30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2022年04月

5年生の社会がたいへんなことに【この時期北方領土を教える】

ロシアのプーチンさんの評判が悪い。
小学校5年生にとっては、これまでプーチンなんて人、まったく知らない人でした。
だれそれ?という存在だったわけですね。
そこに今回の戦争だから、プーチン=悪い人、という感じ。

ところが5年生はこの時期に北方領土を教わるから、
「さてはプーチンが択捉島をとったのか!」
と早合点をしてしまう。

いやいや、プーチンはまだ生まれてないんだよ、というと不思議な顔。
「え?プーチンが択捉島にきたんじゃないの?」
択捉島がロシア(ソビエト)占拠、となったのは1945(昭和20年)。
ウラジーミルが生まれたのは1952年だ。
まだ歴史もまったく知らないから、なんで択捉島に日本人が住んでいないのか、すごく困るみたい。

え?なんで日本人が住んでないの? という疑問からすぐに

さてはプーチンか!(怒)

となるまでに3秒もかからない。
それほど、今回の戦争の影響は大きい。

というか、第二次世界大戦を本当に知らない。
クラスの半数が、え?日本って戦争したことあるの?、です。
戦争のことを聞いたことがある、という人数は、年々、減っている。
全国の教師にアンケートをとったら、この数がどんどん減っていることが実感されると思う。

それに、「聞いたことがある」という子にどんなことを知っているかを聞いても、答えられない。
「うーん」とか「えーと」という感じ。
さらには、ひいおじいちゃんが戦争に行った、ということを聞いた子もほとんどいない。
「だって、ひいおじいちゃん、知らないもん」が当然ですから、本当に戦争は遠い話です。

今回は、あえてここでの説明をせず、
「自分で学習するチャンスですから、なんで択捉島にロシアの人がいるのかをゴールデンウイークに調べてみよう」
ということにした。

もう、おうちの人へ丸投げである。

良いのだ。6年生で習うから。
5年生では、「ロシアと日本との間に北方領土という領土問題が存在します」というだけを習うことに文科省で決められている。歴史は来年まで持ち越しだ。

ちなみに択捉島でロシアの方がクリスマスを楽しんでいる写真を見せると、
「楽しそう。いいね」
というのが小学校5年生である。

クリル


さて、択捉島はもちろんアイヌのふるさとであり、和人とアイヌとの間には複雑な歴史がある。
5年生は当然、アイヌも知らない。

「アイヌってなに?」
それもまた、ゴールデンウイークに調べてみてもらうことにした。
いいのだ。5年生だから。

文科省は本気なので、ちょっと前から全国の教員に強い調子のお触れを出しております。
「5年生でぜったいに尖閣諸島と竹島と北方領土、きっちり教えろ」
ということであります。ずっと昔、安倍政権だったころ、ですね。

で、この竹島なんですが、写真をみると切り立った崖がうつっておりまして、まあほとんど食糧の自給は無理だと思われる土地です。野菜なら少々とれるのだろうか?よくわかりません。
ここは、隠岐の島からさほど離れておりません。韓国(朝鮮半島)よりかは、隠岐の島からの方がよほど近いです。
しかし、本州と比較すると、韓国(朝鮮半島)の方がよほど近い。
なかなか微妙な位置にあるのが竹島ですね。

教科書にも、最近はデカデカと竹島の写真が載るようになりました。
嵐の時などには、ふきんで漁をしていた漁師さんが避難しました。船をここに着けて、嵐がすぎるのを待つ、というふうに使われてきたみたいですね。

日本の漁師さんも逃れてここで一晩泊まる、ということをしてきたし、なかには物好きな人もいて、ここにしばらく住んでいた日本人もいたそうです。
しかし韓国の漁師さんもここに船をつけて嵐を避けていたらしく、まあ日本の漁師さんも韓国の漁師さんも、嵐の時に命が助かると思えば、同じような行動をとったのですな。

で、韓国の人も「あそこに便利な島があるし、嵐の時はあそこに逃げればいいぞ」と思っていたし、日本人も当然、そう思っていて、隠岐の島の日本人も朝鮮半島の韓国人も、思考は一緒、ということです。

