30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2022年09月

アレルギー検査について(オオアワガエリとカモガヤ)

この夏、アレルギー検査をしたところ、スギとオオアワガエリとカモガヤの3つに反応することが分かった。特に値が大きいのがスギとオオアワガエリでありました。

私はもともと、20代のころから花粉症を発症していた。
花粉症があまりにもひどく、大学病院でかなり真剣に相談したところ、担当の先生が
「血液検査でぜんぶしらべましょう!」とのこと。
検査をして驚いた。その時はほとんどの項目に陽性と出たのだ。

「食べ物以外、花粉関係はほとんど、軒並みですね」

私は自分がアレルギー体質であることを知った。
当時は神奈川県に勤務しており、学校の近くに巨大な幹線道路があって空気が悪かった。
冬になるとどうもセキが出てとまらず、医者に通って「咳喘息」と診断されたこともあった。その先生は、アレルギーでしょうな、と上記の検査結果をみて言った。

さて、その後わたしは空気のきれいな田舎の街に引っ越したところ、その喘息っぽい症状はほとんど無くなった。空気と水がきれいだ、というのは、大きなことだなあ、と実感できた。

50歳になり、再度検査をする気になった。
症状はひどくないものの、自分の体をとことん知っておきたい、という、どちらかというと知的関心によって、検査をしたくなったのである。

すると、オオアワガエリ、というものが最大値になっていた。

オオアワガエリ


全部で6レベルなのだが、オオアワガエリが3で、スギとカモガヤが2であった。

意外だったのは、ヒノキがなかったことだ。
わたしは自分がヒノキアレルギーだと思い込んでいて、薬を多少長めに飲んで春先をすごしていたが、その行為は無駄であった。

さて、オオアワガエリは5月から8月までの時期、花粉を飛ばすらしい。
なんとなく6月ごろに調子が悪く、スギ花粉にしてはおかしいから、ヒノキがつづいているのかなあ、と不思議に思っていたが、どうやら正体はオオアワガエリだったようだ。
あとはカモガヤ。オオアワガエリと同じ時期なので、やはり体調の自覚と一致する。

これからは5月のゴールデンウイークから6月にかけて、用心することにしよう。

スギとカモガヤ

カルトの問題

さて、わたしは今、カルト問題に関心が強く、この夏はいてもたってもいられないほどであった。

自分の受け取った印象を事実だととらえることは日常にあり、いちいち「事実とは何か」とさぐりさぐり進む人はめったにいない。

カルトについて考えるうえで、もっとも懸念されるのは、「信じる」ことである。
「信じる」という言葉もかなり意味の幅が広く、限定していかないと現代では話はひとつもできないと思う。運動会で1番をとる、と息巻いている子に、「信じているよ」と声をかけて励ますときの「信じる」と、マザームーンの超能力を「信じる」は、同じ意味としてとらえてはいけない。区別して、別の言葉に言い換えをしないと、本当にこのことを吟味することができない。

もう一つ、懸念していることがある。
あの世の存在についてである。
少し昔話を。
統一教会の信者はかつての大学にもいて、私はわりと親しい友達にもなったことがある。
なぜなら彼はなかなかのコーヒー通で、わたしにタダで、「これはなかなかお高い珈琲なのだが、新間には飲ませてやろう」と、かなりもったいぶって飲ませてくれたからだ。

さて、彼はあの世の先祖たちと自身のために、献金をしていた。
バイトに励みながら、かなりの金を献金したと聞いている。
彼に一度だけ、本当に一度だけ、(興味を持ったと思われないように)聞いてみたことがある。
すると、彼はまっとうな顔つきで、不幸には先祖の因縁がある、だから因縁転換をしなければならんのだ。と言った。

実際に、彼の妹は病弱で心臓に病をかかえており、母親も病弱なのだった。
それは彼によると、先祖に関係がある、だから俺ががんばる、ということであった。

彼の頭の中には、
1)あの世はある
2)先祖の怨念というものがある
3)その怨念は今の自分に影響する
4)怨念は今の自分に不幸をふりそそぐ
5)妹が病弱なのはその怨念がそうしたのである
6)母親の病気もその怨念がそうしたのである
7)献金をするとその怨念は晴れていく
8)その献金額はまだ不足しているために自分が払わねばならない

というように、少し考えただけでも8つの層(レイヤー)がある。
ひとによって、どこまで信じるか、ちがっている。
1)だけは信じる、という人。
1)と2)を信じる人。
1)から3)までを信じる人。
アンケートをとったら、おれはここまでだな、とか、わたしは4)までだけど、5)はそう思わないな、という感じで、差があることがわかるだろう。

要するに人間は、8つすべて信じなくともかまわないわけだ。信じるレイヤーの数は7つでもいいし、6つでもいいし、1つでもいいのであり、どの層を信じてもかまわない。一つも信じないことだってできる。事実、世の中に生きる人間はこの8つの層(レイヤー)を一つも信じていない、という人が多数でありましょう。

あの世はある、という、最初の1番目から信じないけど、ということを簡単にわたしは彼に対して述べた。しかし彼はもうすっかり私を洗脳することはあきらめており、話題はコーヒーの味のことに移ったのであります。

さて、あの世はある、ということを信じるためには、A=Bである、と考えなくてはならないが、実際にはA=Aであります。A=Bではなく、A=Aなのであります。
実際のりんごの味と、わたしがとらえた脳内のりんごの味は、まったく別のものであります。
7e8acf2b-s
(☆と☆とは別)

あの世はある、と私が仮に考えたとしても、あの世が実際にあるかどうかとは、まったく別です。
それは、分からないのです。で、肝心なのは、

わからない、という状態でかまわないのであり、あの世はあるから→先祖の怨念というモノもあるであろう、とは考えてはいけないのです。それは、分からないのですから。レイヤーの1番も分からない、2番もわからない、3番もわからない、4番もわからない、層(レイヤー)すべて分からない。

もっと極端にいえば、もし私の頭がそれを信じたとしても、実際にあの世があるかは、分からないのです。献金をして、それで解怨ができるかどうかも、分からないのです。解怨ということがあるかどうかすら、分からない。あの世があるかどうか、わたしが確信したとしても、あなたが確信したとしても、マザームーンさんが確信したとしても、だれにも分からないのです。

カルトの問題は、信者のみならず地球上の一人ひとりが向き合わなくてはいけない問題だ。
教師としては、子どもたちにどんな授業をすればいいのか、と思う。
事実を事実だとする、ということですら、子どもたちと共に学ぶ時間を確保するのは非常に困難である。とくに高学年になればなるほど、「そんなひまないよ」という空気が濃厚になる。
どうすれば、そういうことを学べるのだろうか。
授業の組み立てを、考えていきたい。

わたしは、この、「たとえだれが確信したとしても、事実については分からない」ということについて、道徳の授業で教えるべきだと考えます。
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