30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2023年11月

オックスフォード

オックスフォード英語辞典が毎年行っていることがある。
それは、その年のムードをよく示す言葉を定める、というもの。

日本で言う流行語大賞のようなものでしょうか。
ちがうのは、オクスフォードはたった一つに絞る、という点。
ムードを総括するような言葉をひとつ、選ぶのです。

2023年の今年は、いったい何でしょうか。
ずばり「AI」、でしょうかネ・・・

ここからは、過去をちょいと振り返ってみましょう。
昨年2022年は、「ゴブリン・モード」(goblin mode)
「ゴブリン・モード」は、オックスフォードの辞書編纂(へんさん)者が選んだ3つの候補のうちの1つで、「恥ずかしげもなく自分勝手で、怠惰で、ずぼらで、貪欲な行動」を指すスラング。
そもそもゴブリンとは、人間に悪さをしたりトラブルを引き起こしたりする、醜い姿の架空の生き物。日本語では「小鬼」と訳されることが多いです。
新型コロナウイルス対策の制限が緩和される中、元の生活に戻りたくないと気づいた人たちが、この言葉をよく使うようになったといいます。このスラングは「私は今ゴブリン・モードだ」や、「ゴブリン・モードに入る」といった使われ方をする。「恥ずかしげもなく自分勝手で、怠惰で、ずぼらで、貪欲で、たいていの場合、社会の規範や期待を拒否するような方法で表れる行動」だそうで・・・。

2021年は、ずばり「vax」でした。これは、ワクチンのことです。
vaccineと同じ。vaccineの短縮形であると説明されていますね。
vax rate:ワクチン接種率とか、get vaxxed:ワクチンを接種する、とか。
この年はコロナのことで、ほぼまるごとといってもいいくらい、一年が忙しく過ぎたような印象でしたからね。無理もないか。

さてその前年。2020年の言葉を発表したときは、とても印象深かったですね。
毎年、オクスフォード英語辞典が発表する言葉ですが、2020年はなんだかいつもと違った。
なんと、言葉をひとつに絞ることができなかったのです。代わりに「未曾有の一年を複数の言葉で網羅する」と発表した。

その中には新型コロナウイルスパンデミック関連の言葉や、オーストラリアの森林火災やBlack Lives Matterムーブメントなど2020年の世界に影響を与えた問題に触れた言葉が入っている。
では、全体を以下に載せてみます。
Bushfire(森林火災)、Covid-19、WFH(working from home・在宅勤務)、Lockdown(ロックダウン)、circuit-breaker(サーキットブレーカー・ロックダウンの前の行動制限措置)、 support bubbles(サポートバブル・支援の安全圏)、 Keyworkers(キーワーカー)、 Furlough(一時解雇)、 Black Lives Matter(ブラック・ライブズ・マター)、 moonshot(困難だが実現すれば大きなインパクトを与える壮大な計画や挑戦)など。

たしかにこう見ると、昨年の2020年という年が、いかに未曽有の災害に見舞われた年だったかを実感できる。オクスフォードは、世界が混乱を極めた2020年、これ、という言葉に絞ることができなかったのですね。

こうしてみると、あのコロナが騒がれ始めた2020年という年は、人類にとってターニングポイントだったのでしょう。

ちなみに、今年の日本の流行語は、「増税メガネ」ではないと思います。だってノミネートされてませんからネ。しかしすごくキャッチーな言葉だし、本人もまんざらではなかったようですから、岸田さんのためにもノミネートしてあげればよかったのに、と思います。

あとは、「日本万博」でしょうかね。つい先日までは「大阪・関西万博」かと思っていたら、いつの間にか日本全体で税金をつぎこむイベントになってました。「結局日本万博」というように6文字で表したほうが良さそうです。

でも結局は、2023年の日本は、「①ガソリンが高い」「②物価がすごくあがった」「③ジャニーズ」の3本だったように思いますね。
政治家が、一生懸命にこれでもかと日本国民をハラスメントで痛めつけた、という感じがします。
これを「国民ハラスメント」と呼んでいいのであれば、まさに2023年のムードを象徴し、総括できる言葉として、「国民ハラスメント」を筆頭候補にあげたいですな。

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総合的な学習の時間に、一考察の論文を書く

論を組み立てるときに、子供たちには便利な言い回しをまず教えることにしている。
すると、苦手な子たちもその言い回しをうまく使って、一応の文を論理的に書くことができるからだ。まずは自分でも書けると言う自信を持つことが必要だ。方にはまった文章しか書けなくても、最初はそれで構わない。そのうちにバリエーションを増やしていけば良い。