こういう学習をしてくると、5年生は単純です。

「じゃ、もうずっとそれでいいじゃん」
「べつに問題ないじゃん」
「問題解決じゃん」

と、じゃんじゃんじゃん、の3連発。


北方領土についていえば、ロシアは日本に対し、「GHQが一度日本をつぶしただろう。国際社会が日本の領土をぜんぶ取り上げただろうが。日本はそこで一度消滅している。だから択捉島はロシアがとったんだ」と気を吐いている。
日本も同じく、「たしかに国は一度その時点で滅びているが、土地を領有する権利まではく奪されてはいないぞ」と言い返す。

この、双方がファイティングポーズをとりつづける、そして水面下ではしなやかに交流し、経済を交わし、物流をさかんにし、人的な交流も分厚くし、相互に助け合うという実際の相互扶助を行う。
それが、20世紀後半の国際社会の在り方でした。

楽観的な人たちは、そうして人的物的交流がつみかさなれば、政治的解決はその下地の上にだんだんと促進されるはずだ、と信じていましたし、ベルリンの壁が崩壊したときなどは、その楽観論がもっとも信じられた時代だったでしょう。

しかしいまはちがいます。
どれだけ民間が努力しても、政治が下手をうつと、あっという間に民間の努力が瓦解するのを見てしまいました。

目のくるくるした女の子が、まるで休み時間にバレーボールをしているような声で
「竹島は、地球の人はだれもが、嵐の時に使っていいいエリア、ということにしたらいいじゃない?」と言いました。
すると東大をめざしている秀才のFくんが

「エリアは3つつくればいい。韓国の人がいるエリア、両方が入れるエリア、日本人のいるエリア。この3つをつくれば、うまくいくかもしれんよ」

わたしは感心してしまいました。
なにがって?
子どもたちの「問題解決的な思考の質の高さ」にですよ。
どうにかして、なんとかして、問題は解決したい、という意欲にです。

たしかに軍事専門家からすれば、一笑に付す意見でしょう。
しかし、この意欲はどうです?
それがなければ、こんなアイデアも出てこないでしょう。

本当に解決したい

と思えば、もしかしたらわれわれ大人だって、前に進むことができるのかもしれませんナ。

竹島

半日12星座占い

最近の流行は、ふつうの12星座占いではないらしい。

昭和の時代から12星座占いは、存在していた。
それがブームが2度去った後、新しく「へびつかい座」を加えた13星座占いに進化した。
これが、占星術界の非常にビッグな転換期だったことはもはや常識でありましょう。

さて、時代遅れの占いもある。
もっとも古いのは、「ことしの占い」だ。
そんなものはバイオリズムもあり、花粉症もある現代人にとっては、もう信じるに足りないのである。

どれだけ元旦からついてついてつきまくり、幸運に恵まれようが、「今年は運がいい!」と叫ぼうが、そんなものは春になれば終わるのである。花粉症ならば。
春は、運が悪い、としか思えないのである。
薬をのみ、くしゃみをし、洟をずるずる言わせながら、「今年は運がいい!」などとはまちがっても言う気分になれない。

だから、「ことしの占い」など信じる人はいない。
また、昨今の若いギャルたちは、「きょうの占い」すら信じないらしい。
時代は忙しい。どんどんとサイクルは速くなっている。行動はすぐ変わり、時代は変化するのだ。
もう、1日をトータルしての占いは、古いというわけだ。

今は、半日占いが主流であり、「今日の午前中は〇だが、午後から下り坂で夜は✖」というような感じの占いがほとんどだそうだ。
たしかに一日中、ずっとついてまわっている日など存在しないし、体験したこともない。
半日占いで、ちょうどいいのだろう。

ところが、今度は一日を、朝、昼、晩、と3つに3分割する占いもでてきたようだ。
朝は〇、昼は◎、晩は△、というように。
これは半日占いの上位互換、というような立ち位置で、たしかに生活のリズムや意識ともリンクしやすい。多くの人が3食だから、朝食付近は◯で、ランチ付近は△で、夕食前後は◎になる、などと理解しやすい。ちまたの若い人たちが納得しやすい形だろう。

さらに3分割を細かくして、朝の前半と朝の後半、昼の前半と昼の後半、晩の前半と晩の後半と言う具合に、わかりやすく一日を6分割する占い師もおり、人気を博しているらしい。
たしかにわかりやすい。感心するばかりだ。

