若い頃は、人生と言うのは100%自分のものだと思っておりました。
計画せねば、考えねば、と。
一から百まで自分の人生だと。
働くようになってから、意識が変わりました。人生は半々だなぁと。
5割は、自分のために。残りの5割が、世のため、人のため、相手のためだと。
ところが、20歳をこえたころからか、なんだか、哲学的に、物事を考えるような癖がつき、自分のためと言うものは一切ないなぁと言うふうに考えるようになりました。
つまり、人生は100%自分のためなんて事はなく、人のため世のため、自分以外のもののために動くのが真実だなと。
しかし、どうやらこれは多分に意識過剰な考え方だったようで、
「そう考えるのが正しいし、理にかなっていると思えるから、そう考えよう」
と言う雰囲気を持っていました。
その後、揺れ戻しが参ります。
結婚して子供が生まれたにも関わらず、無職だった、あの頃。
嫁様の貯金に頼っていたあの頃。
人生と言うのは、自分のために10割使って当然だと考えるようになりました。
これは、超氷河期と呼ばれる時代だったこともあるでしょう。政治の責任システムの責任もあると思います。だって、世の中資本主義だもの。
そして、50を過ぎ、今私が思う感覚は、結局、自分のためが3割、世のため、人のためが7割だと考えるに至りました。
どうですか?この数字の感覚・・・。
トータルで考えるとそのくらいかなと思うのです。
それは、自分のためか、相手のためかの境目が、歳とともにどんどんとぼやけてきていることにも影響されています。
たまに時間がぽっと空いて、とりあえずのんびりできるなと言う時間が生まれたとします。この時に、自分のため!と気合を入れて時間を過ごす事は到底不可能です。どう過ごしていても、そこに100%自分のためだけの行動はありません。同じように、世のため、人のために尽くしている仕事の時間の中にも、自分のためと思える時間もたくさんあるわけで。
そう考えると、自分が3、周囲が7・・・かなぁ。
トータルで見ると、エネルギー配分がそのくらいな気がする。
皆さんはいかがですか?
古い木製の椅子に、ニスを塗りました。しかし、あまり良い仕上がりにならず・・・
次回はもう少し色のついた、耐候性のあるペンキを塗ろうと思っています。
この仕事は一体誰のため・・・
計画せねば、考えねば、と。
一から百まで自分の人生だと。
働くようになってから、意識が変わりました。人生は半々だなぁと。
5割は、自分のために。残りの5割が、世のため、人のため、相手のためだと。
ところが、20歳をこえたころからか、なんだか、哲学的に、物事を考えるような癖がつき、自分のためと言うものは一切ないなぁと言うふうに考えるようになりました。
つまり、人生は100%自分のためなんて事はなく、人のため世のため、自分以外のもののために動くのが真実だなと。
しかし、どうやらこれは多分に意識過剰な考え方だったようで、
「そう考えるのが正しいし、理にかなっていると思えるから、そう考えよう」
と言う雰囲気を持っていました。
その後、揺れ戻しが参ります。
結婚して子供が生まれたにも関わらず、無職だった、あの頃。
嫁様の貯金に頼っていたあの頃。
人生と言うのは、自分のために10割使って当然だと考えるようになりました。
これは、超氷河期と呼ばれる時代だったこともあるでしょう。政治の責任システムの責任もあると思います。だって、世の中資本主義だもの。
そして、50を過ぎ、今私が思う感覚は、結局、自分のためが3割、世のため、人のためが7割だと考えるに至りました。
どうですか?この数字の感覚・・・。
トータルで考えるとそのくらいかなと思うのです。
それは、自分のためか、相手のためかの境目が、歳とともにどんどんとぼやけてきていることにも影響されています。
たまに時間がぽっと空いて、とりあえずのんびりできるなと言う時間が生まれたとします。この時に、自分のため!と気合を入れて時間を過ごす事は到底不可能です。どう過ごしていても、そこに100%自分のためだけの行動はありません。同じように、世のため、人のために尽くしている仕事の時間の中にも、自分のためと思える時間もたくさんあるわけで。
そう考えると、自分が3、周囲が7・・・かなぁ。
トータルで見ると、エネルギー配分がそのくらいな気がする。
皆さんはいかがですか?
古い木製の椅子に、ニスを塗りました。しかし、あまり良い仕上がりにならず・・・
次回はもう少し色のついた、耐候性のあるペンキを塗ろうと思っています。
この仕事は一体誰のため・・・