まず、結論を先に述べる。
【私は、桃太郎に出てくる鬼は悪者だと思う。】
次に、そう思う理由を明確に述べる。
【桃太郎が命がけで戦ったのだから、そうする理由があったはずで、それは鬼が村人を苦しませていたからに違いない。】
という具合だ。
さらに、続けて「確かに」「しかし」という言葉を使う。ここで反論を封じる用意をするわけだ。
【確かに、鬼ヶ島から、わざわざ村人のいる場所まではるばる鬼が遠征してくるには遠過ぎるかもしれない。しかし、それは、村人の蓄えた、生産物、食料を、たんまりとせしめる為ならば、遠征の苦労も報われるからである。】
と言うふうに。

このように「確かに」と「しかし」を使って、一般的にされる反論を、封じておくのである。この反論を封じることによって、自分の主張を強めることができる。
文章の最終コーナーでは、「だから」を使って、もう一度、自分の主張を明確に述べて論を終える。
【だから、私はやはり鬼たちは悪党で、乱暴や狼藉、強盗をはたらいた悪党だと考える。】

まとめると、①まず私はAだと思う→②なぜならば、こうだからだ→③確かにBという意見もあろう。しかしそれは・・・という理由でおかしい。→だからやはり私はAが正しいと思う。
このような論の立て方を子供たちに伝えていく。


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鬼の正体は?

坂上田村麻呂という人が、その昔、鬼が住むと噂された東北地方に、蝦夷の征伐に出かけた。
この蝦夷というのは、まるで人間扱いはされず、鬼畜同然と言うものであったが、坂上田村麻呂は、その親分であるアテルイを気に入って自分の家来にしようと思い、都まで連れて帰っている。
やはり鬼ではなかったのである。

坂上田村麻呂が、こうして、各地域の首領に出会い、大和朝廷に従うよう説得していくうち、坂上田村麻呂は彼らの人間的な魅力に気づいていったのでしよう。地域の繁栄と幸せを願い、田畑を広げて、勤労を促し、自らも汗水たらして働いている地域の首領に、魅力がないはずがない。
蝦夷の征伐に向かう途中、各地域で、坂上田村麻呂はその土地の豪族と争い戦ってきた。もともとまとまりがなく、忠誠心もない土地では、その豪族すぐに滅んでいった。仲間の裏切りもあったに違いない。
ところが、人々から人望の厚い豪族は、仲間が裏切ることもなく、一致団結して、大和朝廷を退けようとしたために、おそらく坂上田村麻呂がその土地を制圧するのは難しかった。
強いとされ、鬼と言われた各地の豪族が、いかにその土地の人々から慕われていたか。
日本各地に残る伝説のうち、鬼と恐れられた土地の豪族こそ、人々を真に愛する英雄であったのだ。

鬼の正体は、おそらくは地域の豪族であろうというのが1つの定説になっている。
各地の鬼として有名なのが、悪路王、大多鬼丸、天津甕星、八面大王、両面宿儺、名草戸部、大国主などだ。

これらは、ほとんど大和朝廷が全国を統一していく過程で、一方的に鬼扱いされ、その結果、滅ぼされてしまった豪族たちであった。

しかし、上に述べた通り、征夷大将軍であった坂上田村麻呂は、鬼を征伐していくうちに、地域を立派に治め、人望の厚かった豪族の首領たちに、どこかしら人としての魅力を感じ、一目置くようになっていった。

だから坂上田村麻呂は東北のアテルイをわざわざ自分の1番の家来にしたくて、都まで連れ帰っている。

面白いのは、この鬼の伝説の中の、両面宿儺【岐阜県飛騨地方、高山市近辺】と、穂高山や上高地を挟んだ向かい側にある八面大王【長野県安曇野市地方】である。
両面宿儺には、顔が二つあり、八面大王には八つあったとされている。

この両者は境遇が非常に似ている。
両面宿儺は、大和朝廷からは、乱暴狼藉をはたらく盗賊、鬼とされた。
しかし、地元の人たちからは、土地を開拓したパイオニアであり、英雄・偉人として称えられてきたのである。
安曇野市の八面大王も全く同じだ。中央政権からは鬼とされ、退治されたあとにはその体を八つ裂きにされるほどだった。しかし、地元の人たちにとっては、やはり英雄なのであって、武勇にすぐれ、神祭の司祭者であり、農耕の指導者でもあったと言われ、地域を中央集権から守った英雄であったと語り継がれている。
この2面と8面を合わせて10面として、両面宿儺と八面大王の名誉を挽回するサミットを催してはどうだろう。名付けて、十面サミットの開催である。