ところが!
今年になって占星術界に激震が走り、なんと一日を2時間ずつの12分割する、という猛者がでてきたらしい。お店とサービスの名称が、やっぱりというべきか、

「12星座12時間帯占い」

イチニ、イチニ、とかけごえも勇ましく、占いもやはりこういったリズム感が必要になっているのであろう。ちょうど12分割した2時間は、干支にも通じることから、いっそのこと12、という数字で合わせるだけ合わせて、

12星座12分割12干支占い

というのでどうだろうか。
これこそが令和4年以後の、新しい占いの形であろうと思う。

「今日の子の刻は木星と金星が両方ともおとめ座にかかることから、良いアイディアに恵まれ、計画実行に最適な時刻になるでしょう。ただし子の刻をすぎると反対になります。とはいえ子の刻は思わず口笛を吹きたくなるような素晴らしいアイディアに恵まれる時間帯。これを単なる思い付きに留めてしまうのはあまりにももったいないですから、いつ、何から始めるのか、具体的な計画を立ててみましょう。「いつまでにやる」と最終ゴールを明確にして、自分を奮起させるのです。また、団体行動にツキがあります。大人数での飲み会や、郷里での同窓会などの幹事を買って出てみては? 意外な場所で、あなたの夢の実現に手を貸してくれるネットワークが築けそうです。さて、子の刻をすぎて丑の刻になりますと鬼門に当たる丙午の方角からへびつかい座がのぼってきます。へびつかい座を司るギリシャのオルフェウスが丑の刻を司る平将門と相性が悪く、世の中すべてを信じられなくなり、やる気が無くなってしまうような時間帯になります。夢や希望、友人たちなどへの信頼感が揺らいでしまいそう・・・。人間不信の傾向が強く、「周りは全て敵ばかり」といった気持ちになってしまうことも・・・。こんな時は、無理に人々と交流する必要はありません。1人ゆっくり過ごす時間をとり、心身の健康を回復させたほうがいいでしょう。この時間帯は、心地よい環境で早めに寝てしまいましょう。ぐっすり眠った後は、前向きな気持ちが回復しているはずです」

このくらい詳細であるべきでしょうね。次世代の占いは。

13星座占い

けてぶれ学習法のまちがいの5分類で同僚と討論

けてぶれのまちがいの5分類はこうである。
1)問題の意味がわからなかった
2)ちゃんと読んでいなかった
3)解き方がわからなかった
4)わかっていたのにまちがえた
5)時間が足りなかった

これに、同僚のS先生は、

6)手順を守らなかった

を入れたらどうか、というのだ。
小学校の算数では割り算のひっ算など、特有のアルゴリズムで解いていくものがある。
これは、油断して手順をまちがえることさえなければ、正解できる。
小数点をうごかす問題もそうだし、分数の足し算引き算、約分通分など、小学校の算数はアルゴリズムでといていくものが多い。
そう考えると、小学校の算数では、たしかに手順さえふめば正解するものばかりだ。

「そうだね。小学校算数に限って言えば、その項目も追加すると、子どもたちが自己分析するのに役立つかも」
「そうだね、自分は手順がまちがっていたんだ、と気づく子も多いと思うよ」


そういった話をしていたら、「まちがいの原因はなにかって?」と教頭先生が口をはさんで

7)問題がまちがっていた

というのもあると。

それはたしかにそうだが、ちがう。
問題がまちがっているというのは、解く側(児童)にとっての「まちがいの原因」ではない。
前提条件がくつがえされてしまうのは、意味がない。
子どもが自己分析するのには、役に立たない。

教頭先生は話を盛り上げるために言ってくれていたわけで、
「まあそれは前提がちがうからなあ。はっはっは」
で終わりになったからまあいい。
教頭はそのままその足で、会議室に入っていった。

話が終わるかと思ったらそうではなかった。
教頭先生の話が燃料を投下した形になり、さらに火がついた。

小学校算数での「あるある」は、問題が読めなかった、というのも多い。
それを数えたらどうか、ということになった。

8)問題が読めなかった

問題の意味がわからなかった、ということに含まれるのだが、「読めなかった」もあるのである。漢字が読めない、文章が読めない、文脈が読めない。なるほど、小学校では、あるある、だ。

