30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2023年03月

「わたしは、自分を大切にしていません」

NHKスペシャルで、「731部隊」が取り上げられていた。

また、インパール作戦のことも先日、やっていた。

録画してあったその2つを続けてみて、考えたこと。




えらい人の主語が 「わたし」 でなくなってるときに、
人は、要らない事件を起こすみたいやなぁ〜。


「軍人たるものは・・・」
「部下であれば・・・」
「日本人なら・・・」
「日本男児のすることに・・・」
「男っていうのは・・・」

こういう言い方をするときの目は、宙をさまよう。
自信がなく、虚勢を張っているように見える。

怒った時の感情の処理の場面で、この言い方がよく出る。

本当の自分の意志、自分自身を大切にできなかったから、
そのことが心の裏で分かるから、自分の心に勢いを駆るしかなくなる。

それで、大声(おおごえ)になってしまうのかな。

冷静でいられなくなることの原因は、たぶん、それ。


「他の軍人もみな・・・」
「相手は匪賊で」
「陸軍としては」

この時、「個人」は、すっぽりと抜けている。




「軍人」・・・も、
「日本人」・・・も、
「日本男児」・・・も、
「男」・・・ってのも、

みんな、わたし自身の実際とは、つながっていない。
くっつけようとした、というだけの『言葉』。



「わたしは、いやだと思った」
「わたしは、とてもできないと思った」
「わたしは、泣いた」

こういうことは、戦争を終えて、
心に余裕ができてから、はじめて言えたこと。

「わたし」が主語になる間は、平和な時代だ、ということ。



自分を大事にしなかったときの、言葉の癖は、よく見える。
平和な時には、それが見える。

つまり、主語が「わたし」以外になってしまう、ということは、
「わたしは、自分を大切にしていません」ということを、
だれかに気付いてほしくて、言外ににおわせているのかも。

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高市早苗さんを擁護する

.
高市早苗さんに、果物を贈ろう。
今なら、おいしいイチゴがとれる。

おいしい、腹が満たされる、
心まで満たされる、本当に手づくりの、心のこもったおいしいものを
贈ってあげたい。



冷たい声をかけるのではない。

あたたかく、あたたかく、じわーっと、

こころを溶かすように、接することだと思う。


美味しそうに、心づくしのイチゴをほおばる高市早苗さんを想像してみよう。

そして、イチゴの甘酸っぱい味に目を閉じて、頬をほころばせ、それから、
やさしい笑みを浮かべて、

嘆息まじりに遠くの山の緑を眺め、
静かな、静かな時間を過ごす、

そんな高市早苗を想像してみよう。




責めるのは、もう、やめよう。

悪い人ではない。





小学校でも、居場所が無くなるくらい、子どもを叱ることは、ない。
きちんと、逃げ道を用意する。

2度、3度、とくりかえして、反省の色が見えない子にも、やはり、次の道は用意する。

子どもだから、というのではないよ。
人だから。

ひと、人間、にんげんだもの。
心の底から悪い人間なんていないので。




高市早苗さんは、 「やせ馬に、荷が勝ちすぎた」ケースでしょうか。


愛されなかった犬は、この世を恐れてよく吠える。
見かけの強さを欲する。

「愛」を知らないからこそ、「力」にあこがれてしまう。
この理屈は単純でしょ?


見かけだけの、分かりやすいものに、惹かれてしまう、という、その意味は
みんな、だれしも、よく分かることだ。

心が不安でいっぱいだったら誰でもそうなる。

高市早苗が人生を通して、幼い頃からずっと抱きつづけてきた大きな不安に焦点を当てずして、解決することは何もないだろう。

「もし、一切の怖れが無かったなら、あなたの願いは何?」

高市早苗に、聞いてみないと。




愛とは何?