他にも、両者の入り乱れる物語をミュージカル風にして、和太鼓や踊りなども入れながら子どもたちが上演したらどうだろう。ありがたいことに、両面宿儺と八面大王はどちらも大和朝廷が日本征服を目論んでいた時代に生きた。両面宿儺は400年ごろ、坂上田村麻呂は800年ごろの実在した人物である。

もし私なら、8MEN大王として、8人の子どもをステージに上げる。実際には存在しなかったが、8WOMEN大王もキャストに入れよう。これで男子8人女子8人合計16人は舞台に上ることができる。
両面宿儺の方も、クローンをつくれば、全員で48人くらいを舞台に出せる。

いつか実現してみたい。

ちなみに両面宿儺は、あるお寺に居る。
彫ったのは、美術の教科書にも出てくる円空という彫り仏師であります。

飛騨千光寺(丹生川町下保1553番地)
TEL:0577-78-1021
HP:https://senkouji.com
・円空仏寺宝館 「両面宿儺坐像」
・宿儺堂「両面宿儺の石像」

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「全国統一を目指す大和朝廷が、東北を侵略するに当たり、信濃の国を足がかりにたくさんの貢物や無理難題を押し付け、住民を苦しめていました。そんな住民を見るに見かねて安曇野の里に住んでいた魏石鬼八面大王は立ち上がり、坂上田村麻呂の率いる軍と一歩もひけをとることなくたたかいました。しかし最後は山鳥の尾羽で作った矢にあたり倒れてしまいました。その八面大王があまりに強かったので、再び生き返ることのないように、大王の遺体は方々に分けて埋められました。その胴体が埋められていたとされる塚が農場の中にあったことから、大王農場と名付けました。そして塚は大王神社に祀られています。ここに佇む八面大王は、大王農場の守護神でもあり、安曇野を守ろうとした、勇士でもあります。彼の中に潜む強靭でありながら、人を愛する心は、大王農場を訪れるすべての人々の中にきっとつたわっていくでしょう。」(大王わさび農場による大王の説明)

桃太郎の矛盾

桃太郎の鬼について、子供たちと話し合ったときのこと。
クラスのちょうど半数は、やはり桃太郎の鬼は、悪者であろう、盗みや狼藉、人さらいなどをしたわけだから、悪党に違いないと言う意見であった。
しかし、残りの半数は、もしかしたら結構いいやつかもしれない、と判断をした。

これは、教室の電子黒板に、でかでかと【空からのぞいた桃太郎】を映して、全員で見たからだ。

この
【空からのぞいた桃太郎】は、少し前に評判になった本で、実際にある小学生が自由研究で賞を取った際に、参考にした本らしい。これが面白いと言うので、テレビやラジオでかなり評判になっていた。

鬼の勉強した際に、そのことを思い出して、クラスの子と実際どうかと読んでみた。すると、やはり、視点を一歩引いて客観的に見ていけば、物語の矛盾と言うのはたくさん見つかるものである。クラスの子たちも、先の自由研究の子と同じように、悪者と決めつけて見る事はできないと言う結論に至った。
その記録をここに書こうと思う。

まず、うちのクラスの子どもたちが、1番に矛盾として指摘したのが次のことであった。
1)鬼ヶ島がものすごく遠い。
おまけに海を渡ってようやくたどり着く場所である。これはつまり、鬼達からしても、人間の住む区域まで来て、収奪したものを持ち帰るのに、かなり苦労が要るだろう、ということ。

この意見が出てから、まずペアで、次にはグループで話し合い、何人かの子に意見を言わせてから、もう一度、鬼ヶ島の鬼は悪いかどうかを確認した。
すると、4人から5人ほど、意見を変える子どもが出た。悪者では無いかもしれないというのである。

次に2つ目の指摘があった。
2)おじいさんとおばあさんは、かなりのんびりと暮らしている。

もし鬼が頻繁にやって来るような土地柄であれば、おちおちと芝刈りもしていられず、せめて身を守るための鍬などを持って最低限の防御策を考慮するだろうし、おばあさんも川で洗濯などせず、つまり1人で行動する事なく、大きな瓶(かめ)などに水を汲んでおき、自宅で洗濯をするに違いない。

