30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2022年07月

カルト防止教育が一躍脚光を



わたしが約1年半前に記事にした「カルト防止教育」が、今こそ必要になってきたのかもしれない。
ここ何日か、ものすごい勢いでニュースになりつつあるのが、安倍元総理のことである。
安倍さんを撃ったとされる容疑者が「安倍元総理がカルト教団とつながりがあったと思い込んだ」と発言した(奈良県警提供の記事・情報)。
どうやらその【思い込み】が事実であったらしい。



こちらの番組で、その事実が明らかにされていた。
激震 旧統一教会と日本政治
問われる政治との距離感は
「教団票」で選挙支援“政界侵食”の原点は
今も続く被害…「先祖解怨」とは
植民地支配の恩讐も 文鮮明氏の対日観
旧統一教会は本当に保守的な宗教なのか


★ゲスト★
山口広(全国霊感商法対策弁護士連絡会代表世話人)
櫻井義秀(北海道大学大学院教授)
後藤謙次(ジャーナリスト)
パトリック・ハーラン

ここで報道されたのは、自民党とカルト教団との癒着であり、先祖があなたを許さない、という強い口調で人を脅し、金銭をとことんまきあげる詐欺行為で多くの裁判が発生している「統一協会」という団体が、今の自民党や安倍元総理とつよいつながりをもち、政治にかなりの影響を与えていたのではないか、というもの。

わたしには真実は分からないが、どうやらこのことの意味するものは大きい。
小学生から、【カルト防止教育】をはじめなければ!

信者をどう入信させたか、という過程が重要。
どうやら政治の中枢に切り込む方針だった旧統一協会は、

①ボランティアで選挙を手伝う。
②政治家の秘書に入り込む(ほぼボランティア)。
③選挙時の日常的な戸別訪問の過程で「国会議員事務所の人間」と言って信用させる。
④名簿をつくりセミナーに誘って入信させる。

などの工夫をしていたといいます。

また、霊感商法のトラブルの解決を支援していた弁護士の方によると、統一協会がよく使うフレーズに

先祖解怨(せんぞかいおん)=せんぞのうらみをとく

というものがあり、先祖のためにも入信しなさいというもの。
現世であなたが邪教にはまれば、先祖が報われない、先祖は助けてくれとあなたに言っている、先祖が合図をおくるとあなたを苦しめる、交通事故、愛情に恵まれない結婚、トラブル、そういうものにあなたがみまわれる、地獄に落ちた先祖があなたに合図を送っているのです、その先祖を苦しめないために、お金を積みなさい、というそうです。(山口弁護士による)

先祖と現世との「つながり」を納得させるそうです。

こういうもっともらしい話を聴き、信じる人もいる。
これは「信教の自由」の範疇を超えており、不安にさせ、脅して金を巻き上げる、という点では、詐欺でありましょう。

こうしたことを行うことで入信する政治家もおり、政治家は国民の公的な福利のために仕事をするのでなく、カルト教団のために政治をするようになっていくわけですね。

このことを小学生時代にきっちりと指導しなければ、多くの人が「カルトとはなにか、洗脳とは何か」を知らないまま人生を生きることになってしまう。小学校で指導しないといけないのです。
ちなみにカルトとは何か、裁判所で示されていまして、
①正体を隠して勧誘
②監禁して洗脳
③強制的集金義務
④内情について他言を禁じ世間には嘘をつく

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上記が札幌地方裁判所の平成24年3月29日の判決文を基準にしたもの。
それに、
⑤脱会を許さない
ということを付け加える識者の方もおられます。


この上記の項目だけでも、小学校の高学年~中学生~高校生くらいまで、教えることが必要でしょう。一昔前なら、大学へ行けばカルト洗脳について学べたらしいですが。

写真は、霊感商法で売りさばかれた3500万円の壺だそうで。
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安倍さんの事件

小学生の担任としては、今回の事件は残念でならない。
なぜなら子どもに対して、暴力を肯定することになるから。
「だって大人だって暴力に頼っているじゃないか」
こう考える子に対して、教師はひるんでしまう。