何よりも、彼女が国民の声を聴く、という姿勢になるのは、

周りからの愛を、自分が愛されていることを、
きちんと理解してから、だと思う。



高市早苗さんの政治的な思い(思考の癖)を覆させるのは、おそらく無理でしょう。

高市さんの頭の中の、ことなので。

しかし、もともと同じ人間。
お互いを理解しあうことで、お互い「人の心」を、「人の心」にもどすのは、案外、できる話かもしれない。




みんなで、おいしい果物を贈ろう。自民党に贈ろう。

高市早苗さんに贈ろう。

そんな気分になった、選挙間近の夜。

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ついカッとなって、〇〇しちゃった、という表現

よく聞く、「つい、カッとなって」、というやつ。

こんなの、よく表現できたなあ、と感心してたら、ハッと気づいた。

これ、自分で考えた表現じゃないわ。どっかで、読んだり、聞いたりしてるわ。





ためしに、身近な人間に、

「ねえねえ、ついカッとなって、〇〇しちゃった、という表現あるでしょう?」

と聞いて回った。

「その表現って、言うことある?これまで、言ったことある?」

すると、みんな、

「あるよ」

と言う。



そこで、

「その、ついカッとなって〇〇しちゃう、みたいな文章って、自分で考えたの?」

と聞くと、

「いいや。どっかで聞いたり、読んだりしたのだと思う」




つまり、この、

「つい、カッとなって、〇〇しちゃう」

という文章表現って、どこの誰が考えたかしらんけど、

長きにわたって、日本の中で、ずいぶん流行し、使われてきた、ということらしい。

流行語大賞がとれる!


これ、表現、とか言い方、という問題ではないな。

頭に来たときの感情の処理の方法なんだ。

頭にきたら、何かに当たる、というの。

「そうするものだ」と、刷り込んでる。

その「刷り込み」が、具体的に、後々の世代へと、

きちんと受け継がれて行っている、ということ。

まさに、『言霊(ことだま)』、と言っていいレベルで。



つい、カッとなったら、数える、という人はあまりいない。

というのは、日本語ではまだ、

「この間、ついカッとなってしまって、数を数えたよ」

という文章表現が、人々の人口に膾炙してないからだ。



一度、日本人全員で、流行させてみたらいいと思うね。

別なパターンを。

カッとなったら、

数える、とか、散歩する、とか、甘いもの食べる、とか。

そしたら、

「ついカッとして、〇〇しちゃった」というのが、ふつうである、
と思い込んでいたところに、ちょっとした変化が起きる・・・かも。




我々は、ふだん使われてきた日常のフレーズから、

言霊にあやつられるようにして、

「これが当たり前だ」 「これが男(女)らしいのだ」 「これがあるべき姿だ」 というように、

これが正しい、とされる感情表出と感情処理の仕方を、学んできているようだ。


いったん、そこをぶちこわすのが、これからの道徳教育、ということになっていくだろうネ。

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兵隊をいかに「殺人集団」に仕立て上げていくか~緊急事態条項~

兵隊をいかに「殺人集団」に仕立て上げていくか、という文章を
読んだことがある。


米軍の心理カウンセラーが書いた本。

ポイントは、

なにも考えさせないこと。

やれ!

と言われたら、

ハイ!

と、すぐに大声で、返事をし、身体を即座に動かせるように訓練するそうだ。

これを、徹底的に繰り返す。


機械的に、反射的に、とっさに何も思考せず、余計なことを思わず、

すぐに身体が反応できるようにしていくことで、殺人が可能になる。

「殺せ!」
「ハイ!」




なんで、そんなことを思い出したかというと、

ふだんはちっとも本など一切読まないのに、

小学校で英語が始まるので、準備するため、

なにかヒントになる本がないだろか、と久しぶりに本屋に行ったら、

「男20代にしておくべきこと」
「男30代、やっておかないと後悔すること」
「老いてもなお男の美学を」
「人の上に立つ成功戦略」
「勝つための男のコミュニケーション」
「歴代武将に学ぶ人生設計」

という感じの本が、大量に並んでいたからです。


え、こんな本があるの!?


とびっくりしながら、おっかなびっくり手に取って、最初の方をパラパラとめくると、

なんとまあ、どれもこれも、この手の本は、すべて

命令調

なのであった。

「できる男になりたきゃ、〇〇しろ」

という感じ。



マゾ様仕様にも程がある!!


これを読んだ読者は、命令ばかりされるんで、

余計に、劣等感が増していくんじゃないの?