このことを話し合った後に、2回目の確認をした。挙手させると、さらに3人ほど、意見を変える者が出た。

さらなる矛盾点として指摘されたのが、
3)鬼は、猿やキジや犬よりも弱い。
ひょっとすると、人間の大人が鉄でできた農具、例えば鍬や鎌、ジョレン、お餅つきで使用する杵などでおそいかかれば、もしくは抵抗すれば、容易に撃退できたのではないか、という点だ。

この点については、犬が本気で噛み付くのであれば、鬼はやはり困るのではないかと言う意見も出た。
確かに犬が噛み付いたら、致命傷になることもあろう。だが、鬼は鉄で出来た金棒を持っているではないか。あの鉄の棒は、トゲトゲも付いていて、犬はたった1匹しかいないのに、鬼が数人で犬を取り囲み、トゲトゲでおい回せば、鬼の方が強いはずである。それをしないのは、やはり鬼が優しいからではないか、と言う反論が出た。

おまけに、ある女の子は、「キジはそんなに強くないと思う。お話の中でも、キジは鬼の目を突きましたと書いてあるけれど、それこそ鉄のトゲトゲ棒でひと殴りすれば、キジなどふっ飛んでいくに違いない。」言うようなことを言い、これには多数の賛同者が出た。それを聞いたある男の子は、「キジなんて、HPは1か2しか無い」と言って馬鹿にした。

猿はどうか。子供たちからすると、猿の強さは、HPは5くらい。群れのボス猿であったとしても、せいぜい8か9程度であろう、と言う見立てであった。武器は爪でひっかく、ということだが、たとえ鬼がじっとしていて、おとなしく顔面をひっ掻かれたとしても、致命傷にはなるまい。
今や数少なくなった、鬼はやはり悪党である側の子は、猿は噛み付くこともできる、と反論していたが、やはり鬼の持っている、金の棒にはかなわないであろうと一蹴された。金の棒を持つ鬼のHPはおそらく100以上あるはずだ。

それでも、鬼が負けてしまったのは、きっと鬼が抵抗しなかったせいである。なぜならば、鬼はたとえ正当防衛であったとしても、生き物を殺すなどと言う野蛮な事はしないためであろう。

ここまで来て、再度人数確認をしてみると、クラスに、鬼は悪者であると考える人数が、3人に減ってしまった。

最後に出た、矛盾点の指摘は、
4)オニたちがお互いに助け合って楽しく暮らしている。

「空から見た桃太郎」の本では、鬼ヶ島の様子がこと細かく描かれている。鬼ヶ島の中は非常にたくさんの鬼で賑わっていて、中では、魚屋、鉄の金棒を売る店などがある。奥の方には、劇場のような場所もあり、鬼がチケットを売っていて、子連れのお母さん鬼が看板を見上げている。魚屋が売っている魚は、非常にたくさんの種類や量があり、やはり買い物をしている鬼がいて、本当に、私たちが普段暮らしている街の様子そのものである。
鬼たちの顔は、非常に満足そうで、お祭りをしたり、踊ったり、道端で大道芸をしているような鬼までいる。どの鬼も目的を持って行動していて、その瞳は輝いているのであります。

この、生活に満足をしていそうな鬼たちが、わざわざ、遠くの人の住む村にやってきて、殺戮や強盗をはたらくであろうか。
子供たちが注目したのは、魚屋で、あの魚は、絶対に海で釣ってきたのであろうと言う意見が、何人もの子から相次いで出された。
魚はすぐに腐るから、そんな生鮮品を、遠くの人間界から運べるわけがない。そんな苦労をするくらいなら、あの海で、釣り糸を垂れて、魚を釣る方がどれほど簡単なことだろう。
鬼たちは決して怠け者ではない。なぜなら、このように商売にも懸命に励んでいるし、建物や店の作りは、非常に立派であって、きっと鬼の大工が仲間とともにノコギリや釘、かんななどを使って、せっせと組み立てたものではあろう。人間を働かせたわけではない。鬼たち自身が汗水を流しながら、知恵を出し合い、工夫して、このような店や建物を作りあげたのだ。
怠け者ではない鬼たちが、魚を釣らないわけがない、というのである。

