30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2023年06月

【給特法最前線】現場はちんもく

給特法について、現場は一切のちんもくを保っております。
職員室で話題になることはまったくありません。
なぜなら、忙しすぎて家に帰ってもニュースをみないので、今世間で話題になっていることを知るタイミングがないのですね。教員は世間知らずと笑われますが、本当にテレビもラジオも聞く暇もないし体力が残っていないのが実際のところだと思います。スマホで明日の天気予報を見ようとしたまま、がくっと寝落ちをしている若い先生を見たことがあります。職員室で。

今年、同学年をもつ若い子に、趣味は何かと聞いたら、日曜日の買い物だと答えました。
へえ、よほど珍しい何かを買いに行くのかと思ったら、食品や日用品だそうで。

「もっとちがうものかと思った」

というと、

「休日は洗濯して買い物したら終わりなんで」

というから、え、2日あるでしょう?と聞くと、

「日曜日は仕事してます。土曜日だけが休みで、洗濯しちゃわないと」

だそうです。

彼にとっての一番の関心事は土曜日が晴れることで、洗濯物が乾くほうがいいそうですね。

なぜそうも仕事があるのか、と世の中の人は訝るかもしれないが、実際に仕事は無限であります。
授業以外が9割、実際の授業の準備が1割、程度でしょうか。
このあたりは人によって実感がちがうでしょうが、分掌が多い人ほど、授業から遠ざかるでしょうね。

さて、残業代が出ることほど必要のないことはありません。
むしろ、残業代が出ると、おそらく仕事量は今よりも増えるでしょう。
多くの教員がおそれているのは、そこです。
若い人が教職員をめざさなくなり、募集しても募集しても人が足らない、そうなってしまっているのは、仕事量が殺人的に多いからです。

給特法の問題を、単なる賃金や働き方の問題に矮小化してしまうのは、全く間違っています。
それが起こってきた背景を踏まえ根本を見据えて考えたら、そうではなく、教員が趣味も持てないほどに、休日に授業の準備をしなければならないほどにハードスケジュールになってしまっているところを考えるべきです。子育てをしている若いお母さんの先生まで、日曜日に学校へ来ていますから。自分の子どもはほうっておいて、仕事をしに来るのですから。これが美しい日本、理想の世の中だとは思えないですね。

勤務時間が短縮され、労働に見合う賃金が支払われたら、この問題が解決するのかといったら決してそうではないでしょう。問題の中心にあるのは、やりがいの問題です。そのやりがいが見えてこないほどまでに、疲弊している学校の先生たち。息をつく暇もないほど、追い詰められている先生たち。

しかし今の与党政府は、ますます教育にはお金を使わないことを決めています。人を雇わず、教育からは手を引く、という姿勢です。どうやって美しい国をつくるのでしょうか。子どもを大事にしないのは、未来を大事にしないこと。政治家は、いったい何がしたいのでしょう。政治家はこうすることで、どんな良いことがあるのでしょう。給特法をいじって給与を増やすそのお金で、校庭の草抜きをする人を雇ってください。そのお金で蛍光灯を変える人を雇ってください。そのお金で集金をする人を雇ってください。そのお金で文科省のアンケート調査に答える人を雇ってください。

私も日曜日ですが、きちんと学校へ来ておりますよ。
ひまわりに水をやり、書類を作り、掃除用具の整理をして、扇風機にシリコンスプレーを吹き付けて回転を良くし、子どもに配布する書類を用意し、棚を直し、運動会の写真を整理しました。これらは最高裁の判決で「教員の仕事ではない(教員が勝手に自主的にやってるだけのこと)」とされたことですが、やってくれる人はいませんので、やるしかない。

クーラーは配備されましたが、使いません。
休日に仕事をしたことがバレると、市教委から怒られるからです。熱中症になりそうですが、がまん、がまん。

見つからないように、仕事をしないとね。

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自己評価できるかどうかは・・・

子どもが主体的になって、すべての活動を行うものだとすると、学習計画と言うものや、将来の計画と言うものも本人が立てるしかなくなる。
この言い方もおかしな言い方で、本来はそうなのだから、日本の社会の教育システムについてもありとあらゆる場面でそうなっていなければ、話が合わない。
さて、学習の計画を本人が主体的に計画するならば、まず第一の条件として、子ども本人が自分の状態をどう捉えているかについて熟知していなければならない。
今の自分の状態を知り、そこから将来を画策し、自分のプランを立て、アクションを起こしていくのである。

ところが、今の学習システムにもっぱら見当たらないのがこの部分、つまり、自分の状態を知り・・・という点である。
子どもか自分の状態をどのように把握しているのか、それを多くの大人は聞こうとしていないように思える。
そこで、文科省は自分の状態を子どもが把握できるように「振り返り」を指導している。授業の後に、自分が今日の学習で目標目当てを達成したかどうか自信を振り返るのである。
さらに、次の学習に向けて、一体どのように進んでいくのか、それもまた自分で決めるのである。学校はこのように学習についての大きな変革を、実はもう10年以上前にやり始めている。そのことが熟知されてきて、多くの小学校でその実践がされ始めたのが5,6年前であろうか。

校内の研究授業などで、他の先生方の授業を見ても、このように授業の始まりにめあてを確認し、振り返りの作業を子供たちが一人一人自分の学習計画ノートに記録していると言う実践を最近は多く見るようになってきた。

さて、それが宿題など、家庭の関わるところとなると、なかなかそうはなっていない。
多くの保護者にとって、宿題と言うのは、学校が出すもの先生が決めるものと思っていることが多い。中には、学校から担任教師がそのことについての説明を充分しており、家庭でも宿題と言うのは自分で計画するものだと言うふうに認識しているという学校もたくさんあるだろうと思う。ただし、全国の小学校が全てそうなっているとは言い難い。
宿題というものも、一人一人違うと言う点が当たり前なはずなのに、隣のクラスと宿題の内容が異なるとどうしてなのかと訝る保護者も実際にはいる。

通知表の評価も、昔のように相対評価ではなくなって、かなり長い年月が経つにもかかわらず、テストの点が良かったから。悪かったから三角だと言うふうにまだ思っている保護者もいるだろう。
自分の学習の状態を熟知し、自分で計画を立て一生懸命に練習をしている子にとって、あるいは考えを深めようと試行錯誤できている子にとって、ふさわしい評価はすべからく丸、あるいは二重丸である。

私が見てきた子どもの中で、
どんな具合?
力はつけられてる?
どうしたら分かりそうかな
どうしたらできそうかな
と担任に聞かれた場合に、その自分の状態を全否定する子は1人もいない。
力をつけたいと願っていない子は1人もいないのである。

だから、通知表に三角の子は1人もいない。いようはずがない。みなさんは、このへん、どう思われますか?

ここからが1番言いたいことだが、通知表は、そういう意味であまり意味がないのだと思う。大切なのは、本人が自分の納得する計画が立てられており、その計画をしっかりと進める状況がこの1学期につくられたかどうかである。その状況を作るのは、第一に子供の意思であり、またそれをサポートする周囲環境がどうかと言う点である。
つまり、通知表には、2つの列が必要で、1つは自分の意志や状態で、もう一つは、環境である。それを丸や三角で子供自身が評価すべきである。そしてその評価を見て担任がじゃあどうしていこうかと言う計画をそこに書き込むのだ。そして親が家庭での状況をさらにそこに書き込むので、お互いに自分がどうそこに関わることができただろうか、という自分自身の反省を述べるために、である。IMG_2605
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