と、ちょっと不安になった。



命令されて、それを受け入れる、というパターンで、

戦争が始まったと考えると、

「共にさぐる」

「いっしょに考えていく」

「考えていく仲間になりあう」

というのでは、戦争は無理なんだろうね。


単純に、

えらい人が 命令をして それを受け入れる

という文化がなければ、やはり人を殺す現場では、役に立たないのだろう。

そもそも、自分の命を捧げたくなるほど、えらい人がいないといけない。



まずは、本屋に並んでいる、こういった命令調の、

「男はこうしろ!」

という文体の本を、読まなければならないほどに、

あるいは、読んだ結果、「そのとおりにしなければならない」というくらいに

追いつめられた男を、社会的に『生み出さない』ことが大事だ。




フーテンの寅さんのような男が、

「男はつらいよ」

と言えるのが、日本のよいところ。



「やれ!」

と言われたら、

「ハイ!」

と言う代わりに、隣のタコ社長をみながら、

「そんな必要、あるのかねえ」
「やりたかあ、ねえよ、そんなさ、人を殺めるなんてコワイことをねえ!」
「女子どもってのは、いじめるものじゃないよ、助けてかわいがるものでしょう、ねえ」
「政府のえらい人が、人を殺せ、殺せって、そんなの、いいのかねえ」
「男はつらいよ!」

というのが、いいんじゃないの。

その方が、日本人には合ってる気がするな。

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教師が感じる「困った親」とは

子どもは、友達に対して素直な気持ちでの「ありがとう」や「ごめんなさい」が言えるのであれば、良い人間関係を築くことができる。

ところが憎しみの塊のような少年がいる。
どの教員も「目つきがちょっと」と言う。
親は学校での様子を聞くと、だまって下を向く。
父親は「母親がきつくて。この子と母親が毎日けんかしている状態」と家の様子を話してくれた。

クラリネットを習っている。
その他に英会話、テニス、水泳、とほぼ毎日休みなしだ。
できない子を馬鹿にする。
俺はできるが、みんなはできない。だから俺が偉いのだ、という感じ。
担任に言わせると、人を責めるときの態度や声量がものすごく、周囲の子どもたちは「引いている」という。私も関わってみたが、やはり行動が一匹狼っぽく、周囲に断りもなく自分の思うがままにどんどんと行動する。教室に置いてある様々なモノを、自分勝手に置き換えてしまう。鉛筆削りの置き場所やエレクトーンの場所も勝手に変えようとしていた。

かと思うと、授業中にいきなり窓を開けたこともある。
私がちょうど授業を見ていたときで、担任の先生も子どもたちもみんな何もおかまいなく、無視している。アドラーのかかわり方として、「無視する」というのも大事なスルーのテクニックなので、そういうことも担任は考えているらしい。望まない行動にはあえて強く反応しない。

ところが窓からけっこうな風が吹いてきて、机の上のプリントを何枚も落としてしまう。
しかし、その子はキツイ表情でみんなを見て、「紙をそんなところに置くからだよ。換気が大事だっていったのは先生でしょ!」と先生をなじりはじめた。
他の子たちは恐れをなして、何も言わない。先生も慣れた調子で「はいはい。換気なのね」

どうも、表情がきついのは、常になにか得体のしれないものと、戦っているようにも見える。
心境がつねに、「ファイト」モード、戦闘モードなのだろう。自己防衛の心理だろうか。

以上のことだけでは、とうてい診断などつくはずもないのだが、ここでパーソナリティ障害、という精神保健医療の分野の言葉を紹介する。
パーソナリティ障害

表面上は口達者
利己的・自己中心的
自慢話をする
自分の非を認めない
結果至上主義
平然と嘘をつく
共感ができない
他人を操ろうとする
良心の欠如
刺激を求める

この障害は、認知(ものの捉え方や考え方)、感情のコントロール、対人関係といった種々の精神機能の偏りから生じるものである。「性格が悪いこと」を意味するものではまったくない。
パーソナリティ障害には、他の精神疾患を引き起こす性質がある。それらの精神疾患が前面に出ることが多いことから、パーソナリティ障害は、背後から悪影響を及ぼす黒幕のような障害とも言える。
治療を進めるためには、患者と治療スタッフとが協力して問題を認識し、対策を検討することが重要であり、この障害は経過中に大きく変化することや治療によって改善する可能性が高いことが、最近の研究で示されている。

