめでたい】は、そんな映画でありました。良い映画を見た、という満足が、帰り道の私の足取りを軽くした。

この夏、オススメであります。

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ぼうや、よい子だねんねしな〜メディアと時代〜

時代は変わったなあ,と感じることが増えてきた。
例えば今の子供たちは「まんが日本昔ばなし」を知らない。

テレビで放映されていたこの番組は、我々の世代は毎週土曜日ともなれば楽しみで仕方がなかった。
2人の声優の、何とも芸術的な声。どんな人物もどんな 鬼も妖怪だって演じてしまう。

たぬきがしゃべったら、ハハァこんな声だろうなと思うし、狐が喋ればこんな声なんだろうなと納得してしまう。

その日本昔ばなしを、今の子どもたちは知らない。

ほんの5年ほど前の子供は知っていたんです。あくまでも私自身の体験ですが・・・

だからこの5年間の間に何らかの変化があったに違いない、と思うのですね。
これはおそらく 親の世代の変化だろうと思う。
親が、自分が子供の頃に見たあの日本昔ばなしを子供に見せてやりたいと思うかどうか。

ほんの5年ほど前まではそういう親がまだ世の中にいたのだろうと思うのです。
あとは、年配の保育士さんがそれを見せていたというのもあるかも。

おそらく、この5年間でそういう保育士さんもほぼいなくなってしまったのだろうと推測されますな。(いらっしゃったらごめんなさい)

従って 今の子どもたちに、

〽︎坊や良い子だねんねしない 今も昔も変わりなく 母の恵みの子守歌〜♪

などという 鼻歌を聞かせても何にも反応がない。

なんの歌?ソレ・・・

である。
番組の終わりに流れる

にんげんっていいな

という名曲すらも、同じだ。知らない。知られていない。何ソレ、初めて聞いたんですが、という感じ。

小林亜星さんの偉大さを思うネ・・・

思わず、私は、この木、なんの木、気になる木、などと言い出してしまう。

〽︎このぉ木、なんの木、気になる木ィ〜

廊下を歩きながら、給食の食缶を運びながら、思わずそれを口ずさんだとき、近くにいて一緒に缶を運んでいた子が、

なんで先生って鼻歌を歌うの?
ソレ、なんの歌?

と聞いてくれたので、私は思わず、

「ちょっとした昔を思い出したとき、人は鼻歌を歌うんだよ、この歳になるとね」

と言うと、その優しい子は

「へえ」

と興味も何も無い様子。

「◯◯さんは、鼻歌は歌わない?」

私がちょっと恥ずかしさを隠す気持ちで、そう言うと、

「歌わない」

と、即答。

「お父さんやお母さんは歌わない?」

「お母さんは、たまに歌うかな」

「なんていう曲?」

「うーん分かんない。昔の曲ダネ」

「あぁなるほど。きっとお母さんは昔のことを思い出してるのかもよ」

という会話をしました。

思い出している暇もなく、現在を生きている子供たちにとって、昔のことを、あれこれと懐かしむのは、老人のやることのようですナ。
しかし、昔の話を、同世代と、あれこれとめちゃくちゃしゃべるほど、楽しい事は無いですナ。

私は、小林亜星の話だけで、秘密のアッコちゃんとか、寺内貫太郎一家とか、ネスカフェゴールドブレンドのCMの話とか、まんが日本昔ばなしのオープニングに出てくる長い胴体の辰のことだとか、何時間でも喋れますね。それだけでごはん三杯はイケますな。
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中年クライシス・・・についての論考

若い時は、得られるものがどんどんと増えていく。
ものも資格も仕事も立場もどんどんと増えていった。

知り合いも同僚も増え、家族まで増えていく。
人間関係がどんどんと広がっていく。

ところが50代になるとだんだんと、そのあたりが整理整頓・淘汰され、厳選されたものになっていく。

これは必ずしも、悪いことでもない。
自分が人生に求めるものが明確になったとともに、質も形もシェイプアップされ、昇華したのだとも言える。

自分が手放すものに気づくと、さみしいという気持ちも湧く。
と同時に、日常の些細なことが心に刺さるようになる。

例えばコンビニエンスストアのレジの人とちょっとした会話で、お互いに笑顔で別れたりすることが嬉しくなったりする。

本を読むときに、この本を書いた著者の考えが心に染みたりより近く感じたりするようになる。

映画を見ても、ストーリーそのものもそうだが、この作品を撮った監督や役者と言うものに目が向き、それらの人々と一緒にいるかのような感覚や、その人と自分との関係を考えたりする。

