30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2022年10月

SDGsでトイレのことを考える

総合の時間に、SDGsについて学習を進めている。
17個ある目標のうち、1つめの「貧困」についてからはじまり、17つめの「パートナーシップで・・・」に至るまで、少しずつ子どもたちは意味や目的、具体的な取り組みなどを学習している。

目標の6番目に

「安全な水とトイレを世界中に」

というのがある。

最初に出し合った疑問で、これが話題になった。
ユニセフのパンフレットをみると、「トイレのない人は地球上に6億人以上」と書いてある。
なんでトイレなの?トイレはあるでしょう、ふつう・・・と、子どもたちは考えた。
まさかトイレが『ない』なんて、イメージできなかったわけだ。

そこで、トイレを調べ始めております。
今年から各学級に配備されたIT端末が役に立つ。ありがたいねえ。
わたしの勤務校では「Chromebook」が一人一台、用意されている。
調べ始めると・・・

DIFAR という団体が見つかった。
エコサントイレ、というものをつくり、地域に広めているらしい。
おまけに始めたのは瀧本里子さんという日本人。
青年海外協力隊員でボリビアに渡り、そこで娘のように家族のように接してもらったことからボリビアに恩返しをする形で野菜作り、健康福祉の提案、トイレ事業などを始めたようだ。

現地にトイレがないことはDIFARのホームページからも伝わってきた。
ニュースレターにはそのことが現地の日記のように、里子さん自身の言葉で書いてあり、非常に伝わってくるものがある。

クラスでこのことに興味をもち、自分の卒業論文で扱いたい、と言う子が増えてきた。
しかし、ちょっと資料が足りない。

「トイレをつくって、その後どう生活が改善したのだろうか」

という肝心なことが、くわしく書いていない。

「質問してみたいがどうか」

ということが話合われた。


このあたりは、現代っ子だなあ、と感心しますね。
今ではボリビアに住んでいる人にメールで質問ができる。
瀧本里子さんという方がどんな方かわからないが、質問出すだけ出してみよう、ということになった。

わたしはもちろん

「返事がくるとは限らないよ」

という確認を全員としておいた。
5年生の時も、なぜ広島でりんごをつくっているのか、と尋ねるメールをさまざまな果樹園に対して出したが、返事はほとんどこなかった。

丁寧に返事をいただいたのは、唯一、三次市で観光農園をされている、平田観光農園の平田さんだけであった。今でも感謝しております。(平田さんありがとうございました。おかげで「標高」とか「適温」という、果樹農家の大事な視点を子どもたちは学ぶことができました。)
(※平田観光農園へのリンク)


というわけで、きっとお忙しいと思われるボリビアの瀧本里子さん(DIFARというNPO団体)からお返事が来るとは限らないが、ダメ元で出してみようということになった。
学習の体験としてはメールを出すことも大事な過程だろうし、メールの文面を考えることも大事なことだろうと思ったので、子どもたちとその活動を進めることにした。

以下がその手紙であります。
1)なぜ、里子さんはボリビアという国を選んだのですか。

2)ボリビアの飲み水は、どんなふうに得ているのでしょうか。川の水や雨水などでしょうか?

3)里子さんは世界でも最貧国の一つといわれるボリビアに行き、貧困の対策として最初は野菜づくりについて指導されていたのですが、貧困の解決の前にトイレの問題を解決しなければならないことに気づき、トイレを建設されることをはじめました。なぜ、貧困の解決の前に、トイレの建設が大事だったのでしょうか。

4)実際に里子さんたちがトイレを建設し、みなさんが使うようになって感染症は少なくなってきたのでしょうか。

5)トイレをつくりつづけた時期がすぎ、今は目標を達成して次のステップに進んでいるDIFARや里子さんたちですが、トイレの良さを学んだ現地の方たちは、もしかしたらその後、トイレを自分たちでも増やしたり、作ったりすることをはじめているのでしょうか。もしそうならトイレは増え始めていると思うのですが、どうでしょうか。