上記の少年は、いかにも口達者である。口喧嘩なら大人でも負けてしまうほどだろうと思う。
また、常に自分が思うさまに物事を動かしたい、世論を操作したい、という欲望をかなり強くもっている。クラスのいじめにつながるような、他の子を否定する言葉を何度もしつこく使う。周囲の子がそれをかばうと、該当の児童がいかに「みんなに迷惑をかけているか」をとうとうと話し、正義は自分が持っている、と主張する。

担任の先生は女性だが、ほとほとこの子に手を焼いているようで、おうちの方とも何度も連絡をとろうとしていた。

実は3年ほど前か、わたしも似たような児童を担任したことがある。
つまり、一定数の割合で、このようなパーソナリティを現在持っている、という児童はいるのだ。だからかなり多くの先生たちが、こういうことで悩んできているのではないか、と思う。

上手な先生はほめたり筋を通して叱ったり、ということ、あるいはその子の得意なものを見つけ、十分に活躍させてあげることで、クラスの輪が乱れないようにとその子への配慮を行っているでありましょう。クラスはそういう担任の工夫でおそらく「なんとかなる」から、良いのであります。

今回、わたしが書いていきたいのは、クラスのこういう子は、どうやって「自尊心を高められるだろうか」ということです。
他を罰する言動が強烈な子は、ほぼ例外なく、自分に自信がありません。つまり、他を罰するのと同じように、自分を罰しているのです。つねに頭の中に「ぼくはダメだ」という言葉があり(周囲にはけっしてそのようなそぶりは見せません)、その言葉を打ち消したいがために、対象を周囲の他の人に向けるのです。自分を高めるのでなく、自分の価値がどうしても低く思えるために、他をけなすのですね。

子どもの教育は、親の在り方と切り離すことができないが、残念ながら現在の学校は、「困ったなあ」とほとほと、その点で悩んでいるのであります。

教師が感じる「困った親」とは何か。

・他罰的で攻撃的な親(自己防衛)
・防衛的でまくしたてる親(自己防衛)
・勝手な思い込みが強く、事実をもとに考えるということをしない親
・「ひろゆき」のように相手を論破して勝つことが目的の親
・教師とのかかわりを一切もとうとしない親


こんなところであろうか。

実は、上記の子の親と、私は学年主任の立場から、会って話してみた。そうすると、実は「困った言動」には、それなりの理由があるのですね。こういうことは実に多い。
一般的にも、次のような状況は非常によくある。

1)ゆとりのなさ

金銭的なゆとりがない
夫と妻との間がぎくしゃくしている

子どもの話から少し離れて、お母さんやお父さんの子ども時代の宿題のことや遊びのこと、親とのかかわりなどについて話をきくにつれて、周辺の情報、つまり子ども当人でなく、親自身の話をしてくださることもある。そうすると、ちょっと「子育て」が俯瞰できる瞬間があります。

2)子どもの様子をつかんでいない

子どもが何を期待していて、何ができないでいるか、友達とはどのような関係なのか、さっぱりつかんでいない親もいます。高学年になるにつれて多いですが、なかなか話してくれなくなるので、これはもうどの親にも共通なのかもしれません。しかし、本当になにも知ろうともせず、季節の行事にも持ち物にも何にも関心がないように思える親もいて、会話が本当にないのだろうなあ、と伺えます。

3)子どもにパーソナリティ障害があり、子どもに接すること自体の問題が大きい

上記の子もそうでしたが、他罰的な言動ばかりなので兄弟でもお互いに共感することもなく、相手を責めあうのが常なので、親が消耗している場合があります。せっかく行ったディズニーランドも、車中でも園内でも兄弟がけんかばかりで父親も怒り出し、母親が「わたしは子育てを楽しめていない」と嗚咽交じりに話し始めたこともあります。


わたしは、親がいちばん困っているのだ、と確信しています。
親のこころのエネルギーが、まったく充電されないのでしょう。その理由はさまざまありましょうが、行政や経済的な事情も含めると、国家規模の課題にもなっているようにも思えます。つまり日本国民であればだれしもが、同じように「立派にこころや気持ちの充電がされた親」にはなりにくいという環境があるのだとも思います。

