30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2024年05月

人生は3対7で相手寄り

若い頃は、人生と言うのは100%自分のものだと思っておりました。
計画せねば、考えねば、と。
一から百まで自分の人生だと。

働くようになってから、意識が変わりました。人生は半々だなぁと。
5割は、自分のために。残りの5割が、世のため、人のため、相手のためだと。

ところが、20歳をこえたころからか、なんだか、哲学的に、物事を考えるような癖がつき、自分のためと言うものは一切ないなぁと言うふうに考えるようになりました。
つまり、人生は100%自分のためなんて事はなく、人のため世のため、自分以外のもののために動くのが真実だなと。

しかし、どうやらこれは多分に意識過剰な考え方だったようで、
「そう考えるのが正しいし、理にかなっていると思えるから、そう考えよう」
と言う雰囲気を持っていました。

その後、揺れ戻しが参ります。
結婚して子供が生まれたにも関わらず、無職だった、あの頃。
嫁様の貯金に頼っていたあの頃。

人生と言うのは、自分のために10割使って当然だと考えるようになりました。
これは、超氷河期と呼ばれる時代だったこともあるでしょう。政治の責任システムの責任もあると思います。だって、世の中資本主義だもの。

そして、50を過ぎ、今私が思う感覚は、結局、自分のためが3割、世のため、人のためが7割だと考えるに至りました。
どうですか?この数字の感覚・・・。

トータルで考えるとそのくらいかなと思うのです。
それは、自分のためか、相手のためかの境目が、歳とともにどんどんとぼやけてきていることにも影響されています。

たまに時間がぽっと空いて、とりあえずのんびりできるなと言う時間が生まれたとします。この時に、自分のため!と気合を入れて時間を過ごす事は到底不可能です。どう過ごしていても、そこに100%自分のためだけの行動はありません。同じように、世のため、人のために尽くしている仕事の時間の中にも、自分のためと思える時間もたくさんあるわけで。

そう考えると、自分が3、周囲が7・・・かなぁ。

トータルで見ると、エネルギー配分がそのくらいな気がする。
皆さんはいかがですか?

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古い木製の椅子に、ニスを塗りました。しかし、あまり良い仕上がりにならず・・・
次回はもう少し色のついた、耐候性のあるペンキを塗ろうと思っています。
この仕事は一体誰のため・・・

見ているとぶつかる

数ヶ月前に、息子と一緒に東京の街を歩きました。渋谷新宿、浅草上野、・・・
そうして、私がすでにかなり耄碌(もうろく)していることに気が付きました。

なにせ、人にぶつかる!あるいは、ギリギリぶつかりそうになる!

息子を見ていても、同じです。
駅の構内を歩き通した後、2人で同時に同じ感想を言いました。
「ぶつかりそうで怖かったねー」

これでも30代の前半は、かなり長い間東京暮らしでした。都庁に面接に行ったこともあるし、五反田にある会社に非正規でしたが、しばらく勤めたこともあります。250%を超える満員電車で、カバンがもぎ取られたこともあります。

その頃は、実は歩けていました。
JR線や小田急線が通っている、町田の駅の人混みも、凄まじいものがありますが、普通にスイスイと歩いていたのです。今の私からは、想像もつきませんが・・・

そこで、つらつらと考えるに、あることに気が付きました。
それは目線の置き方が違っていたということです。

今回、私が息子と2人で歩いてみて、ありとあらゆる人にぶつかりそうになったのは、実は理由がありました。
私は後半それに気がついたので、目線の置き所を変えてみたところ、驚くべし。あっという間に、昔の私のように、人にぶつからずに歩けるようになったのです。

この発見はノーベル賞級の発見だと思うので、ここに書いておきます。

それは、人とぶつかりたくなければ、人を見ないということなのです。

これが逆説中の逆説で、人は売ろうとすると、手を引っ込めるし、こちらがやらぬと言うと、相手は欲しいというのです。

人とぶつかりたくなければ、最新の注意を払って動いてくる、やってくる人間を目を凝らして見るべきだと思うかもしれません。しかし、実際は逆です。
向こうから、アリのように群がって、私のほうに押し寄せてくる人の群れを見てごらんなさい。
その人間を、いちいちあの人がぶつかる、この人がぶつかりそうだ、やばいなどと、いちいち見ていてはぶつかるのです。

人間に注意を向けた途端にぶつかるのです。これはものすごく大きな真理だと思いませんか?