人間はどうやら、うまくいかなかったりなにか原因があり、手間のかかる道筋をたどることができなくなると、

「もうやめた」

と思ってしまう生き物らしい。
一つひとつ、他の意見と比較したりすりあわせたりと、民主主義の進み方は手間がかかる。
その手間がかかる、という一点にものすごい価値があり、だからこそ冷静になって暴力を避けることができるのだが、それを忘れて「自分の思い通りにことを運びたくなる」。
そこで、「だったらもういっそのこと暴力で」と考えてしまうようだ。

メディアが安倍批判をくりかえすから、それに影響された犯人が一線を越えて撃ってしまったのだ、という人もいる。(のちの報道で、それは事実ではなく特定の宗教団体への恨みから、ということがわかりまました)

ところがこの筋道はおかしくて、安倍批判ができるのであればむしろ暴力は抑えられます。
安倍批判ができなくなったので、「批判が無理ならいっそのこと暴力で」となったと考えるほうが筋道が通るでしょう。

安倍批判がしっかりできて、その批判や言説がきちんと取り上げられ、安倍さんの方もその批判に向き合ったことがよく分かるのであれば、もしくはそれに対する反論がきちんとした形で(あいまいな答弁や正対しない答弁だったのでなく)なされたのであれば、むしろテロは起きません。

ところがそうでなかった。
黒塗りだらけの資料、まともに答えない答弁(国会中継をみると非常によくわかります)、「仮定の話にはお答えをいたしません」という回避、資料の改ざん、法に定められた保管期間を無視してシュレッダーにかけてしまうというような証拠隠滅行動など、言論を馬鹿にするかのようなことが次々と起きたために、

「ああ、もう言論では無理なのかも・・・だったらいっそのこと暴力で」

と考えるような思考になってしまう人も、おそろしいことですがあるかもしれない。

議会制民主主義を人間が選択するようになった背景には、王という絶対権力者の横暴を避けるため、独裁という暴力を避けるため、どうしたら暴力で双方が滅亡する道をたどらずにすむか、ということを真剣に考えてきたという歴史がある。

日本の民主主義も、太平洋戦争という大きな代償を払って、ようやく「暴力以外」の選択肢をとることしかない、というふうに育ってきた。
ところがここで、戦後の努力をかなり減らしてしまうような暴力事件である。
犯人は「言論よりも暴力」という、戦前の軍事思想をわれわれに押し付けてしまった。

たしかに権力をにぎった政治家が暴走することはある。
権力側に居る人間がその権力をかさにきて好き放題してしまう、私利私欲に走ってしまう、ということがあるかもしれない。権力があればそういうこともできてしまうわけですが、それを言論がなんとか歯止めをかけることができた、それが戦後の民主主義国家の前提でした。

しかし、政権への自由な批判、内閣政府への自由な批判をひるませるような世の中の空気が醸成されてしまえば、これは「いくら言ってもだめだ、だったらもういっそのこと暴力で」と考える一定の人達を生むことになってしまう。

小学生の教室も、まったく同じ民主主義国家の中の学校であり、同様に言論が自由に行われ、それらが保証されていなければならないし、言論が保証されているからこそ、けんかをふせぐことができている。教師は、児童がなにを話してもいい、話す内容を保証し、その機会を与えなければならない。

頭ごなしの指導は、その言論を封鎖することになる。

土台、民主主義というのは根性も必要だし、ねばりも必要、自制心も必要、論理的な思考も必要であり、かなり難しい高度なことである。だが逆に言えば、これらを目指し、これらに準拠さえできていれば、最悪の事態は避けることができる。殺し合わずに済む。

大人も民主主義に慣れていない。民主主義が地球全体で機能するためには300年かかる、という人もいる。大人ですらそうなのに、子どもが中心となる教室はさぞかし難しいだろう、という人も多い。

しかし、大人がすぐにあきらめて「言えないのなら、いっそのこと暴力で」と考えるのにたいし、子どもは案外と「◯◯ちゃんといっしょに考えて相談したほうがいい」と考える。
それは世の中をそれほど諦めていないという点、すてきなことがたくさんあるという元来の肯定感、期待感、友達はやさしくしてくれるものだという信頼感など、大人にとっては忘れ去られた道徳を子どもはなぜか持っているからだ。