さらにいうと、小学校に限ってかもしれないが、

9)おしっこに行きたくなった
10)消しゴムを忘れたことを言い出せずにゆびにつばをつけてこすったらテスト用紙がちぎれた


というものある。
これは、そもそも間違い、という分類でなく、テストを受けることから逸脱し始めた、ということになろうか。

こう考えると、テストが正常?に行われ、きちんと提出された、というのは奇跡が起きたといっても過言ではない。1枚もテスト用紙がちぎれず、1人もテスト用紙をこなごなにせず、1人もトイレにひきこもって出てこなかった、という棄権者もいなかったのだ。

これはもう奇跡と呼んでもさしつかえない。

kiseki

テストの振り返りをChromebookでする【ダウンロード可】

テストはなんのためにするの?

と問うと、あれこれと言ってくれる。

・自分のわかっていないところがどこか、わかる。
・ちゃんとわかっているか知るため
・どこまでわかったか、わからないところがないか確認する
・これまでの学習の仕方が良かったかどうか


ちょっと踏み込んで、

「先生はテストはなくてもいいと思っている。みんなはどう?」

と言ってみた。

わたしからすると歓声があがり、

「じゃ、テストなくそう!」

と盛り上がるのかと思いきやそうではなく、

「やっぱりあった方が良い」

という声が多い。

これは、先に「テストは何のためにするのか」を問うて考えたからでしょうね。
なにも考えずにいきなりきいたら、「なくそう!」になったと思います。

目的をきき、確認したからこそ、

「やっぱりあった方がいいなあ」

となったのでしょう。

実際には、テストなんて受けなくても良いですね。
先生も評価はテストでしなくてもよいのですから。
【自分で考えて、必要だと判断する】というステップは、けっこう大事です。


さて、テストを通して、自分の学習についてふりかえります。
〇ふだんはどうだったか
〇テストの受け方はどうだったか
〇テストを受けてみて今後はどうするか

というふうに、ふりかえることで、
自分で自分のエンジンを動かし、そのエンジンの推進力で自分が動き始める、という実感
を得られます。

テストを返却するのに、これまでは速い方が良いと思っていて、すぐに返却していました。
これはこれで良い部分もあり、ちゃんと確認したり自主学習をする子にとっては楽だったようです。
すぐに持ち帰り、間違いをやり直す家庭学習をすることができたからです。

しかし、今回は学期の最初、学年の最初だったこともあり、1時間かけてていねいにテストの返却をやってみました。

まずいきなり返しません。
1)テスト、どうだった?
と問います。なんでも正直に言ってよい、と告げて、なんでも感想をいってもらいます。
班でもあれこれと言いあってもらいました。
全体できいてみると、

「むずかしいところがあった」
「裏の2番がわからなかった」
「ぜんぶわかった。かんたんだった」
「覚えてないし、すごくむずかしかった」

というような感じ。言いたい放題です。
これで良いのです。言いたい放題ができる、ということを保障するのも大事かと。

2)全体でまちがいのあった箇所、むずかしい問題をやり直し

わたしがピックアップした数問、数か所を、すこし丁寧にやってみます。
かんちがいの事例、まちがいやすいのはなぜか、覚えていない言葉があったかどうかなどを確認します。もし、覚えていない言葉などがあれば、「ノートに書いていただろうか」「教科書にもあったけど、マーカーなどをひいただろうか」と問いかけ、勉強のやり方そのものをここで教えます。

3)テストの返却をする

各自で受け取ったら「なおし」をします。
100点の子もいますが、周囲の子と確認したり、お互いに助け合うようにします。
上手に説明ができるか、完璧な説明ができるか、ヒントを上手に出せるか、という点で、「助けようとする側に立つ子」のスキルについても問いかけ、上達意欲を喚起するようにします。

常に教室でそういうことも語っています。
「上手に説明ができてこそ、知識が身についた、と言える。完璧な説明ができる?」
とよく言ってます。
授業の導入でも、学習問題や課題について示した直後に「完璧な説明ができる?」とよく言います。そこで堂々と説明ができる子には言ってもらい、ほめることもあるし、言い終わった後に「かんぺきだった?」と問うこともあります。「いや、まだもやもやしてる」と言ったら、どこがもやもやしている?と説明してもらうところから、授業の導入につなげるパターンも頻繁にあります。

