30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2022年06月

ガソリン価格から社会の厳しさを学ぶ5年生

「おやつなし ガソリン代を うらみます」

ある子が日記に、「お母さんが今日のおやつは抜きだ、と言ったのでなんでかときいたら、ガソリン代が高かったからでした」と書いた。

令和の世に生きる今の小学生たちは、これからかなり難しい時代を生き抜いていかなければならないことは予想できますね。日銀の黒田さんはすでにボケ始めているという噂もあり、あきらかにインタビューの映像を見ても、「認知がはっきりしていない」感じ。記者の質問に反応するのも力がなく、これで重責を背負わせるのは酷じゃないのか、と気遣う識者も居るくらい。

日本だけ金利を上げずにいて国を亡ぼす方向に向いているわけですが、どうやら日銀の黒田総裁は
「日本だけは特別な事情があるから、だいじょうぶ」
と、まったく周囲の状況を見ることができない。
これは残念ですが太平洋戦争突入時の大本営と同じ症状です。

5年生の児童に、「ガソリン代がなぜ高いか」を問うと、調べてきた子もいる。
なかなか偉いと思うし、今年の夏休みの自由研究にすごい向いている課題だと思う。
5年生としたら死活問題です。毎日のおやつもなし、大好きなガリガリ君も買ってもらえず泣いているのですから。
これはいけない、と兄弟で戦線を組んで協力し、車の中で懸命に交渉した結果、パピコを弟と分けて食べることができたが、

「このままガソリン代が高いままだったら、今年の夏休みは1週間にパピコが1つ(弟と半分こ)、ということもありえます。わたしの心は今、ゆれ動いています」

ということであり、小学生にも安倍内閣の負の遺産は容赦なく襲い掛かる。

さて、日銀の黒田さんが認知のゆがみを呈しはじめた、というのは歴史を勉強していれば明らかであります。
いつも、日本は追い込まれると「周囲がみえなくなり、認知のゆがみが生じた結果、『日本は特殊だから大丈夫』という自尊心肥大を増幅させるだけで、効果的な手が打てずに崩壊した」のであります。

大日本帝国以前からつづく日本の国家的なお家芸ともいえますが、「日本は神の国」と言い出すタイミングはいつも、日本が追い込まれている時代でした。

一番古いのは、日本という国の名前を決めた頃、白村江の戦いのあたりでしょう。
新羅はもともと唐がこわく、日本を味方につけたいので、下手に出る作戦をとっており、倭に対して「貢ぐ」国でした。「唐がこわいんだよね。だから、倭くんだけはうちらを攻めないでね」というわけです。倭の方が、立場が上だったのですね。

ところが白村江の戦いで倭が敗れた際、新羅が「もうあんたのとこには貢がないけど」と言ってきても、「いや倭(日本)は神の国で強いんだから貢ぐべきだ」と言い張ったそうですな。
当時の倭は、はじめて新羅と唐の連合軍に敗れ去って国の形を問い直さねばならないくらいに追い込まれており、賢い人たちを中心に律令国家をはじめるべく奔走せねばならなかったのです。しかしこのとき、担当の大臣が『認知を狂わせており』まして、『日本は神の国』であり、『日本は特殊なのだからぜったい大丈夫』と周囲を説き伏せる(無視)しまして、新羅に向かって『貢ぐんだ。俺は偉いのだから』と言ったらしい。現代のように『日本はもっとも世界で人気がある』的な感じでしょうか。

これが、どうやら日本の宿命らしいです。
日本は、同じことを現代まで延々と繰り返しているわけで。
歴史を学ぶと、すごくよくわかる。
おそらく日銀はこれからもずっと金融緩和をしつづけるでしょうし、円安は止まらないでしょうし、ガソリン代はまだまだ上がるでしょう。
しかたがない。日本はそういう歴史と宿命を背負った国なのでした。

日本は、外部の脅威を感じると、「うちらは特殊だから大丈夫。神の国だ」というのですごしてきたのですが、そのうちに外部の脅威がなくても、外部の脅威とは無関係の状態であっても、そういう具合になっていきます。病気がますます進行したわけですね。つねに政治家にとって、