ここで、採決をとると、残りは2人になった。この2人の言い分は、
「たとえ鬼が優しくて、働き者で、犬や雉(きじ)や猿よりか弱かったとしても、それでもやはり桃太郎が退治を思いだったのだから、それにはそれなりの理由があるはずで、懲らしめられるだけの何かしら悪いことをしたに違いない」と言うのです。

そうすると、ある子が次のように言った。
「もしかしたら、桃太郎が奪い取ったたからものは、人間の村から持っていったものではないかもしれない」

みんなが驚いて、根拠を尋ねると、
「だって、魚だって多分鬼が釣ったのでしょう。それに家とか店も自分たちで建てている。桃太郎が鬼から取り上げて、持ち帰ったものを見ると、割と大したものはない。そんなもの鬼なら簡単に自分でこさえることができる。」
と言った。
また、違う子が、続けて言った。
「そうだよ。あれは鬼のものだよ。」ふだんはあまり意見を言わない子。
「だって、もし人の村から盗んだものだったら、きっと桃太郎のお話は、最後に桃太郎が人々に宝物を返してやりました、で終わるはず。でも桃太郎は、その宝物と一緒に、おじいさん、おばあさんと幸せに暮らしました。になっている」

つまり桃太郎は、村人に盗んだ盗品を一つ一つ持ち主を探し確認しながら返品したわけではない。

「お話には書いてないけど、きっと返してあげたんだよ」
と2人は反論したが、
「もし返したなら、村人と一緒に仲良く暮らしたと書くはず。しかしどの桃太郎の本を見ても、おじいさん、おばあさんと一緒に仲良く暮らした、になっている」
言い返されて、2人はもうギリギリまで追い込まれてしまった。

ここで面白いことが起きた。
この2人が困った顔になり、じゃぁもう意見を変えようかなと言った瞬間、何人もの子たちが、

「え?意見を変えるの?変えないでお願い」と言うのです。

つまり、こうやって一つ一つ分析や検証していくと、そのこと自体が面白くなってしまい、論破するのが目的、というのではなくなってきていたのですね。

さて、ここまで分析活動を進めてきて、最終的に桃太郎の鬼だって悪くは無いと言うことになってきたので、これまでに読んだその他の鬼が登場する物語、ほとんどと同じように、鬼と言うのは、実はそんなに悪いものでもなさそう、と言うことになってきた。

ここまで調べてきた鬼は、
・こぶとりじいさん
・ソメコとオニ
・おにたのぼうし
・泣いた赤鬼
・節分の鬼
・大工と鬼六
・千里の靴
・雷さまとクワの木
・地獄のあばれもの
・一人になった鬼の親分
・えんまになった、権十おじいさん
・一寸法師

結局、どの鬼も、本当の悪党と言うには足らず、どこか人間臭く、親しみの湧く存在であることが多かった。一番の悪党であるとされたのが、桃太郎だったので、桃太郎の鬼くらいは悪者であって欲しかった。
ところがどっこい、桃太郎の鬼ですら、悪党にはなりきれなかったのである。


写真は、両面宿禰。(岐阜に住んでいた鬼。ヤマト王権の制圧に抵抗した)
宿禰

なぜ歴史の学習がきらいになるのか(小学生編)

坂上田村麻呂が戦った相手は、地域で愛されていたはずで、大和朝廷という別部族が襲ってきたのであれば、徹底的にふるさとを守るために、一致団結して戦ったことでありましょう。
外敵である坂上田村麻呂。いきなり土足でふるさとを汚しにやってきて、「遠い京の都におられる天皇が君臨する大和朝廷にひれふせ」と訳の分からないことを言って、攻めてきたのですからナ。
ところが勝てば官軍。大和朝廷は、勝った勢いで、「ここにはおそろしい鬼がいたので、田村麻呂が退治した」と言って、歴史書にそう書いてしまう。

昔はそれでもよかったのです。勝つのは強いからで、強いのは正義であろう、というのが昭和から続いた考えでした。
ところが、コロナを経て、今の時代はなぜか、『強い正義』は人気がありません。正義ぶって、厚かましく自分の考えを押し付けてくるような勢力を、どうも世の中の、とくに若い層は嫌っているようです。

