今年3月、政府は初めて「電力ひっ迫警報」を発令した。
なぜここにきて、電力不足が懸念されているのだろうか。
ここ最近、全国の火力発電所が老朽化のため撤廃されている。
廃止する火力発電所は、石油火力発電の大井火力発電所1~3号機(東京都)、LNG(液化天然ガス)火力発電の横浜火力発電所5、6号機(神奈川県)、知多火力発電所1~4号機(愛知県)であり、合計した発電能力は383万キロワットと大型原子力発電所の4基分にも達する。
なぜ廃止するのか。建設ラッシュだったころから50~60年以上経つ発電所も多く、これをメンテナンスする費用が会社の財政を厳しくさせているためだ。株主集会では、これらのお荷物を早くつぶせと要求している。そのために、この夏および次の冬には電力が不足するのではないか、と経済産業省が気をもんでいる。
「もう原発しかないんですよ」
テレビで識者が語っていた。経済産業省のキャリアだ。
世の中の電力消費を抑えるように、国民に呼びかけることには限界がある。
「原発で永続するエネルギーを得るしかない。世の中の需要にこたえるためです」
説得力があった。
ただし、経済産業省は11年前のフクシマ原発事故に対して責任があり、その責任を果たしていない。どう安全を守るかを提示できず、汚染された水ばかりか事故を起こした炉そのものをどのように処理するかについても、まったくなんの説明もできないまま、時間をかせいでいるだけだ。だから冒頭のキャリアも頭を抱えている。「原発を進めるための合理的な説明はまだできる段階ではない」
しかし、このテレビに映った方は、誠意のある方だと思う。きちんと悩んでおられるのだから。
頭を抱える、というピュアさがあり、人の心をうつ。
正直、頭を抱える、というくらいしか、もうやることがない。そんな感じだ。
手塚治虫が火の鳥で、「永遠の命、永遠の火、永遠のエネルギー」ということを語っている。
当の本人が「原子力の危うさ」ということを言っているのだから、火の鳥が原発を意識していることは自明だろう。手塚さんは「鉄腕アトム」を描いた後、原子力、というものに向かわざるを得なかった、と述懐している。
その「火の鳥」のなかに、「永遠の命がほしい」と呻(うめ)く権力者が登場する。
「永遠の命、永遠のエネルギーを欲する気持ち」は、今の世と変わらない。
古代人も、平安時代の人も、平清盛も、未来人も、作品「火の鳥」の中では、どんな登場人物もみな、「永遠のエネルギー」を欲しがるのだ。そして、七転八倒し、もだえ苦しむ。
現代人が、火の鳥に登場する権力者と同じく、「永遠のエネルギー」を欲しがるのも無理はない。
それは、人間が人間である証左のようなもの。
たしかに、むさぼるようなその気持ちもわかる。人間だもの。だって、永遠のエネルギーが手に入れられたら、どんなにむさぼっても良いのだから。
古来の日本人が大事にしてきた心に、「貪(とん)」「瞋(じん)」「痴(ち)」を放す、というものがある。仏教では、これらは「心の三毒」として教えられている。神道にも同様の教えがある。神道では「清める」ということを大事にする。身を清めるために大事なこととして、これらに陥らないように自戒する。美しい所作も心も、清められた意識も、「むさぼる心」を放すことからだ。
「もう原発しかないんですよ」
永遠の命、永遠のエネルギーをほしがる心。
それを自らの心のうちに、はっきりと自覚するからこそ、テレビに映った経済産業省のキャリアは、呻くのだろう。
永遠の命がほしい。「不死をねがう心」をはっきりと自覚する。これこそが、人間らしさだと思う。
日本人は古くから、その自覚ははっきりしていたと思う。
なにせ、富士山は、もともとは
不死山
だったらしいから。たえず噴火し、おさまる気配がない活火山。そこに畏怖の念はもちろん、あこがれに似た気持ちももったにちがいない。古代より、『不老不死』を願い、永遠のエネルギー、永遠の富、永遠の繁栄を願ってきたのが、われわれ日本人だ。
我々は、おそらく「原子力発電所再開」に向かうだろう。
そして、手塚治虫の「火の鳥」をくりかえすのだ。
それにしても、手塚治虫はどうして火の鳥を、「まったくすばらしい存在」として描かなかったのか?今になってその理由がわかってきた。改めて「そうとしか描けなかったのだろう」と思う。
火の鳥はどの編を読んでも、まったく孤独の存在である。
それはそうだ。この世界で唯一、死を恐れることができないのだから。
その孤独の苦しみ、悲しみを背負うから、「HAPPY!YEAH!」と叫ぶだけの鳥にはならないのが当然なのだろう。どのページを見ても、火の鳥は美しいし、超然としているし、かっこいい。しかし、どこか寂しさを抱え、孤独さをただよわせ、どこかあきらめたような悲しさを湛(たた)えている。
今、この作品「火の鳥」を題材にして、不老不死を願う人間の「むさぼる心」を鋭くえぐるような授業を構想している。これを今年のSDGs学習の基本線にしようかな。最終的には電力不足を子どもたちなりにどう解決するか、原発を再稼働するかどうかまで、討論できるようにしていきたい。