そのことに気がついたので、後半は人間には注意を向けないようにしました。そして、何を見ているかと言うと、見ているようで、何も見てはいない、何も見ていないようでいて、実は流れを見ている、風を感じているとでも言いましょうか・・・

そうすると、全くストレスなく歩けるのです。今から20年ほど前に、町田の駅で乗り換えていた私は、そうやって、ノーストレスで歩けていたのです。思い出しました。

田舎育ちの息子は、顔面蒼白になりながら、過呼吸になって歩いていました。そして、黒いカバンにぶつかったとか、おばあちゃんが避けきれなかったとか、文句をぶつぶつ言っていました。

そこで私は彼に告げました。

「息子よ、風になれ」

それが世界の真実なのです。


ところで、思い出した小話がもう一つ。

アメリカの中西部にある砂漠のような場所で、所々にガソリンスタンドがありますね。
そのガソリンスタンドに向けて、時折、看板を見かけるのです。この先あと50キロでガソリンスタンドがあるよ、とか。

ガソリンスタンドに行くための看板は、砂漠の真ん中にポツンと立っているような形になります。果てしなく続く道路と、ポツンと立った看板。見える景色はたったそれだけです。

なんとなくこの先の展開が読めましたか?
ご名答!

なんとその看板は、たくさんの自動車にぶつけられて、曲がったり凹んだりしているのだそうです。
そうなんです。人間は見ていると、それにぶつかるのです。

広い広い砂漠なのに、絶対に、避けられるはずの看板に、ぶつかってしまうのが人間なのです。

つまり、人間は、意識にのぼったものを、ずっとずっと見ていると、それに到達してしまうと言うことです。

毎日、毎日、純粋な幼い子供のように、プロゲーマーになりたいと思っていると、なってしまうと言うわけです。
また、こんな感じのティーカップがないかなぁと思って、ありとあらゆるカタログに目を通していると、いつかドンピシャの物を見つけてしまうのです。

憧れて憧れて、毎日写真を見ていると、その野球選手に、いつか会えるということなのです。

人生って楽しいですなぁ。IMG_5744

まったリズムでゆこう!

私は18歳19歳のころから、歩行スピードが格段に速くなりました。

多分、本来はもっとゆったりとした性格で、幼い時から縁側でのんびりとお茶を飲むと言うのが休日の過ごし方でしたから、今でも日本茶ほどうまいものはないと思いますし、晴れた日に縁側で日向ぼっこをするのは、世界で最高の休日の過ごし方だと思っています。

ところが働くようになると、そんな事は言っていられません。
牛舎の間は走るようになり、食堂へ向かうときの階段は、必ず2段飛ばしで駆け上がっていました。今から25、6年も前の話になりますが・・・

ところが、50を過ぎると、気持ちが変わってきました。実はそんなに急いでも良いことがあまりないと言うことがわかってきたからです。
どちらかと言うと、人生はゆっくりとまったりズムで生きるのがトータルで見ると得なことが多い気がします。

最近、車の運転をしていても、どんどん人に譲るようになりました。以前はできれば先に行きたいと言う思いがあったように思います。譲ってもらったらラッキーと思っていたし、割り込まれたら、なんだか少し損をするような気持ちさえありました。
50を過ぎて全く世界が変わりました。できたら、皆さん先に行ってください。

これは、いろんなことの自信がなくなってきた証拠でもあります。急いで先に行ったからと言って、先に到着した分、何かを達成できるかと言うと、おそらくそんなことはできないだろうと言う自分に対しての自信の喪失です。

慌ててやって失敗することの方が多い、ということが、だんだんに自分の心に馴染んできたといいますか、ポジティブに諦めてきたということなのでしょう。

あと、人生をトータルして、ここまで振り返ってみたときに、やってよかったという事はもちろんあるのですが、やりすぎて失敗した、と言うことも、同様に、たくさんあることに気がついたのてすな。

後は大きな意味では体調の管理です。
自分の体に意識を向けて、どんな感じかな?、この辺の筋肉はどう動いているかな?呼吸は浅いかな深いかな、味はしっかり感じ取れているかな、唾液はしっかり出ているかな、こわばっているところはないかな、

などと言うことをしっかり感じ取ろうと思うと、日常でそんなに急いではいけないのです。朝8時から夜8時まで、12時間、ずっとせかせか動いていると、もはや、そういう体の意識は、遠い遠い感じ取ることのできない世界になっています。

ですから、あえて、朝の8時から夜の8時まで、つまり、ワーキングタイムにおいても、わざと、ゆっくり動くのです。そして、あえて待ってみたり、後回しにしたり、やらないで、済まそうと考えたり、風邪をひいてできなかったことにしようと考えるのです。