「うちらは特殊で大丈夫」

は便利な合言葉となります。

平安時代の末期は末法思想が流行し、阿弥陀仏にすがる宗教が流行します。
世界の終わりが近いぞ、という感覚が日本人全体に強まりまして、浄土信仰が大流行するのですが、このとき、浄土信仰にすがろうとする人が多くなる一方、残りの人は「日本は特殊で神の国だから大丈夫」と、自尊心肥大にすがることになったようです。つまり神国思想、です。
同じことが太平洋戦争時にも起こるわけで、構造とパターンはおどろくほど一致します。

平安時代は結局、貴族社会がくずれ、律令体制の崩壊、という形で武士の政権へと根本から大改革されます。貴族たちには結局、1)浄土信仰 2)神国思想 この2つしか道がなかったのです。どちらも、こわいものから目をそらす、という点では変わらず、「認知をゆがませ、目をそらせる」ことでしかなかった、という点が泣けるところです。

このあたりの詳細は、実は以下の本に述べてあります。
わたしの上記の解説はつたないものですから、ぜひ皆様におかれましては以下の本をご覧ください。もっとよくわかります。



常に、他のことが見えなくなり、むしろ自分たちの方が特別な存在であり、自分たちの方が正しいのだ、という節回しを口にすることは、日本のお家芸だと言える、というのが結論でありました。
それが、やっかいなのは、「日本が立場的に厳しくなると必ずそうなる」というところです。

今、ガソリン代だけでなく、円安もそうだし、物価高もそうだし、コロナもそうだし、日本はかなり負のフレーズばかりがニュースに出てきます。オリンピックの予算も嘘ばかりで使途不明金だらけでしたから、おそらく平安末期のように、これは今の日本は「末法の世」に近いのかもしれません。

歴史の流れからすると、こういう時代はいずれ「日本は神の国で特殊だから自分たちだけは大丈夫」と言う政治家がどんどん増えるでしょうし、人気を博すでしょう。
それが日本の国の在り方であり、昔からそういう国だったのですから、あきらめるよりほかないのかもしれません。

おやつは弟とパピコを分ける夏休みになりそうです。
令和の日本は、そこから脱却できるでしょうか。

やっぱ、島国だからね。「自分たちは特殊ですごいのだ」という『井の中の蛙』のような精神性をどこかで持っているのかも。一方で、外国からは常にすごい文化がもたらされるから、劣等感もあるし。むずかしいね。

ところで黒田さん、もういい加減、金融緩和、やめましょうよ。
日本だけ特殊で大丈夫なはず、というのは、おそらく「認知のゆがみ」ですぜ。

日銀日本はすごい

都合の悪い情報を無視したり、過小評価してしまう認知バイアス

その日はたまたまいろいろな偶然が重なってわたしは空き時間をGETした。
半分浮かれながら、トイレの

個室に入った

と想像してください。

まだ、あれやこれやが終わっていない状態です。
そのとき、ふいに、職員用のトイレの入り口の扉がひらく音がしました。
わたしは、おかしい、とまゆをひそめた。
だって、今の時間、空いているのは校内には、わたし一人しかいないはず。
校長は1年生の教室へ、教頭は2年生の教室に行っているはずで、それらは別の棟だ。
わざわざこんなところに来る先生はいない・・・。事務の先生は女性だし。

すると、甲高い子どもの声で、
「あ、だれかいますか?」
と声がしたのだ。

わたしは意外に思いながら、なにか子どもが間違って入っちゃったのかな、と思った。
子どもは入らないようになっている職員用トイレだ。子どもたちはふつう、入らない。しかし、たまにどうしても、という子がいて緊急の場合に入るのかもしれない。
「それにしても」
とわたしはなお、不思議に思う。
この職員室のトイレは、子どもたちの教室からはちょっと離れている。
わざわざ、こっちまで来ないだろう・・・おかしいな・・・。

わたしの勤務校の職員用男子トイレは申し訳ないほどのスペースしかなく、個室は1つのみ。
幼い声がつづいた。
「あの、ぼく、うんちしたいんですけど」

それは非常に幼い感じの、まだあどけなく、かわいらしい声だった。
要するに、1年生か、2年生の子の雰囲気である。

「入っている方、どうですか?出てこれますか?」

わたしはさらに不思議になり、同時に緊張してきた。
なぜなら、通常、1年生とか2年生とかの子が、一人きりで、こんなところに来るケースは無いと思われたからだ。なにか、わたしの想像を超える出来事が発生している!
いったい、なにが起きているのか・・・!!!