なぜここにきて、電力不足が懸念されているのだろうか。
ここ最近、全国の火力発電所が老朽化のため撤廃されている。
廃止する火力発電所は、石油火力発電の大井火力発電所1~3号機(東京都)、LNG(液化天然ガス)火力発電の横浜火力発電所5、6号機(神奈川県)、知多火力発電所1~4号機(愛知県)であり、合計した発電能力は383万キロワットと大型原子力発電所の4基分にも達する。
なぜ廃止するのか。建設ラッシュだったころから50~60年以上経つ発電所も多く、これをメンテナンスする費用が会社の財政を厳しくさせているためだ。株主集会では、これらのお荷物を早くつぶせと要求している。そのために、この夏および次の冬には電力が不足するのではないか、と経済産業省が気をもんでいる。
「もう原発しかないんですよ」
テレビで識者が語っていた。経済産業省のキャリアだ。
世の中の電力消費を抑えるように、国民に呼びかけることには限界がある。
「原発で永続するエネルギーを得るしかない。世の中の需要にこたえるためです」
説得力があった。
ただし、経済産業省は11年前のフクシマ原発事故に対して責任があり、その責任を果たしていない。どう安全を守るかを提示できず、汚染された水ばかりか事故を起こした炉そのものをどのように処理するかについても、まったくなんの説明もできないまま、時間をかせいでいるだけだ。だから冒頭のキャリアも頭を抱えている。「原発を進めるための合理的な説明はまだできる段階ではない」
しかし、このテレビに映った方は、誠意のある方だと思う。きちんと悩んでおられるのだから。
頭を抱える、というピュアさがあり、人の心をうつ。
正直、頭を抱える、というくらいしか、もうやることがない。そんな感じだ。
手塚治虫が火の鳥で、「永遠の命、永遠の火、永遠のエネルギー」ということを語っている。
当の本人が「原子力の危うさ」ということを言っているのだから、火の鳥が原発を意識していることは自明だろう。手塚さんは「鉄腕アトム」を描いた後、原子力、というものに向かわざるを得なかった、と述懐している。
その「火の鳥」のなかに、「永遠の命がほしい」と呻(うめ)く権力者が登場する。
「永遠の命、永遠のエネルギーを欲する気持ち」は、今の世と変わらない。
古代人も、平安時代の人も、平清盛も、未来人も、作品「火の鳥」の中では、どんな登場人物もみな、「永遠のエネルギー」を欲しがるのだ。そして、七転八倒し、もだえ苦しむ。
現代人が、火の鳥に登場する権力者と同じく、「永遠のエネルギー」を欲しがるのも無理はない。
それは、人間が人間である証左のようなもの。
たしかに、むさぼるようなその気持ちもわかる。人間だもの。だって、永遠のエネルギーが手に入れられたら、どんなにむさぼっても良いのだから。
古来の日本人が大事にしてきた心に、「貪(とん)」「瞋(じん)」「痴(ち)」を放す、というものがある。仏教では、これらは「心の三毒」として教えられている。神道にも同様の教えがある。神道では「清める」ということを大事にする。身を清めるために大事なこととして、これらに陥らないように自戒する。美しい所作も心も、清められた意識も、「むさぼる心」を放すことからだ。
「もう原発しかないんですよ」
永遠の命、永遠のエネルギーをほしがる心。
それを自らの心のうちに、はっきりと自覚するからこそ、テレビに映った経済産業省のキャリアは、呻くのだろう。
永遠の命がほしい。「不死をねがう心」をはっきりと自覚する。これこそが、人間らしさだと思う。
日本人は古くから、その自覚ははっきりしていたと思う。
なにせ、富士山は、もともとは
不死山
だったらしいから。たえず噴火し、おさまる気配がない活火山。そこに畏怖の念はもちろん、あこがれに似た気持ちももったにちがいない。古代より、『不老不死』を願い、永遠のエネルギー、永遠の富、永遠の繁栄を願ってきたのが、われわれ日本人だ。
我々は、おそらく「原子力発電所再開」に向かうだろう。
そして、手塚治虫の「火の鳥」をくりかえすのだ。
それにしても、手塚治虫はどうして火の鳥を、「まったくすばらしい存在」として描かなかったのか?今になってその理由がわかってきた。改めて「そうとしか描けなかったのだろう」と思う。
火の鳥はどの編を読んでも、まったく孤独の存在である。
それはそうだ。この世界で唯一、死を恐れることができないのだから。
その孤独の苦しみ、悲しみを背負うから、「HAPPY!YEAH!」と叫ぶだけの鳥にはならないのが当然なのだろう。どのページを見ても、火の鳥は美しいし、超然としているし、かっこいい。しかし、どこか寂しさを抱え、孤独さをただよわせ、どこかあきらめたような悲しさを湛(たた)えている。
今、この作品「火の鳥」を題材にして、不老不死を願う人間の「むさぼる心」を鋭くえぐるような授業を構想している。これを今年のSDGs学習の基本線にしようかな。最終的には電力不足を子どもたちなりにどう解決するか、原発を再稼働するかどうかまで、討論できるようにしていきたい。