すると、自分の体がどんな調子なのか、意識をはっきりと向けて感じ取ることができるようになっていきます。少なくともわたしはそうですわ・・・。


大人ですらこうなのですから、子どもだって、そんなに急がせないほうが良いと思います。
子どもたちはただでさえスピードが早いので、ぼーっとしたり、遠くを眺めたり、のんびりするような時間をあえて取らせることで、ふと気がつくような新しい発見を話題にすると良いと思います。

国語、算数、理科、社会の教科の中に、本当は、時間の使い方と言う項目を教科として教えるべきなのです。IMG_6098


怒りの感情は究極の愛

なぜ、怒りの感情が究極の愛と呼べるのかと言うのは、なかなか簡単に説明はできません。
このことを理解するには、まず、人のせいで、というのが、ない、ということを納得する必要があるからです。

誤解しないように釘を刺して書いておくならば、相手に何か伝える場合は、〇〇さん、私はこれがイヤだからこうして欲しい、というのは伝えるのが良いです。〇〇さん、私はこうしたい、こうして欲しい、これはやめて欲しい、約束して欲しいも、アリです。相手には、とことん伝えて要求します。要求しても大丈夫です。また断るのも大切です。

そういうことをふまえた上で、どんなことも、〇〇さんのせい、と言うものは、実際にはないのだ、ありえない、と言うことを理解すると、だんだんに怒りの感情が愛なのだということが理解できてくるとおもいます。

腹が立ったら、感謝することすらあり得る。
宇宙と言うのはそういう風にできている、ということです。

あなたが作り出す宇宙と言うのは、あなたのためだけにあるのですから、宇宙はあなたに対してメッセージを送っていると言うことです。
怒りの感情も、自然界がそれを知らせたいのは、あなた自身に対して、です。

その怒りの感情を、誰かよくわからない第三者に関係があると思うこと自体がおかしいと言うわけです。第三者は全く無関係です。怒りの感情が関係するのは、あなた自身に対してのみです。

〇〇さんのせいでといった瞬間に、第三者がこのストーリーに登場してきてしまいます。でも、本当は無関係なのです。第三者の事なんて、あなたにも宇宙にも関係がありません。怒りの感情は、あなたの内側にだけ存在しています。怒りの感情は、あなただけの大切なものなのです。あなたが心の内で、しっかりと大事に大事に持っていて、心の中で育んだものなのです。それがあなただけの大事な怒りの感情と言うわけです。

もし関係があるとしたら、あなた以外には、宇宙自然界の真理と言うようなものだけでしょう。あなたとこの世界を形作る、この宇宙の成り立ちそのものが、あなたの心の内に生まれたその怒りの感情に関係しているのです。

はっきり言って、他の人には一切無関係です。

でも、普段から人のせいにしている人は、このことを理解できないのです。

このようなことを教室で子供たちと話すと、子供たちはしっかりと理解をします。というか、最初から雰囲気で知っています。怒りの感情の本当の役割や機能に関しては、大人よりも、子供の方が、よく理解しています。だから、幼い子どもに教える必要はありません。アイツのせいで腹が立った、などという虚偽を教える必要はありません。

「悲しいんだね」「うん」で、終わりです。(くれぐれも、コレ、泣き寝入りとかじゃ、無いからね!)

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ダメは、駄目なのか?という問題 その2

頭が良いのが良いのだよね!
・・・というふうに考える人は、この世の中では多数派でしょうね。

世間では、頭が良いことは良いことだ、と考えます。ほとんどの方がそうだと思います。

では、頭が良いとは、いったいどういうことでしょうか。なにが良い、ということなのでしょうか。どの程度、どういう種類の能力が優れている、ということでしょうか?

私は時折、子どもの態度や行動にハッとさせられます。
そして、この子は頭が良いなあ、と感心するのですが、例えば、先生である私が黒か白かどちらかだろうと内心思っていると、
「グレーもありだと思います」
と、サラッと発言するようなことです。
その子は、ハッキリ言うと、算数はできません。苦手な単元もたくさんあり、暗い表情で算数の教科書をめくるような子です。

でも、グレーもあると言う彼は、実は頭が良いと思います。

また、教室の隅の床の上に、図書館の袋が置いたままになっているので、どうせいつも片付けないS君が面倒くさがってそこに置きっぱなしにしたのだろうと私が思って、S君の姿を探していると、
「1年生の子がそこに置いたのかもしれないよ」
と言う子がいます。
私は全くその可能性は無いだろうと、勝手に考えていて、なんで1年生の子がこんなところに来るの?どうしてそんなとこに置くの?と思っていたら、図書袋を忘れた妹さんが、兄ちゃんのやつをいちど借りに来たんだ、ということがわかったりします。