扉の向こう側から、かわいらしいひよこのような声がつづく。

「あの、すみません。ぼくの方ですが、うんちが出るまで、もうあまり我慢できないです」

わたしは依然、便座に座りながら、もはや事情は分からないが、なにかの危機が迫っていることをここでようやく察した。この子がなぜここにきたかを推測している場合ではない!
のんきに「なんでこんな子が?・・・いったなぜ、ここにいるんだろう?」などと、明智小五郎のように推理なんかしてる場合じゃなかった!

それよりも、この子は、うんちをしたがっている!

個室の外で、声がつづく。
「我慢はしているのですが、限界が近いです」

頭の中に、レッドの回転灯が光り始めた。

「この子、もらすかもしれぬ!」

もはや猶予はない。
わたしはおそらく本能から、扉越しにその子に話しかけた。

「え、ええっと、うんちをしにきたのね?」
「はい。そうです。うんちです」

わたしはなぜか危機に瀕した場合に、急に冷静になる、あの例の『正常性バイアス』にかかっていたのだろう。頭の中で、別のことを考え始めた。
それは、

「ほお、1年生のようであるが、敬語の使い方が合っているじゃないか。国語の力はありそうだ」

という、教員のくだらない評価癖です。
正常性バイアスとは、何らかの異常事態に直面した際に、
「自分だけは大丈夫」
「なんとかなるだろう」
「そんなこと起こるわけがない」
「いまの状況は正常な範囲内のことだ」

と判断して、都合の悪い情報を無視したり、過小評価してしまう認知バイアスのことであります。
わたしは、扉の向こう側に、敬語でていねいに「自分の便意」を伝えてくれる少年がいることを、「いまの状況は正常な範囲内のことだ」と、正常性バイアスにかかって思ってしまったのです。

おまけに、その子は、こうも言ってくれた。

「でも、まだ大丈夫です。まだ、1分はがまんができます」

そのとたん、わたしは非常に愉快な気分になることができた。
ちゃんと、こちらの事情を汲んでくれたではないか。
そして、1分あれば、これからわたしは紙で拭いてズボンをたくしあげ、タンクの横のレバーで流し、立ち上がることができるだろう。
そう思ったからである。

「おお、いい子じゃあないか! ちゃんと、時間を教えてくれるところも気が利いている。そして、最後まで敬語を忘れないところをみると、なかなかのしつけを受けた子らしいな。ふむふむ。出たら、よく我慢してくれたね、と頭をなでてあげよう」(←やめろ)

しかしそれは一瞬でありました。
その子は、セリフをこう続けたからである。

「でも、まだ大丈夫です。まだ、1分はがまんができます・・・(5秒の間)・・・ああ、でもやっぱり、のっぴきならないようです・・・だめかも。もう出ちゃう」

しかし、わたしはまだ、正常性バイアスにとらわれていたようだ。
その言葉、そのセリフを聴いたとき、わたしは
尻を拭く以前に、あごに手をあてて考え込み、
「のっぴきならない、という言葉は1年生で果たして使えるものだろうか・・・彼は、1年生でこの言葉の使い方をしっかり理解してスキルとして身につけている。まったく、たいしたものだ・・・。果たして同学年で調査した場合、何人の児童が『のっぴきならない』の意味を理解しているだろうか。おそらくクラスに2人もいまい。この子の国語のセンス、そして語彙の豊富さを、担任にぜひ伝えてあげたい」
と、しばらくの間、ぼうっとしながら考えたからであります。