学校や教師は、その親が元気にならねば、その子の指導がまた遠回りに、遠回りになることがわかっています。だから、親を元気にしようとする。学校での懇談は、「教師が親にこころのエネルギーを与える場」です。そのときの原則は、

親をぜったいに責めない。
ひとりではない、子育ては協力するもの、とメッセージが伝わっていくようにする。
問い詰めたり、決めつけたりはもってのほか。


親が、近所のだれそれや、友達に相談できているのであれば、実は問題は深刻ではない。
一番深刻なのは、本当に孤独に子育てをする状況になってしまった親だ。
なんとか元気づけていかねばならない。

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足つぼマッサージで水を浴びるほど飲む

ふと思い立って、足つぼマッサージという店に入った。
夜中によく、足が冷えて眠れないことがある。
足つぼを押せば、まるでマグマのごとく足が温まり、ぬくぬくと安眠できるのではと思いついた。

地元の市の名称と、足つぼマッサージ、という単語で検索し、いちばん近い店を予約した。
足つぼ、という単語は、なんとなく蛸壺(たこつぼ)を思い起こさせる。
わたしは店に行く途中、たこの吸盤のようなものが、足にへばりついて、血流をうながす装置を想像したりした。

「それはいやだ」
すぐに妄想をふり払う。

店に入る前に、どんな服装で行くべきかを迷った。
おそらく着替えなどがあるのだろう。
散々迷った挙げ句、ごく普通のユニクロ上下になった。もっとも日本人らしい姿だ。

さて、たこつぼマッサージの店に行くと、店の方が大きなスキャナーのようなものを用意し、

「足を調査します」

と私の足の裏をスキャンした。
これで、体重の乗っていない部分を特定しようというのだ。

すると、わたしはほぼ足の外側に体重があること、そして指に体重が乗っていない、いわゆる「浮き指」という状態だということがわかった。

これは、指が生きていない状態であり、指に体重をのせないくせがついているんだろう、と教えてもらう。

「指が動いてないので、ふくらはぎの筋肉も使われない可能性が高いです」

どうやら、足の指を使うことと、足の土踏まずのアーチの形成は関係があるようだ。そして、足の土踏まずのアーチがしっかりと形成されていると、ふくらはぎが使われ、そこに筋肉が付くとともに、足の冷えが解消されるのだという。

その方は、その後、足の裏を痛いほどに指圧?してくれた。
足の裏が、ぐりぐりと悲鳴をあげていた。
しかし、帰る頃には、なぜかしらないけれど、非常に足がスッキリしている。
不思議であった。

あるき方も、コツがあるらしい。
ふくらはぎを使うようにしてあるきましょう、と言われた。
ンなことを聞いても、よくわからないが、翌日、学校の長い廊下を歩いていると、ちょっと会得したあるきかたがあった。
それは、踏み出した先の足を、かかとからつく、というあるきカタであります。
これをすると、一瞬だけど、ふくらはぎが伸びる体感があった。
それで、一日歩いてみると、なにかふくらはぎが「妙に疲れている」感じがする。
その代わり、いつものような「重だるさ」とはちがって、運動したあとのような感じがあった。

また、面白かったのは、足つぼマッサージをする間、水を飲め、とさかんに勧められたこと。
水がベッドの横にあって、それをとことん飲むように言われて、飲んでいた。
お店でトイレに行きたくなるほどに飲んだが、それがすごく大事なのだとお店の人は言った。

「ともかく、水が飲めていない人が多くてネ。水飲んでるだけでも、血行がよくなる人多いですよ」

わたしはその夜、2回もトイレに行ったが、翌朝に体調が妙に良かったのを付け加えたい。

みなさん、水を飲みましょう。(といっても飲み過ぎちゃだめらしいので、ほんのちょっと増やす程度がいちばん良いらしい)

下の写真は、なんか海におっこってたモノについて、調査する人たちの図。
すごく面白い写真で、わたしはこの写真を1時間ほど眺めて、ここから始まるSFを考えたが、あと5年ほどしたら発表してみたい。
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