でも、そこでアドバイスをくれたMくんは、漢字が全然覚えられなくて書けない頭の悪い子なのです。
でも、決めつけないで全く別の視点から、可能性を考えられると言うのは、たいした頭の良さだと思いませんか?
私はMくんは本当に頭の良い子だと考えています。成績は悪いですが。

総合的な学習の時間に、あることを調べようと言うことになって、調査するために多くの人のアンケートが必要になることがありました。
私は、校内の高学年の子たちに、アンケートを取れるように計画をし、多くの先生に頭を下げて、それを頼んで、アンケートを実施しました。
結果は、予想通りで子供たちも予想通りになったことを一応納得したのです。私は早く次の段階に行きたいので、アンケートはここまでにして結果がわかったから、その次の計画に進めようと子供たちと話しました。
でも、何人かの子供たちが、それに対して、強硬に反対をしたのです。つまり低学年のアンケートも取ろうよと言うのです。
低学年の子たちからアンケートを取るのはとても大変なことで、まず質問の意味を噛み砕いてよく説明しなければなりませんし、低学年の子たちが本当に正直にそのことを理解し、答えてくれるとは限らないのです。また低学年のアンケートは時間がかかり、一つ一つアンケートを取って集めているだけでもかなり時間がかかってしまいます。
私は、正直低学年からアンケートを取るのはやめたかったのです。
しかし、その時本気になって、やはり低学年からのアンケートも取るべきだと言うふうに意見を言う子たちがいて、私はその子たちの表情を見ていると、その本気さに少し感動さえしたのでした。自分たちが調査したいことを本当の価値ある調査にするために、やはり低学年の意見も大事だろうと言うのは理が通っているからです。

「やってみなくちゃ、わからないって、今僕たちがやろうとしていることだろうと思います」

発言した子たちの顔を見て、私はあぁこの子たちは頭が良い子たちなんだなと思いました。
でも、その子たちは、軒並み成績が悪いのです。算数も漢字も・・・。読書の量も少ない子たちでした。

でも、こういう風に考えられる子たちって頭が良いと思いませんか?

頭が良いというのは、能力のことではなく、態度のことなのですね。テキパキ、素早く判断をして、効率よく形作ることができれば、人間が1番幸せになれるかと言うと、そうでは無いのです。もっとより良く、もっとより価値のある生き方をしようと思った時に、実際は邪魔をするのが能力だったりします。
自分はもっと賢く進められる、あるいはスピード感を持って進められる、あるいはSNSでたくさんの閲覧数を稼ぐことができる、と頭の良い人たちは考えるかもしれません。
しかし、前述したように、本当の価値を掴もうとしたときに、実は能力よりも、物事を進めていくもとになる態度の方が重要だと言うこともあるのです。

こう考えると、もしかしたら学校と言うのは、頭の良い子たちを多く、生み出そうとしているのでは無いのかもしれません。いや、本当に頭の良い子たちを生み出そうとしているのかもしれません。

今大学の入試も変わってきました。高校の入試も、それに伴って大幅に質を転換させる高校が増えてきています。これまでのようないわゆる頭の良さについては、それほど重要視しないようになってきているようです。

どうやらこれまでの常識となっていた教育観念はかなり見直す必要がありそうです。

ダメだからと言ってはダメではなく、良いからと言って良いわけではないのですね。
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ダメは、駄目なのか?という問題

20代のころから、良いものか良い、と言うわけでは無い、という命題に、何とも言えないユニークな楽しさと面白さを感じていました。

ある時、知り合いが30名ほど集まり、良いものが良いのかどうか、と言うことについて、12時間ほど話し合ったことがあります。これは今でも覚えている位ですから、相当楽しかった思い出です。

目を閉じても、その時の会話の雰囲気や、目の前にいた人の表情なども浮かんできて、これは死ぬまでの生涯の楽しみになるだろうと思っています。

いわゆる良いものは良いのでしょう。それには理由が様々あり、Aと言う面から見ればとても良いでしょうし、それはもしかしたらBと言う側面からもCと言う斜め上の角度から見てもとても良いものなのかもしれません。だからといって、今、それは不必要であり、かえってそれがあることで、弊害まで生じると言うことがあるのです。

しかし、大概の場合、それは良いものですし、価値が高く、素晴らしいものなので、多くの人は、それを不要だと言われてしまうことに対して、えっ!と驚くのです。

まさか、こんな良いものをいらないだなんて!