6)最初、現地では、トイレをつくるよりも電機や自動車がほしい、と考えるような人の方が多かった、というのをホームページの記事で読みました。しかし、里子さんたちはあきらめずにトイレをたくさんつくりました。でもその場合、「トイレは要らない」と考える人たちの考えを、変えていかなければならなかったのではないでしょうか。要らない、と答える人たちが、「ぜひほしい」と気持ちを変えた瞬間、どんなことがあったのでしょう。なぜ住民の方たちは納得して、「トイレをつくろう」と考えてくれるように変わったのですか。

7)ボリビアで里子さんが暮らしていこうと決めたのは本当に大きな決断だったと思いますが、どうしてそのような大きな決断をすることができたのでしょう。なかなかそんなふうに自分の人生を、生涯をボリビアのためにささげよう、と考える人は少ないのではないでしょうか。里子さんはどうしてそんなふうに考えることができたのでしょうか。

8)ボリビアの暮らしをはじめるころ、苦労したことというのはどんなことでしたか。

さて、どうなるか。

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武器を持っているほうが果たして生き残るのか、という問題

永井隆という方が、なくなる前に自分の子に対してメッセージを書いた。
長崎医科大学で被爆して重傷を負いながら、医師として被災者の救護に奔走した方である。

「武器を持っているほうが果たして生き残るだろうか。
オオカミは鋭い牙を持っている。
それだから人間に滅ぼされてしまった。
ところが鳩は何一つ武器を持っていない。
そして今に至るまで人間に愛されて、たくさん残って空を飛んでいる」

たしかに、武器を持ったから、腕力を誇示できるから、最後には笑っていられるかというと、そうではない。

武器を持って、それで人を刺せるだろうか。
それで、人を撃てるだろうか。
わたしにはぜったいにそれはできない。

今、わたしが刺そうとしているその人は、わたしと同じであり、わたしと同じく、霊峰の向こうからのぞく朝日を拝む人だ。
今、わたしが撃とうとしているその人は、わたしと同じく、子どもの寝顔をみて微笑む人だ。
わたしと同じく、のどを潤して、安堵する人だ。
わたしたちは、はたして、その人を殺せ、と命令されて、できるだろうか。

政治家は、なぜ平気な顔をして、「軍備、軍備」と叫ぶのだろう。
「こちらから攻撃しないと、殺られる」と叫ぶ人の顔を、よくよく見てみよう。
攻撃しようと歯を剥き出すから、攻撃されるのだろう。
人の気持ちを、人の気持ちの動きを、よく考えたことがないのだろう。

じっくりと考えてみたら、きっと誰にも理解できる道。
おそらく、その「じっくり考える時間と場所」が、われわれには与えられていない。

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味の違いについて

たまごは厳密に言うと、1つ1つで味が異なる。
しかし、多くの人は「まあそうはいっても、似たような味だわな」と思って過ごしている。

鶏肉はどうだろうか。
味は、鶏によって味がちがう。たとえ似たような料理法で調理したものであってもだ。
しかし、多くの人はそうはいっても・・・、と思うだろう。つまり、「似たような味」だと思って日々を生きている。わたしもそうだ。

一度、これは味がちがうから、と言われて食べた「鶏のモモステーキ」は、たしかにちがった。なんと表現してよいか分からないが、「味がちがう」ことと、「おいしい」ということが実感だった。

「おなじ鶏肉でも、こんなにちがうのか。だったら、自分の中の鶏肉の味はこういうもの、という常識は、消し去った方がよいだろうな。だってこんなにちがうもの」

わたしはその後、となる成り行きから、食道楽になった。パンでも焼きたてがもっとも美味いのは常識だろうが、朝採りたての野菜はまた格別である。朝、畑から引っこ抜いてきた青梗菜が甘いことや、トマトでも畑でかぶりついたのが一番美味いことも、その後の人生経験でわかってきた。
しぼりたての牛乳は、「これが牛乳なのか」と疑うような味がするし、紙パックに詰めた牛乳と瓶の牛乳、そして乳缶に入れたばかりの牛乳ではまったく風味が異なってくる。
つまり、人間にとって『常に味というのは千差万別』なのではないか、と思うようになった。