4)ふりかえりをChromebookに入力します。

チェックポイントが6つ。
そして、記述する部分が3つです。

記述はかんたんで、①テストまでの学習はどうだったか ②テストを受けている最中はどうだったか ③次はどうするか

ダウンロードファイルはこちらです。←(右クリックで、名前を付けてリンクを保存)

ファイルはエクセルになっています。
これをGoogle Driveに保存し、Google Classroomで児童に個別配布します。
毎回ここで入力を積み重ねていくことで、自分のデータを継続して保管できます。

このテストの振り返りを毎回することで、テストの受け方そのものおよび、自分の学習の客観視を鍛えます。自分の学習は自分で進める。自分で計画を立てる。学習内容も進め方も進路も、すべて自分が決定していくのです。

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Windows 13(ウインドウズ・サーティーン)の呪い

【閲覧注意:不気味でショッキングな話です。心臓に毛の生えている人以外は読まないでください】

ある男。
パソコンで仕事中、同僚が話しかけてきて
「ぼくのパソコン、やっぱり調子が変なんです」と相談。

男は、そういえば先日、自分がWindows13にアップデートしたのが原因か、といやな予感をもつ。
予感が的中。同僚のPCの画面を見ると、いやあな雰囲気のエラーがとぎれとぎれに出てくる。
いわゆる業界でいう、『間欠的な不具合』というやつだ。
これは原因の切り分けに時間がかかるから、本当にやっかいなのだ。

彼が深夜まで時間をかけてパソコンと悪戦苦闘していると、やたらブルー画面が出てくる。
もうこりゃ、ソフトよりもハードの問題だろうか、と椅子にぐったりと座ったとたん、
ブルー画面が不気味に光りだした。

男が、
「ありゃりゃ。まるで放射能・・・チェレンコフの青白い光か?」
と独りごちたとたん。

画面に青白い顔をした、頭巾をかぶった男が現れて、

「う・い・ん・ど・ず・・・さー・てぃーーーん」

とつぶやくや否や、

「ケーッケケケケ!!」

と叫んで画面から消えた。

これがいわゆる、ウインドウズの呪い、正確には
『Windows13の呪い』という話である。

この話には後日談があり、

パソコン担当者がこわくなってOSを再インストールしたところ、
その再インストールの最中、まだOSがPCに完全に入っていない、いわばただの箱の状態であるにもかかわらず、なぜか画面にその頭巾の男が現れた。
そして、かすれた声と、しわだらけの口もとをぼそぼそと動かしながら

「おまえは選ばれし特別な存在だ」
「おまえは社会から正しく評価されていない」
「おれがお前にこの世界を動かすための明快な答えをおしえてやろう」
「これはお前だけに教えるのだ。マスコミもだれも知らない真実だ」
「お前がこれを他の人間に広めるのだ。正義を知るのはお前だけだ」

(【カルト教団に洗脳するためのテクニック・5つのセリフ】より抜粋)

とつぶやいて、最後に画面越しの自分を指さして終わる、というもの。

なんとも恐ろしい呪いである。
安倍首相が倒れたあと、ミヤネ屋でおそろしい日本人洗脳計画が報道されていたが、あれをみるくらいに怖い。

もしかすると、わたしが先日、自宅のPCをWindows11へと、うっかりアップデートしてしまったことの後悔の念が、わたしにそんな不気味な夢を見させたのかもしれない。みなさま、くれぐれもご注意を。


写真は、鎌倉長谷にある御霊(ごりょう)神社の例祭にて、『烏(からす)天狗』の面。

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「結論から述べる」について

午前11時ごろだっただろうか。
玄関のチャイムが鳴り、嫁様が出た。
わたしはリビングでしらべものをしており、ほとんど意識に上らなかった。

嫁様が困惑したようにもどってきて、
「なんか、パソコンの?インターネットがどうとか・・・?」
とわたしに変わってほしいサインを出した。

アポなしのドアチャイムだからおそらくセールスだろうと思うが、一応出てみた。

すると、名刺を出すかと思いきや話をしだしたが、
1)この近辺でケーブル設置の工事をした
2)そのおかげでインターネットが高速になる
3)あなたの家はその恩恵を受けられる
4)なにも機械を変える必要はない
5)金額も月に2000円程度安くなる
という。