最後にその子が「いいんですか、もう、出ちゃいますよ」と言った瞬間と、わたしが大急ぎでズボンをたくしあげて個室の扉を開けたタイミングはほぼ同時でありました。

その子は苦しそうな息のもとでわたしを見上げ、

「ああ、6年生の先生でしたか」

と最後まで丁寧語を忘れないのでありました。

そして彼はわたしと入れちがいに個室に入り、どうやらちゃんと無事にコトを済ませたようで、わたしはようやくホッとして廊下に出ました。

廊下に出てしばらく進むと、体育館へのびる通路の手前に養護教諭の女性の先生がいらした。

女の先生「あ、Sくんがトイレに入るの見ましたか?」

これでようやく合点した。
彼は校内を自由に闊歩して回っているSくんで、たまたまこちらに来たので、ついでにトイレに入ったようだった。

それにしても、こうやって扉の外から、「いいですか。もれそうなんですが」と、家族以外の他人から、何度もくりかえし話しかけられる経験も、人生に何度もない気がする。
貴重な体験であった、としめくくりたい。
わたしが正常性バイアスにとらわれて、その子の便意を限界に追い込んだことについては、大いに反省している。二度とこのようなことがないようにしたい。今回のことは、なんとか水に流してほしい。

toilet_boy

学校も少しずつ変わっている。だいじょうぶ、必ず良くなります!

・毎日掃除っているの?➡水曜だけナシにしました
・何であだ名はだめなの?➡あだ名、授業中のみ、OKにしました
・何でみんな同じ宿題なの?➡宿題、一人ひとりに個別計画を立てさせます
・学級遊びって全員参加なの?➡見学もOK、グループごとに計画します
・何でシャーペンはだめなの?➡シャーペンとえんぴつの比較をクラス全体で研究することにしました
・授業中はお茶飲んじゃだめなの?➡もちろんOKで、逆にダメなクラスは少ない(文科省はOK)
・何で学校に行かなきゃいけないの?➡来なくてもOK
・何で服に穴あけてまで名札するの?➡名札なしにしました

これ、保護者懇談会でけっこう出てくる話題ですが、
学校が変わってることにかなり驚く保護者もいる。
たぶん、自分が子どもだったときの記憶もかなり濃厚なんだと思う。
話をしていくと、

「ああ、いいですねえ。わたしも今の時代に小学生をやりたかった」

ため息をつかれます。

ええ、昭和の時代でも、平成の時代でも、それなりに先生たちは善戦していたと思いますよ。
いじめがあったとき、昭和でも全力でぼくらの仲間を応援し、対応してくれた先生をわたしは目撃していますから。

でも、方向が完全に変わったのは、令和元年です。

「子どもに個別の計画をたてさせ、自分なりのキャリアを計画させる」
という方針が出たからですね。
そこから、まるでオセロがひっくりかえるように、学校は変わりました。

宿題も、今は、一人ひとりが自分で考える時代になりました。
達成度やねらいも、小学生が自分なりに、一生懸命に考えて計画をします。
そういう時代になりました。
学習成果も、クラウドに残っています。
小学生の時、自分が研究したこと、学んだこと、作文、論文、すべてクラウドに残っています。
なんなら、それを入社試験の際に持ち込んで、

「わたしは小学生の頃から御社の製品に興味を持ち、小学生なりに実験をしてみたことがあります」

と面接で言っても良い時代になったのです。
このくらいの大変化があったのですが、世の中は政治の腐敗とかコロナのこと、オリンピック会場の建設にいくらかかったとか税金のことなんかで騒いでましたので、教育の大改革はまったく報道されないレベルでしたね。(遠い目)

でも、大丈夫。
学校は、変わりました。
おうちの人たちが、「学校はこうだろう」と思うことは、かなり変化しています。
大丈夫ですよ、だいじょうぶ。

⇩大臣様へ。お願いです。教育を充実させてください。
事務室のカラーコピー機の電源が切られたままです。理由はランニングコストが高いからです。教員は自腹でコンビニでカラーコピーしています。よろしくお願いします。
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