やせ我慢をしているのか、格好をつけているのか、何か別に邪な理由があるのか、なんでこんな良いものを良いと言わないのだろうかと腹を立てる人までいます。

ポルシェか軽トラか、みたいなことです。

畑で草刈りや畝づくりをするために、クワやら鎌やら袋などを詰めていくときに、ポルシェは不便すぎるし、オイル代や部品代や車検代も高すぎて、はっきり言って全く不要なのだ、ということです。馬鹿だなぁ、ポルシェがあれば良いんだよ、という人もいます。ポルシェを売って、軽トラを20台分買えるじゃないか。

そういうことでは無いのですね。ポルシェを売ろうと言うことでは無いのです。ポルシェを売れば、金になるとか、そういうことではないのです。何が必要か、何がこの場合良いかと言うと、ポルシェではなく、軽トラだと言うことなのです。

そういう風に考えていくと、他の人が何をしているかと言う事について、あれは良いあれは悪い、と言う事は一切言えないのではないかと言うことなのです。

その人が、軽トラを購入しようとするのを見て、絶対ポルシェの方がいいんだし、あなたはポルシェを買った方が良い、とは言えないということです。

たとえ口に出して言わないでも、心の中で、ポルシェの方がいいのにな、と思っていることもありますね。
SNSで、ポルシェのほうがいいのに、あの人ったら軽トラ買ってるよw、とつぶやくパターンもあります。

こう考えてみると、何が良いと言うのはあるのかどうか?もしかしたら「良い」と言うものは、ただの言葉だけであって、実体のない言葉概念なのかもしれませんね。だって、その「良い」は、決して「良く」は無いのですから。「良い」には、意味はそれほどあるわけではなく、人々が想像するよりかは、ほとんど意味が無いのです。

しかし、我々は、人間生活をおくりながら、しばしば良いという言葉を使います。このほうがいいよね、と。

教室でも「良い」をよく使います。

そろそろ教室が暑くなってきたので、教室の天井にくっついている扇風機を使うことがあります。

しかし、扇風機を回して欲しくない子も中にはいます。

この場合は、扇風機をつけるのが良いとはなりにくいです。

最終的には、その子は、クラスのみんなに問いかけることになります。

「ねぇ、みんな!教室の中、暑いから扇風機をつけようと思うんだけど、みんなどうかなぁ」

この場合は「良い」からつける、のではありません。扇風機が「良い」から回そうでは無いのですね。

こうしてみると、あまり良いとか悪いと言う言葉には、やはり、実態というか、力というか効力というか、そういう価値はほとんどないのかなと言う気がします。

人間はもしかしたらこの良い良くないと言う言葉に依存したり、頼りすぎているのかもしれません。
良い良くないを使わない方が、子供たちの生活はうんと楽になります。

教室で使うべき言葉は次の3つです。
◯私は何々したい。
◯私は何々してほしい。
◯私は嬉しい(悲しい)。

良い良くないを使わないようになると、子供たち同士の喧嘩や諍い、トラブルは10分の1程度に減っていきます。

これは、子供たち同士で、このような顕著な効果があるのですから、大人同士も、あるいは組織同士、国同士でも行えば良いのにと時々思います。

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マスクで友達の表情や意味がつかめなかった世代の問題点

今、5年生を担任しています。

この子たちは、小学校入学した一年生で、コロナの洗礼を受けました。
つまり、入学した後、1ヵ月間学校に登校することができなかったのですね。
その後も、ほとんどの行事が中止。1年生を迎える会も運動会も中止。水泳プールも中止。
全校の集まる行事はほとんどできず、1年生なのに、5年生6年生と1度も顔合わすことなく、ほとんど教室だけで引きこもったようになって、過ごした世代であります。

これは、大きな視点から見ると、壮大な実験だったようにも思います。
友達の表情を見ないと、どんなコミュニケーションの差が生じるのかと言う点で。

これまでの人類史上、初めてのことかもしれません。
第一次世界大戦の頃のスペイン風邪流行の頃も、マスクは推奨されました。しかし、あの時は、たった1年半で収束しましたし、そもそも、マスクを強要する程度が、今回よりも格段に低かったのです。
その時よりも今回は尚、長期に渡ったのです。
そんなふうに、友達の表情を見ずに、幼少期を過ごしたのが、今の子たちです。