相手がふと口をつぐんだので、話が終わったのかと思い、てっきり
「ごくろうさま」
と頭を下げて、安くなるし速くなるのはありがたいなあと思いながらドアを閉めようとすると
「いやいや、ご主人、わたしはあやしいものではないですから」
と手を顔の前にもってきて、高速で左右に振った。

わたしは
「あやしいとは思ってないですから大丈夫です」
と、こちらも慌てて言った。
本当に、あやしいとは思わなかったからである。
というか、話が終わったのではなかったのか、と不思議になった。
そして、ではつづきがあるのかしらん、はて、と思った。

つぎに、会社の名前を言い、
「テレビとかでも放映していますから、ご存じかと思いますが」
という。
「今、キャンペーンで全国でサービスを展開中です」
と胸を張った。

ところが、わたしはほぼテレビを見ないのである。
家にテレビはあり、受信料もきちんと納付しているが、わたしは見ない。
というか、見る暇も時間もない。全国の教員がそうだと思うが、帰宅したら次の日の授業の準備を綿密に行う。あとは風呂入って寝るだけしかしない。

わたしは頭を下げ、(ほんとうに悪い気がしたので)
「ごめんなさい。テレビはもう5年以上見ていないですね。体感上ですけど」
と言って、マスク越しに自嘲してみせた。

本当は、NHKのブラタモリを見た。2年くらい前だろうか。
このブログにもそのことを記事にしていると思う。

すると、それが怪しいと思ったのか、なおもテレビでやっているらしいその会社のCMのことを、少し話をして、念を押し、
「この地域にもすごく広がっているんですよ。有名ですよ。どんどんサービスが増えています」
とのこと。

わたしは何も知らない。その会社も、CMも、なにも分からない。
ただひたすら、恐縮するだけである。

ともあれ、この男がしなくてはならないのは、「結論を言うこと」であろう。
小学校5年生なら、国語の教科書で習う。

だんだんとわたしは、自分がどこかの不思議なファンタジーの世界であるかのように感じ始めた。
こうして休日の昼間に、自分が「テレビを見ない変人である」件を謝っているのが、妙に思えてきたのだ。

5年生の国語では、相手に何かを伝える際には、まず結論を言い、その理由を順序だてて説明し、最後にもう一度、結論を言うことを教える。

わたしはこの男に、
「なにしろ、すごいサービスがはじまるんですね。おまけに安くなる。良かったです。ありがとう」
と再度いい、ドアを閉めようとした。

すると、さらに慌てたのか、今度は半笑いでエヘヘヘヘという感じの声を出し、

「ですから、わたしは怪しいものではなく・・・」

と、さっきのつづきである。

5年生の国語でいえば、谷村俊太郎の詩なのであればわかる。
繰り返し=リフレインは効果的な手法だ。
リフレインは、独特のリズムと効果を生み出す。
作者の意図を強調することにもなる。

しかし、「怪しくないです」のリフレインには、あまり意味がない。
先ほどからこの男は結論をなんら言わず、自分が怪しくはない、ということと、テレビで有名な会社のものである、ということ以外に中身がなかったのであります。

わたしがしたことは、テレビを見ないことを謝ったことと、安くなるのはありがたい、という感謝である。

わたしは再度、「あやしいとは思いませんよ」と、あいまいにほほえみながら伝えた。

すると、契約をするから住所と電話番号を書くように、と初めて言うのでありました。

セールスの人は、5年生の国語を思い出してほしい。
話はもっと早く終わると思います。

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『気流の鳴る音』より~寝そべったまま、教室の床の模様を紙に写す子~

原康男さんという人は、十八歳の時から二十年間あまり、いくつかの共同体を放浪してきた」~『気流の鳴る音』真木悠介著より~

この方が厚木市につくったのが『ふりだし塾』という場所である。

どんな人でも、幾日でも幾年間でもそこに寝泊まりしていくことができる。
それぞれの力に応じた仕事を与えられながら、毎日の生活そのものの中で人間を形成していくという「塾」である。
一時は何十人もの若者たちがここに集い、独特の集団を形成していたという。