教師はそれがあるからこそ教室の秩序を保てていたのに、今回のような事件がおきたら、子どもを不安にさせ、その不安が子どもの本来の安心感を損なうことになるかもしれない。そこが残念だし心配だ。

かくなるうえは、子どもにたくさん気持ちを出してもらい、語ってもらうしかない。
ふだんから安心して話ができる教室、ふだんから安心して友達と遊んだり学んだりできる空間。

安心感、信頼感。
さいごに頼るのは、こういう人間の根幹にあるものに突き当たる。
これらはやはり、「政治家が口で言うことと実際に行うことの両方のうち、実際にやっていることをみる」という基本的な国民の姿勢があれば、みえてくるし、醸成されてくる。

勇ましい口ばかり、リップサービスばかり、希望的なイメージを語るだけの儲け話ばかり、ではだめ。
実際に弱い立場にすぐに落ちてしまう国民すべてを大切にする行動をとっているかどうか。
さあ、明日は投票だ。行こう。

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【暑気払い】夏の階段は怪談風に

夜遅く、真っ暗になってからの学校は、昼間よりもいくぶん怖くなる。
むだに広い空間、廊下はずっと向こうまでつづいているし、すべての電灯が消えると本当に漆黒の闇だ。廊下のはるか先の方をみると、その先は闇の中に溶け込むように消えている。

「ちょっと忘れ物とりに、行ってきます~」

職員室に残っているS先生とT先生。
もう職員室に2人しかいない。
お二人とも、無言でキーボードを打っている。
S先生がちらっとこちらをみて、「おお」と少しだけ反応してくれた。

廊下の電気をつけることはできる。でも、つけない。つけられない。
廊下の電気のスイッチを探すのが一苦労なのだ。探せないから、つけられない。
なにせ、すでに真っ黒の闇の中。壁がどこかも分からなくなってしまっている。
そう、学校という場所は、むだに廊下が広いのだ。

こんなとき、スマホが役に立つ。
スマホを片手に構えて、印籠のようにかざすのだ。
すると、スマホの画面の明るさで、ある程度の先が見通せる。
3mは見えるかな。その先は真っ暗だが。

3階の、自分の教室に忘れ物を取りに行く。
夕方、まだうっすらと明るいうちに取りに行けばよかった、と悔恨の念がわく。
もう外は完全に真っ暗だ。なんだか気味が悪い。
校舎内にはもう誰もいないことはわかっている。

わたしはスマホの画面をかざしながら、少しずつ進む。
すると、急に人の顔が目に入る。

!!!っおおお・・・ぅ!!

うめくわたし。
息が荒くなる。
人の顔は、防災ポスターの人間の顔だった。
スマホの灯りに照らされて、いやおうにも不気味に浮かび上がっている。
くそう、こんなポスターに驚いてしまうなんて。

さらに、

ぶびびびびびびbbb

という不気味な音!
ごきぶりか、蛾か、こうもりか。

あわててスマホを向けると、蛾が窓際でぶるぶる震えながら飛んでいた。
もう、こわすぎて声もでない。

のどがかすれてくる。
あわててつばを飲み込むが、もう階段を歩く足に、力が入らない。
どうすればいいのか・・・。

教室に入って電気をつけると、急に気持ちがでかくなる。
明かりというのは、偉大である。人間に勇気と希望を与えてくれる。

黒板にメッセージをかき、さらに忘れていたプリントをとり、もう一度意を決して電気を消す。
あとはスマホの明かりだけがたよりだ。

できるだけ足元だけを照らし、壁に貼ってあるポスターがむだに見えないように努力する。
泣きそうになりながら階段を降り、職員室をめざす。わざとではないのに、ごく自然に足が速くなってくる。
だが遠くから迫ってくる廊下の闇の漆黒は、はかない小さな四角い画面の光よりもはるかに巨大な威圧感をもってわたしを取り巻こうとする。

あと少し、と思ったとき。
わたしは階段を踏み外した。

イッテーッ・・・痛ー・・・

早く帰ろう。
夜の学校は怖すぎる。

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