みそも、しょうゆも、同様だ。
厳密にいえば1瓶ごとに、味がちがうだろう。味噌だって醤油だって、同じ樽の中でも、ふたに近い部分のみそと、樽の底にあった部分とでは、多少熟成の程度に差があるのだろうし・・・
つまり、味と言うのは、千差万別である。だからこそ、われわれは、そのちがいを楽しむことができる。

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ポコペンの日本全国散布図と伝承について~諸説あります~

「ポコペン」をご存じでしょうか。
缶蹴りの亜種です。
ポコペンは、缶を使いません。でも、缶蹴りのような、ごく近いルールの遊びです。

わたしは友達との関係性をこれでかなり磨いたので、思い入れがあります。
一番は、仲間と通じる心地よさ、敵を欺く心地よさ、でしょうか。
そして、仲間を救うためにあえて犠牲になることの面白さを知りました。
Sくん、きみをぜったいに救うから頼む、今この瞬間だけは芝居を打ってくれ、と頼むような祈るような気持ちを味わいました。
同時に思い出すのは、

「ああ、敵に知られずに壁の向こう側に隠れているあいつと連絡をとりたい」という気持ち。

これは、当時は怪人二十面相の「少年探偵団」が持っていたトランシーバーがあれば実現できましたから、おもちゃ屋さんで「トランシーバーもどき」が売っていたときは、あこがれました。
(もどきでしたから、20m離れたらもう使えない)

さて、うちの教室の話です。
クラスの子どもたちが、外でおにごっこをするのですが、やる子とやらない子に分かれていました。
やらない子は、サッカーもやらないし、散歩もしない。
教室でストレス発散できずにいる感じ。

そこで、なにげなしに「おにごっこやってきたら?仲間に入れてもらえば?」と、ちょっと様子見でなげかけてみると、想像していた反応どおりで、案の定、
「だって足が遅いからねらわれておもしろくない」
とのこと。

みんなが教室に戻ってきてから、

「おにごっこのルールをちょっとだけ変えてみるとかどう?」

と言うと、前のクラスではそれで話し合いがはじまったものでしたが、なんかうまく進まない。

そこで、わたしがルールを変える提案をいくつかしてみたものの、なんだかそれでは面白くなさそうというか、「大人がつまんないことを言い出してる」雰囲気も出てきたので早々にヤメ。

「あ、じゃあおにごっこ以外はどう?」

というと、それもアイデアがないようで、なにするの?という雰囲気。
お前たち、本当に小学生かよ、というのが現代なのであります。

そこで、時代はSDGsですし(←意味不明)、いろいろと伝統的な遊びを教えました。

「ポコペンでしょ、Sケンでしょ、メロンに『くつとり』メロン、回転焼き、6ムシ、ほかにも・・・」

まったく知らない。
昭和の遊びは、絶滅しております。

というか、わたしは名古屋で育ったために、遊びが偏っている。東京ではないために、全国区ではない。ですから、正直、恥ずかしくてなりません。こんなローカルな遊びに魂をうばわれて、毎日飽きもせずに繰り返して遊んでいたなんて・・・
ちなみに、すべて上記のあそびはすべてローカルルールで完成されております。

ポコペンを知ってる?というと、子どもがそれをやってみんなで遊ぼう、という。
だから、一度、みんなでポコペンをやりました。

♪ぽこぺん、ぽこぺん、いま、だーれがつーついた、ぽーこぺん!