おもしろいのは、ここに集う者のうち、少し能力のあるものは、そのうちにペアをつくったり集団を別に作ったりし、結局は飛び出してしまうらしい。

それを聞いた人は、
「居心地がよくないからだろう。あそこは理想とは程遠いのだ」
ととらえる。

そうなのだ。
残るのは、別にだれにも好かれず、とりえもないような人物ばかりが残る。
これではコミューンとしては大失敗だ。

ところが、当の原さんは、その話を肯定する。
「能力の少しある人、魅力のある人はいいんです。なにも無い人がいられる場所が人間としての理想の居場所だからです」
どこにもいけない。そういう人物が生きていかれる場所をつくりたい、というのが原さんの野望である。

この話を聴くと、コミューンとか、村とか、居場所とか、およそ人の集まる場所についての理想というのは何か、と考えたくなる。

わたしは職業柄、いつも常に、学級集団のことを考える。
それは同時に学年の集団でもあり、学校の児童集団、そして教職員も含めた全員の集団をさす。

集団の魅力とはなにか、というのが、教師の永劫の「問い」である。

子どもたちは一人ひとりをみれば、必ずそこに魅力が宿り、ユニークさが宝のように見える。
教師はそれらを重ね合わせる学級集団という「組織」をつかさどっており、個が輝くと同時に、さらにお互いがその魅力を増すような仕組みがないものか、と常に妄想している。

良い集団と言うのは、いつまでもいたくなるような場所であるにちがいない、というのが通常の考えだ。しかし、原さんだけはちがう。
「能力のある人がそこから去ってしまう場所、しかし、能力のない人がそこに残っても良いような場所をつくりたい。それがおよそひとの居場所としては最高の場所だからです」というのだ。

果たして、そうだろうか。

能力のない人がそこに残って「居てよい」。
最後の、「居てよい」が、「居てはいけない」に変われば、それはファシズムであろう。

それゆえに、学級には床に寝そべる子がいても良いし、「先生、〇〇くんが寝ちゃってます」があっても良い。その子は、「そこに居ても良い存在」である。

ただし、それは本人の意思、おうちの人の意思にも支えられて、という条件のもとだ。
本人がその教室にいたいのであれば、それはもう1mmも、問題はない。
他の親や、他の大人がまゆをひそめようが、「彼のために」と親切心をはたらかせようが、本人がいたいのであれば、1mmも、問題は生じない。だれも困らない。

〇〇くんが寝そべったまま、教室の床の模様を紙に写している。
他の子はみんな算数をしているから、ときおり席を立って相談したり、歩いたりもする。
しかし、SちゃんもFちゃんも、みんな〇〇くんを上手によけながら歩いて、別に邪魔にも思わないのである。

下は、原さんの唯一の書物『ふるさとの本』。主婦と生活社から出版された。
生活を成り立たせる方法、仕事の仕方などについて、ていねいに綴っている。
ひとの生活とは何か、暮らしとは何か、それを支えるひとの所作とはどういうものか。
「だれも理想とは思わない場所こそがひとにとっての理想の場所だ」という、一見急進的でラディカルにすら見えるその思想は、こうしたひとの生きる様式を具体的に、つぶさに見ようとする視点から生まれた。都会でワーワーと人を扇動するような政治家には、こうした視点をもつことは不可能だろう。

ちなみに、この本の挿絵を担当した遠藤ケイ氏は、図鑑や民俗、山の暮らしのスケッチを描かせたら天下一とよばれる人物である。

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牛とニワトリの世話から学んだこと

いつから「叱らない」のかなあ、というのは、春休み中に自己フィードバックをやっておこう、ということから思ったことです。
どこに価値をおくのか、何に価値をつけていくか、というのが根本で、そこが定まらなければ学級経営は成り立たないといっても過言ではないでしょう。
なので、自分が何に価値をおくのかなあ、と考えたときに、やはり自然に出てくるのが「圧迫、圧政のない社会、自由で、子どもが自分を知り、自分の価値をさらに高めたいときに、自分なりに活動していくと自然に他者を生かすことになる状態」に価値を置きたいです。

そうなると、もう必然的に、教師は叱らない。

わたしは教師になろうと思ったのはずいぶん遅くて、もう結婚して子育てがスタートしてからです。
赤ん坊が生まれ、夫婦で初めての子育てに面喰いながら、まあそれでも赤ちゃんって育つんだなあ、とドキドキしながら、教員免許を取ろうとしたわけです。高卒でしたので、まず免許がないんでね。
JAXAに出向する富士通系列のエンジニアでしたので、周囲は引き止めましたし、職場で働くことにも満足していました。ちょうど「はやぶさ」が話題になる直前で、仕事に生きがいも感じていたし、おもしろさもわかってきて、エンジニアの仕事は自分にあっていたようですナ・・・。