その証拠に、パワハラは、不人気です。
ブラック企業も、不人気です。
「24時間たたかえますか」も、不人気です。
ハラスメント全般が、不人気なのです。

だから、坂上田村麻呂が、どうも人気がありません。
授業をしていても、大和朝廷が日本を制覇しました!という部分で、なにか盛り上がらない。
「ひどいなあ」というため息が、教室にもれてしまうのです。
歴史の学習が、とくに若い子どもたちに不人気なのは、こうやってハラスメントで地方を無理やりに傘下に収めようとしたり、武器を持って人を脅し、なびかせようとするようないやらしい政治に対して、吐き気のするくらいに「嫌悪感」を抱くからではないかと思います。
でも、仕方がないのです。当時は、それが当然のことでしたからね。ただ、今の時代の感性には、まったく合わない、というだけで。

わたしは歴史キライの子がでないよう、坂上田村麻呂に焦点をあてるのでなく、むしろ退治された鬼の側に焦点をあてて、授業を行いました。
鬼といっても、当時はその場所にちゃんと住んでいた人間です。実在の人間が、大和朝廷が征服しようとしたときに「いやだ」と反対したために、「鬼ということにされてしまった」わけですね。

坂上田村麻呂の最大の事業といえばやはり東北地方に居住していた蝦夷の討伐だったでしょう。
蝦夷というのは奈良時代後期から平安時代前期にかけて東北地方で朝廷勢力と抵抗した人々のことを指します。
朝廷側はこの蝦夷という勢力を抑えて東北地方にも勢力を築き上げたいと考えていました。
それで、「蝦夷」という人たちは、野蛮でいやしくて獣同然だ、鬼のようなものだ、という風説を流布させて、都の人たちには「東北に鬼が住んでいる」というようなイメージをもたせました。
今でも「北東」の方角は、鬼門だ、ということになってますね、日本は。

坂上田村麻呂は、鬼を征伐する正義の味方だ、ということになっているのですが、子どもたちからは、ただのパワハラ野郎だと思われてしまっています。若い人たち、とくに小中学生には。そのために歴史はパワハラの変態野郎が人を殺すおそろしくてアホな学問だというイメージをもたれ、そのあげくに大量の「歴史なんてキライ」という子どもが量産されてしまうわけです。

坂上田村麻呂は当時としては立派な行いをしたわけですが、時代の趨勢にはさからえないようです。
したがって、わたしとしては、大和朝廷の勉強はあまりしたくありません。子どものテンションが下がり、以後の学習が非常にやりにくくなるからですね。

でもまあ、奈良の大仏をつくるころには、女子もまじめに勉強するようになりますし、天変地異の多かった平安時代の学習は、女性がひらがなを書くようになったり、日本らしさが出てきたりしますから、また好きになってくれるんですが。

今思えば、大和朝廷の方たちは、蝦夷とか他の地域コミュニティについて、ゆるい「連邦制」をとった方がよかったかと思いますね。「制圧」とか「征服」とかでなしに。だって、あまりにもパワハラのイメージが強すぎるので・・・。

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洗濯機の故障 修理 東芝AW-8D

東芝製の洗濯機。
2週間ほど前、洗濯機の下部から水漏れしたことがあった。
排水のホースに穴が空いているのかと思い、調べてみたが正常である。蛇腹のようになっているので、見えないような傷が付いており、水が漏れているのかと思った。しかし何度調べてもホースは正常であった。
不思議に思いながら、何度か使ううちに水漏れはなくなってしまった。
きっとたくさんの洗濯物を詰めすぎたせいだよ、なんて言いながらそのままにしていた。

しかし、今思えばあれが前兆だったのだ。

先日洗濯機がいよいよおかしくなった。本格的に調子が悪い。水が洗濯槽にたまらないのである。
東芝製の縦型洗濯機。ザブーンと言う愛称がついている。乾燥の機能が付いておらず、シンプルな構成ゆえ、故障が少ないと思って使ってきた。
だから、不具合が起きたとき非常に動揺した。まだ4年しか使っていない。壊れるには早すぎる。

長期の保証に入っているわけではないので、修理を出張費込みで依頼すれば、最低でも20,000円はかかると聞いた。
そこで、DIYでどうにか直そうと決意した。

早速、ネットを検索してみると、情報がガンガン出てくる。東芝製の洗濯機でも似たような事例が出てくるし、他社の製品でもほぼ同じ。洗濯機の構造は似ているので、どこの会社も同じような故障はあるらしい。

1番多いのは、ヘアピンや、プラスチックの破片等がつまるケースである。
中でも、ヘアピンは、その長さがちょうど排水口の直径と近似値で、排水弁を動かなくさせるには、もってこいの逸品である。