私は、意外と、大丈夫なのではないかなと言うふうに捉えています。
確かに、人間同士がコミュニケーションを取る場合、表情はかなり大きな手がかりになります。
目元がほころんでいたり、口元が緩み、口角が上がっていれば、人に対して、親和性を感じやすくなると言うのはあるでしょう。

もしかしたら、他の学年の子たちに対しては、少し距離があるのかもしれません。昔よりも。

しかし、同じクラスの子どもどうしは、よくコミュニケーションは取れていると思います。マスク越しなので、逆に言葉をよく聞き取ろうとしているようにも思います。だから、必ずしもマスクがあるから、能力が育っていないと言うわけではなさそうです。

ただし、1点だけ気になることがあります。それは行事の楽しさを知らないと言うことです。
今は、行事の楽しさを先生たちだけが知っていると言う状態。兄弟の誰も味わっていません。ここ3年間行事がほとんどなかったのですから、当然と言えば当然ですが。

なので、行事を普通にやろうとすると、子供のテンションは上がりません。
めんどくさい、そんなの嫌だなやりたくないと言う声が多いです。

行事のほかに、もう一つ影響があるのが、総合的な学習の時間。
これもなかなか盛り上がりに欠ける傾向があります。
内容にもよるでしょうが、以前なら、普通にインタビューに行けたことでも、実際に会うことはせずに、資料をみて済ましてきたのですから、全国の小学校で、総合的な学習の時間が、どうしても規模の小さい展開の乏しい内容になってしまっていたのはあると思います。

子供たちに新たなムーブメントとして紹介し、子供たちが多くの人に関わろうとする展開をこれから広げていくしかありません。全校の行事も、これまで以上に人と人とがスムーズに関われるような細かい手順や段階が必要になることと思います。
つまり、規模を急に広げなくても良いのです。
そのかわり、ステップを重視し、細かい段階をつけながら、一つ一つを味わう学習へ変化させていきましょう。

たくさん食べたらおいしいのではないのです。1粒1粒を丁寧に大事に味わうと言うような新しい学習スタイルがコロナ後の小学校が進むべき道なのです。

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新しい概念「自画自賛力」(じがじさんりょく)

日本人が美徳としてきたものに謙虚と言う態度がありますね。
これは、頭の良い人の証拠で、実際、様々に学び続けている人は、どうしたって態度が謙虚になってしまう。

これを逆に考える人もいますが、そうではありません。謙虚を目指し、謙虚っぽい振る舞いをすると頭が良くなるかというと、全くそんな事は無い。逆は真ならず、です。
頭が良くなると、ごく自然に態度として謙虚になってしまうと言うことなのです。

ただ、その場合、実際には、自画自賛する力と言うものも持っているのが普通であります。謙虚と自画自賛は両立するのです。

頭の良い人は、自分の欠点を理解していることが多いです。そのことが人格とは一切関係ないことを知っているからですね。人物の価値と、能力のなさや欠点とは無関係。何かができたり、パワーを持っていたり、影響力が強いと言うことが、その人の人格や、人間の尊厳や価値とは、無関係だということが、ごく自然に自明な状態なのです。

こういう人は、能力のなさを指摘されたときに、あるいは、自分で気がついたとき、それらがどの程度不足しているのか、どの種類の能力が不足しているのか、冷静に分析します。そしてそのことを公表します。

それと、同じ程度で、自分が周囲に良い影響与えた場合に、そのことの価値や喜びをしっかりと味わうことができるのです。

つまり、価値があるとか、ないとか言うことについて、冷静に分析し、忖度をしないのです。

なので、自画自賛をたっぷりして、自己肯定感を保つことができるのです。そして自己肯定感を保つことができる人は、能力が人格とは無関係だということがわかりますから、失敗や欠点を正確に見つめる強さを持っています。

この強さの計測をする方法がありますが、それは、失敗を人のせいにするかどうかということです。
〇〇さんのせいで失敗した、と言うふうに人のせいにする人は失敗を正しく見つめることをしません。成績が上がることもないでしょう。

頭の良い子どもが、割と、自分の非をあっさり認めるのはなぜでしょうか。また、人のせいだと言うふうに、他人に責任を転嫁しないのはなぜでしょうか?
その必要がないからです。

教室で頭の良い子どもをたくさん見てくると、ある振る舞いが共通していることがだんだんに見えてきます。
それは、他人のせいにせず、自分のアイディアや工夫で乗り切ることができるんじゃないかと言うふうに、ゲーム感覚で捉えていることです。