感涙というのでしょうか、40数年前にわたしが実際に歌った唄が、くちをついて、自分の口から出てきたとき、この令和の空気の中にそれが蘇り、かじかの里にそれが響いたとき、わたしは思わず絶句して、嗚咽しそうになりましたぜ。

子どもたちもすぐに覚えて、それをいっしょに唄ってくれました。
そして、わたしが鬼をやると、大いに盛り上がったのです。

わたしが校庭の隅を全速で駆けながら、「〇〇くんポコペン!」と柱を叩くと、わたしはいつしか、40数年の時をさかのぼり、小学生にもどっておりました。

大いに楽しんだあと、靴をはきかえている靴箱の場所で、子どもが「先生、めっちゃおもしろい遊びをおしえてくれて、ありがとう!」というのをきき、また私は感涙しました。

まだあるんですけど

この話を同僚の先生にすると、まさかの回答。
「わたし、ぽこぺん知ってますよ」

その先生は、山梨の学校で知ったそうです。
また別の先生は長野市の小学校で、やはりポコペンといい、今なおまだ現役の遊びであることを教えてくれました。

調子に乗って職員室中の先生に訪ねて回ると、やはり中部地方全般にあった遊びのようで、富山にも似たような遊びがあったとのこと。富山ではポコペンではなく、ぺこぽこ、だったとも。
また、愛媛県出身の先生が、やはりポコペンだったような気がするとのこと。

東京でもあったようですが、どうやら中部地方出身者が東京で伝えたものらしいです。
「東京でもやった」と言ってた先生は、子どものときに引っ越しで東京の別の地域に行った際、みんな知ってるだろうと思ってポコペンを誘ったところ、「そんなもん知らん」と言われて断念した思い出も語ってくれました。つまり、中部出身者が少数ながらそれを伝承者となって一部の地域に少しだけ流布させたものらしいですな。
また、東京では遊びの名前が「ペコ・ポコ」であり、不二家のキャラクターのことを指していたものらしく、唄も、「ぺこちゃん、ぽこちゃん、最後につついたの、だあれ」だったようです。

わたしは当時、不二家のキャラクターなんぞまったく念頭になかったので、少なくとも名古屋界隈では、「ポコペン」というフレーズで一大勢力を築いていたようです。

老いた母にこの件を聞いてみようと思い、ひさしぶりに電話すると、
「ぽこぺん?知ってるよ。缶蹴りみたいなのでしょう」
と、ちっともボケ知らずの回答。
そこで初めて分かったのは、どうやら太平洋戦争の時にはもうすでにあったらしく、母が子どもの時代にもすでにあったらしい。
「わたしらもようやりよったよ」
「あ、そう。ちゃんと歌もあった?」
「ああ、なんだっけかな、ぽーこぺん、ぽーこぺん、だれつついた、だれつっついた・・・」

どうやら太平洋戦争末期ごろ、戦後すぐの食べ物がなかった時代は、唄もちょいとちがったようです。節回しもなんだか冗長で、やはり時代のテンポというのがあるのでしょうか。ゆっくりです。

で、肝心なことを母に聞きました。貴重なポコペンの生きる伝承者、という位置づけで。

「お母さん、なんでポコペンというんか、知ってる?」
「缶がペコッとへこんだんちがう?」

ずこーッ!

「なんで缶が関係するわけ。缶使わないでしょう。ぽこぺんと缶は関係ないじゃないの」

とわたしが言うと、齢80になる貴重な資料はこう言いました。

「使うよ。ポコペンは缶をふんづけてたもの」

どっひゃー

見つけたら鬼は缶を踏んで「ぽこぺん!」って言うんですって。
あと、最初はかごめかごめみたいに、手で目を覆った鬼のまわりを手をつないでみんなで謡いながら回ったんですって。それで背中もつついたんですって。それ本当?記憶が混じってない?

この話は、これでおしまいです。

⇩写真は、もぐたん。

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