我が家では、ヘアピンをほとんど使わないので、おかしいなと思った。
我が家の場合は、もっと他のものが排水弁を常時開けてしまっているのではないだろうか。

さらに調べると、ものが詰まるだけでなく、排水のモーターそのものが故障するケースもあるらしい。そうなると、楽天市場やYahoo!ショップなどで、型番から調べてモーターそのものを取り寄せることになる。ちなみに私が調べた型番では、3000円から4000円ほどでモーターを売っていた。
また、排水弁そのものが一部割れたり欠けたりなどし、弁の調節がうまくいかないケースもある。そうなると、排水弁を型番から取り寄せねばならない。

私は多少の出費を覚悟しつつ、ともかく、分解してみることにした。

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分解して、背面から排水弁を覗いてみたら、排水弁がネジのようにしまっているのだが、結構固い。そこで道具箱を探し、下のような大型のプライヤーを使って少しずつ回して外した。
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左の小さなラジオペンチは、排水弁から伸びた針金がモーターに通じるプラスチック部品にくっついているので、その針金(クリップ)をつまんで外すのに使用する。この部分は、針金が曲がって引っ掛けてあるだけの簡単な作りであった。
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ご覧のように、小さな細い針金が、曲がって、プラスチックの先端部分に下側から引っ掛けてある。これをラジオペンチで優しく外せば、もう排水弁はあっという間に取れてしまった。至極簡単である。

そして、なんと、原因がわかった。排水弁を取り外したと同時に、小さなヘアピンが1つだけ出てきたのでありました。

そのヘアピンが、まっすぐに排水経路に送られて、ちょうどつっかい棒のようになり、ゴムの排水弁が排水経路を閉じることができないように、弁の邪魔をしていたのでありました。
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黒い細い棒のようなものが、ゴム製の大きな排水弁を、しっかりと押し付けて動けなくしていることがわかります。
なんともあっけなく、修理は完了。
元通りに組み立てスイッチを押してみると、正常に水を貯められるようになりました。
ちなみに、排水がおかしい、排水されっぱなしだ、と言うサインが表示されたわけではありません。
反対に給水ができないと言うサインが出ました。東芝の場合、C 5というデジタル表示が出ます。これは給水不能の表示。

しかし、この表示が出たとき、きちんと給水はできていたので、最初はなぜなのか分かりませんでした。
その後わかったのは、洗濯機からすると、給水をしてもしても、水がたまらないため、どうやら給水ができていないと判断したようなのです。でも原因は、ちっとも水がたまらないと言う部分にあり、その元を辿ってみると、排水弁が開きっぱなしで、常時排水しかできないようになっていたのであります。

つまり、給水ができない、ではなく、排水弁が開きっぱなしと言う表示なのでした。これは取り扱い説明書には書いていないために、最初はわからない人が多いかもしれません。私も迷いました。

さて、4年間使った洗濯機の、排水モーターまで買わねばならないかと思っていましたが、そうならずに済んでほっとしました。念のため、排水モーターはどう変えるのかなと思って見てみましたが、洗濯機をひっくり返してみると、かなり部品が奥のほうについており、意外に手ごわそうでした。
最低10年は使いたいので、そこまでモーターが維持できればありがたいですな。

思い返してみると、水漏れがあった2週間前。あの時もおそらくこのヘアピンが、洗濯槽から、排水経路に向かう途中の辺どこかをいちど塞いだのだろう。そのために洗濯槽が揺れた際、規定量より多くなっていた水が、水槽の上部から溢れたに違いない。
やはり何かの事象が起きた場合、その原因となる要素がどこかにあるのだ。

○○のせい?

昔、SMAPが解散するときに、子ども(当時は6年制の担任をしていた)が聞いてきた。

「ねえ先生、SMAPって香取慎吾のせいで解散するんでしょ?」

わたしは、

「だけじゃないでしょ」

と言って、忙しくプリントの整理などしていました。

彼女はジャニーズ大好き少女でありまして、どちらかというとSMAPが解散したり、いろいろと大人が要らんもめごとをしていたりするのを否定的に感じているようでした。

大体、大人がなにか問題を起こすことが多いのであって、わたしたちが楽しんでいる現状を壊さないでほしい、というように子どもは考えるものですから。

香取慎吾のせい、というように、だれかのせいにしたくなりますよね。
みんな、信じられない現象を目にすると、いったいなんのせいなのか、
だれのせいなのか、と、

〇〇のせい

というふうにしたくなります。

ところが、SMAPの解散については、理由がたくさんありまして・・・。

これだ、というふうに、一つに決めきれないのです。
香取君のせいだ、というふうなことを書いた芸能誌やWEBの記事があり、それで多くの人がそう思うのかもしれませんが、木村君のせいだ、というふうに書くライターさんもいるし、事務所のせいだ、と書くライターもいます。