そして、あたかもゲームの主人公のように、自分の持ち物アイテムのリストをずっと眺めてみて、これが使えるのではないか、あれと、あれを組み合わせたら、こんな効果が出るのではないか、先に、あれをしておけば、次の場面で良い展開になるのではないか、と試したくてうずうずしています。

ゲームに登場するある村の、ある村人が、自分の意図するように活躍しないからといって、何も困らないのです。そんな、自分にとって好都合過ぎる登場人物が、おいそれといるわけがないですから。
というか、頭の良い子どもは、自分がこのゲームの主人公だと言うことをきちんと知っています。
どの順序で、どの村を訪問するのか?
誰とどんな装備を持って乗り込むのか?
どんなイベントを先にこなしておくのか?
全部決めるのが自分だとわかっているから、村人がちょっと気に入らないことを言ったとて、全く意に介さないのです。

自分が主人公だと言う感覚を薄くしか持っていない子もいます。その感覚が、とても薄いのです。
そして、その薄さは、どうせコントローラーを持っているのは、お母さんだものと思っていることに、起因しています。

精神的に親離れをしないと、子供は本当の意味で頭が良くなる事は無いのです。

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母の日、おめでとう!ありがとう!

苦手なことはしなくても良い、はダメ?

35歳から教員になったので、学校の文化にどうしても馴染めなかった部分はたくさんありました。

その中の1つが、
「苦手な事はしなくても良いか?」
と、いうことです。

私は、若い頃から、なんとなく人間は得意なことをするのが1番幸せだと言うふうに感じることがよくありました。
なので、苦手なことに泣きながら取り組むと言うような行動は、どうにも馴染めなかったのです。
吹奏楽部の子らが、肺を鍛えると言う顧問の指示で、校庭を泣きながら走っている姿を見ると、少し違和感がありました。

実は私は19歳の時から、約10年間の間、得意、不得意、という分類をほとんど考えることなく過ごしていました。
その代わりに、キーワードとなっていたのが、持ち味ということでありました。

持ち味を最大に生かす

このキーワードが常に頭にあり、何度も何度も繰り返しリフレインして、脳内再生をしながら、持ち味って何なのだろう?とばかり、考えておりました。得意不得意と違って、持ち味となると周囲の人にとってどうかという判断が必要ですから、自分1人のことではなくなります。お互いの事になるのです。

ところが、教員になってみると、学校ではそうはいきません。その子にとって不得意・苦手なことも教える必要があるからです。徐々に、子どもに対しては、新しいこと、課題ができるようになるよう、資質能力を注入する、と言うことを考えるようになりました。

文科省はそんな言葉は使っていません。資質能力は、育むものだ、とされています。
しかし、当時の私は、育むというよりかは、注入するものと言うふうに捉えていたのです。

今でも、財界の方や、経営者の方は、インプットやトレーニングが大事だ、小学校中学校位までは詰め込み教育も必要だ、と著書に書いている人も多いです。

注入するとなると、やはり、苦手な分野において、それまでつけていなかった知識や、思考方法を、覚えさせるトレーニングさせると言うふうに聞こえます。

ところが、文科省の言うように「育む」となれば、これは注入するとは少し違います。
県教委主催の研修を受けて、知識を注入するのではない。新しい見方や考え方を注入するのではない。あくまでも育むのだ、と、聞いても、正直よくわかりませんでした。

やはり毎日、新しい知識を教科書や教材を通して、教えているというのが実態です。これは注入しているのか、育んでいるのか、どちらなんだろうといつもわかりませんでした。
確かに、課題に対して、様々な角度から考えられて、自ずと解を導くような子供にとっては、育むという言葉がぴったりな気がします。
しかし、その分野が苦手で、多角的なものの見方もなかなかできず、考えても考えても混乱するばかりで、結局、友達の意見を半信半疑で聞いただけ、という子もいるのです。この場合は、資質能力を育んだことになるのでしょうか?どちらかと言うと、知識を提示し、注入したと言う感じが・・・

さて、話は変わりますが、実際に大人になったときに必要な能力と言うのはなんでしょう。
大人になった時、苦手なことを嫌がらずに取り組んだ方が良いのか、それとも苦手なことではなくて、どちらかと言うと、苦手な事は他の人に任せて、自分は思いっきり得意な分野を突き進んだ方が良いのか。どちらなんでしょう?