教員は職業柄、毎日図書館に通っているようなものであり、私は学校の図書館を図書委員の仕事を確認しながら、好きな本も見て回るのが好きだ。

そして本当に自分がタイムスリップしたかのような気持ちになる。

この間は、モモちゃんとプー、モモちゃんとあかねちゃん、などの名作を図書館で見つけ、しばらく、立ち読みをしたところ、目頭が熱くなってきて困った。作者の、大人としての、親としての、一保育者としての気概を感じるからだ。

また、ミヒャエル・エンデの様々な作品、ジムボタンの冒険や、果てしない物語などを見つけたり、ドリトル先生のシリーズ、いぬいとみこさんの名作、北極のミーシカムーシカ、その他の本ともなれば、背表紙で本を見つけた瞬間に、心が躍る。

そして、明確な違いを感じる。
子供の時や若い時に読んだ本は、本そのもの、作品そのものに関心があった。

しかし、今は違う。

その物語を書いた当時の作者の気持ちや考えや、人生観と言うものに、どうしても興味が湧いてくる。この文章を少しずつ書き進めていく最中の、作家の心持ちや考えや、日々の暮らしと言うものに興味が湧いてきて、どんな食べ物を誰とどんなふうに食べながら、どんな街をどんなふうに散歩しながら、この物語の着想を得たのだろう、と考えているのだ。

これは、人生と言うものを、ある程度経験してきたから、いつの間にか、そんなふうな所作が身に付いてしまったのだろうと思う。

一朝一夕で身に付いた所作ではない、ということやね。いいのか悪いのか、中年になると、人生を見る見方が変わるということですな。

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朝陽の中を散歩した話

平日はそうでもないのに、なぜか休日になると目が早く覚める。
そして、散歩でもしたくなるのはなぜか。休日しか、こんな気持ちにはならない。

朝日がのぼる前で、うっすらとしたマジックタイムを、山を見ながら久しぶりに歩いた。

すると中年特有の寂寥感というか、なんだか込み上げてくるものがある。
感謝や恐れが入り混じったような気分、中年クライシスという言葉もあるわけで、何しろ涙脆くも塗りつつあるのだから、あれこれと思い耽る散歩になった。

ふと思い出したのが在原業平で、あの時、周囲の者たちが一斉にその寂寥感に打たれて、みんなで咽び泣いたらしいが、その状況がイメージになって湧いてきた。

伊勢物語では、在原業平が東下りで三河の八ツ橋に至り、沢のほとりで杜若の花が「いとおもしろく咲きたり」、それを同行者が「かきつばたといふ五文字を句の上にすゑて旅の心をよめ」と言ったので詠んだ。 同行者はみんな感激して涙を落とした結果、干したご飯がふやけた、というエピソードがある。

これを私は高校生の頃に習ったが、そんなに簡単に人は泣くものだろうか、という疑問を持った。
今はそれがわかる。中年になったからだ。

さて、この寂寥、という感覚とは、いったい何なのだろうか?

人間の遺伝子が大昔とさほど変わらないと言うことから、人間の生活は、物質的な面や文化の面でも大いに変化はしているが、雄大な景色を見たり、太陽を見たり、風を感じたり、山を見たり、海を見たりすることで心に湧いてくる感情はおそらく10000年ほど前の縄文人たちと今の自分は遺伝子的にそんなに変わらないのではないかと思う。

おそらく雄大な景色を見たときに、心が膨らんでくるかのような圧倒された感じや良いものを見た感覚や夕日が沈むのを見て、何らかの寂寥感だったり、大きなものとの別れに似た感じを受けるようなものは、当時の縄文人たちも感じていたことだろう。

もしも、この人間的な感覚が人間の生活に不要なものであれば、とうだったろうか。
一万年の間に淘汰されて、感覚的に薄れていったのだろうと想像する。

しかし、いま現代人のわれわれだって、夕日が沈むのを見るときに、心に迫るものがあるではないか。

これは、この寂しい感じが、人間の存在や価値について大切な感覚だったから残ったのではないかと想像する。

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