ライターさんは、それぞれの芸能誌やゴシップ誌へ記事を取り上げてもらうのですが、ありきたりの記事では受けません。ですから、できるだけ新しい観方で書きますし、それが多少なりとも筋が通っているようにさえ見えればよいのです。
ライターさんも商売ですから、〇〇のせい、というふうにスッキリ書きたくなります。でも、それは書いた記事であり、見せるための記事ですし、記事として書いていますから、事実とは次元の違うものですよね。

事実は、SMAPさんしか分かりませんし、実はSMAPさんの中でも意見が分かれます。100のうち、10くらいはおれのせいかな、と各自で思うかもしれませんし、事務所だって100のうちのいくらかは責任あるかな、と思っているかもしれません。

「太陽があまりにも黄色かったから」

という有名なセリフがありますが、なんと人を殺したのは、太陽の色のせいだ、という人もいるのですからね。
〇〇のせいだ、というふうな言質は、実はあまり、意味が無いのです。

しかし、わたしは、香取君のせいだ、という意見に賛成です。100のうち、たったの2か3くらいですが。
のこりの97,8は、マスコミのせい、あるいは視聴者のせいなのかもしれないし、もっというと、説得できなかった和田アキ子さんのせいなのかもしれません。アッコさんが、きちんと説得さえできていたら、解散にはならなかったのですからナ。

しかしアッコさんのせいだ、というライターは一人もいません。理由は明らかで、その記事をデスクがはじくだろうからネ。
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お子様ランチ、子どもは喜ぶものなんでしょうか?という質問

久しぶりに質問が来ました。
インターネットって、おもしろいですね。いきなり知らない方から質問が届くなんて。
ブログを書いている教師に聞くような質問ではない気もしますが、おそらく、教師に聞いている、というよりは、子どもの評論家に意見を聞いてみよう、という感じなのかな?


さて、これは子どもに聞いてみないと分からない質問ですね。
大人は、ある程度、予想するしかないのです。

「これで、喜んでくれるかな?」

と思いながら、そうあってほしい、と願いながら行動するしかないのです。

で、実際にお子様ランチを目の前にして、喜ぶ子もいます。
しかし、逆に、何も反応しない子もいます。
そんなに欲しいとは思わないけど、べつに・・・という感じ。

しかしここからが落とし穴です。

実は、目の前にあるお子様ランチに、気分をときめかせている子もいるのですが、態度として、それを表現しない子もいるんです。
なかには、声にだして

「これ、あんまり美味しくない」

などといいつつ、実際には心の中で、「やった!」と思っている子もいます。

面白いですよね。
人間と言うのは、セリフや態度や表情という、外に表現されているものと、内面とが異なることが、たまにあるのです。

ですから、内面を知りたくても、結局は知ることができないです。
人間とは、相手の内面は分からないのが本当なんです。それが真実なのです。

でも、だからといって、だから人間お互いに信頼関係がつくれないかというと、そうでもない。ここも面白い所です。

長年連れ添って、背中のかゆいところまで了解している夫婦であっても、

「本当にはわたしはこの人の心の内は、わからないな」

と思いながら生きているものです。実際、わかった、と断言はできないので。

しかし、相手がどうあろうと、こちらとしては、相手を信頼している。
それで、お互いがうまくいく、という感じのことが多いのではないでしょうか。

結局、どんなお子様ランチであっても、見た目がしょぼくても、本当に

「うれしい」

と思って食べるお子様ランチもあるでしょうし、そうでない場合もありますね。
要は、人間関係ですよ。これに尽きます。

認知症の母が、だしをとりわすれてつくった味噌汁、味のない味噌汁、それでも涙をながしながらありがたくいただく味噌汁もある、ということです。

つまりは、人間は、お子様ランチの見た目や味なんて、それほど重要ではないのかもしれませんね。いっしょに食べる人が誰か、どんな心もちで、どんな気分で食べるかによって、お子様ランチの味なんて、1000倍くらいちがうのではないでしょうか。
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