これは見事に世間でも意見が分かれています。

経済・財界の方の著書を読むと、わりと最近は、苦手な事は他の人に任せたほうが組織全体の成果は高くなる、と言う意見が多いようです。

だからといって、子供の時から苦手なことを避けて通るようにしてはいけないとおもいますが・・・

しかし、一方で、
苦手なことに取り組むことこそが、最も大事なのだ、と言う間違ったメッセージが子供に注入されないように気をつける必要があります。

まず、根本的に大事なのは、あなたの得意なことや、持っている持ち味をとことん生かすようにすることがいちばん大切なことであること、そしてあなたの持ち味が、とことん生かされるような場所や役職や係になることで、実際に周囲からそのようなパフォーマンスを期待されるような、場面設定を自分に対してすべきだと言うことです。

それを100回位、子どもに教え、体験もさせた後で、ほんの2〜3回程度、
「ただし、自分が苦手なことも何とか工夫してやり抜くような態度も大事だよね」
と伝えるのが良いと思います。

子どものときは、苦手なことに取り組むのが本筋なのではなく、自分の持ち味や良さを発見し、その世界に浸り込むことこそが、最も大切な体験であることには違いない。しかし、だからといって苦手なことを全て避けるのではなく、何とかして苦手なこともある程度のパフォーマンスでこなせるような工夫をしていくことが大切だよと言うことだと思います。

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出来ない、やれない、の価値をどう見るか

学校と言う教育機関にいるために、どの子もできるようにしていくと言うことが教師の使命である。そのために研修も受けるし、個人的な勉強も行うし、もうほとんどすべてのエネルギーをそこに費やしてゆく。

ただ、一方で、いわゆるできない子、やれない子について、教員がそれをだめなことと認識してしまうと、そう思ったことが顔に出てしまう。
会社では、上司がいかに腹を立てても良いし、パワハラもあるようだし、できない社員に対して、全くお前はどうしようもないなというのを表情に出しても良いのでありましょう。古い話になるが、映画の釣りバカ日誌などはそういう場面もありましたね。

しかし、その表情に出すのは、小学校では絶対にしてはいけない。逆上がりが失敗した子に、お前はダメだなぁと言う表情を浮かべては絶対にいけない。

次に、表情にさえ出さなければ思っても良いのかと言う問題が生じる。
このことについて、文献を調べてみたが、結局、唐十郎の演劇論や、舞台芸術、俳優論などに行き着いた。

ルビーの指環で大ヒットした寺尾聰のお父さんである
宇野 重吉(うの じゅうきち、1914年大正3年〉9月27日 - 1988年昭和63年〉1月9日
が、究極の演劇理論を口にしている。
それは、思えば出る、と言うたった5文字のことでありまして、すべての演劇は、このたった5文字に帰結すると言うので、まぁ、深い言葉であります。

例えば、価値がないなぁと思ってしまうと、やはりどんなものを見ても、それは顔に出てくると言うのであります。
逆に言うと、すげえなぁとも思ったなら、どんなに大したことがない、という表情を浮かべようとしても、どこかにすげえなぁと言うものがにじみ出てくると言うのです。宇野重吉はすごいことを言いますね。

教師に置き換えてみると、教師は、できない子に対して、なんだできないなぁ、大した事ないなぁ、だめだなぁと思ってはいけないと言うのです。

教師はできるようになってほしいと願いを持って子供に接しますが、その子がやってみて、できなかったとしても、だから、価値がないとは思わないのです。

その頑張ろうとしている態度や、あるいは頑張ろうとしていなくても、興味関心を少しでも振り分けたのなら、あるいは、興味関心を少しも持たずとも、学習対象に対して、ちらりとでも見たのなら、あるいはちらりと見ないで、無視したとしても、学校に来たのであれば、あるいは、学校に来なくても、学校に来ようと言う気持ちを、少しでも持ったのなら、あるいは、学校に来ようなど、微塵にも思わなくても、学校から電話をしたときに、受話器を取って反応してくれたら、それで大満足をするのが教師と言う生き物なのです。

これを会社の経営者に、同じ気持ちになれと言っても無理でしょう。資本主義なのですからあり得ません。

つまり、教員は、資本主義には生きていないのです。これは、宿命であり、運命なのですから、職業として仕方がないことなのです。

この資本主義の世の中で、資本主義の中に組み込まれていない職業があったということなのです。

やばいですね。しかし、私たちはそれを引き受けなければいけませんし、受容しなければならないのです。

問題は、文科省の偉い人だけでなく、政治家がそのことをわかってないことですな。いいえ、ちゃんと理解している方もたくさんいますから安心してください。

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