でもまあ、人間が育つということに、それ以上の魅力を感じたのでしょう。

それ以前のごく若いころは、肉牛を飼育する現場におりました。同時に、なんだか鶏の飼育をする現場にもいて、どちらもわたしの自己形成に非常に役立ちました。

生まれたての牛にミルクをやり、牛が徐々に育つのを見届けるのは、今の学級経営にも非常に影響しています。
また、これは肉牛の世話よりも長く、3年から5年ほど続けたでしょうか、鶏に餌をやる、というのをやりました。卵をとる仕事もあって、これもやったのですが、養鶏そのものをじっくりやったわけではありません。わたしは出版や印刷、広報などの別の仕事も同時並行でしておりました。そのため、時間を区切って、午後1時から3時までの間だけでした。その時間帯にだけ、鶏に餌をやる仕事をしたのです。実はこれが、非常に今の学級経営に深く影響をしています。

どちらも、「育つ」現場でしたから、それは当然リンクするのです。
心理的に安心して育つ。それは、鶏もそうですし、牛もそうだし、子どもだって当然そうです。

牛も鶏も、恐怖で育てると、よく育ちません。
人の子どもも同じです。

よく、家畜と人とはちがうでしょう、という人がいます。
当然それはちがうでしょうね。生物学的に異なる面を見れば。
でも、恐怖ではうまく育たない、というのは、家畜も人も同じです。

肉牛は、赤ちゃん牛にミルクをやるのもそうでしたが、もうちょっと大きくなってくると角(ツノ)を切ったり、去勢をしたり、餌をやったり、あれこれとやりました。

わたしが一番印象に深いのは、その場に入る時でした。
鶏なら鶏で、鶏の部屋に入る、まさに一歩踏み入れる、その時です。
また、牛なら牛が集まっているその場所へ入る、その時です。

これは非常に面白くて、こちらが興奮していると、興奮があっという間に広がるのです。
伝わるのでしょうね。
忙しくて時間ばかり気にしていて、心がせいていると、鶏もバタつく。
なんだか邪魔に見えてきて仕方がない。餌がスムーズにやれない。心がここにあらず、という状態で終わるのです。

これがそうでなく、心が澄んでいるといいましょうか、おなかのすいた鶏の気持ちになってというか、非常に平坦な(?)気持ちで小屋に入ると、これが言葉にしにくいのですが、一種の「許し」が出るのですね、鶏から。
「許し」というのは言葉としては今一つで、そもそも許しもヘッタクレも何もないのですが、受容というのか、鶏が「ああ、あんた待ってたわよ」ということを言ってくるような気がするわけです。
そういう日は、なんだか鶏も非常に落ち着いていて、わたしも彼らの邪魔をしないし、鶏もわたしの邪魔もしないし、WIN-WINの関係でいられるわけです。

これは同じことが牛にもありまして、わたしは19歳と20歳のときに主に肉牛の現場にいたのですが、とくに去勢をするときなど、わたしが道具を軽トラの荷台に積んで行くと、なんだか牛もざわつく感じがあるわけですね。こっちも高ぶっているのです。戦闘開始、というような。

去勢という仕事はけっこう「命がけ」という感じで、牛も人間も、大ケガをする危険があるし、失敗するととにかく痛いし、ひとも体力を使うし、お互いに緊張があるわけです。ところが、わたしが戦闘意識バリバリで牛舎に入ると、これはもうぜったいに牛が勝つのです。体力が100倍?くらいちがうから。

そこで私はあれこれを考えたのですが、この「考える」というのが、とても大切なことでしたね。今から考えると。

わたしはそれからというもの、できるだけ「わたしは木偶の坊ですよ」という顔をして牛舎に行くことにしていました。
牛よ、去勢はお前も痛いだろうが、お前の福祉のためなんだ、堪忍してくれ、と。
しかし、お前を痛めつけたいわけではない。もっと大きな目的があるんだ、という感じでしょうか。

で、できるだけ早く済ませるからな、という、どちらかというと「おごそかなる」気持ちで、偉大なる牛を本当におがむような気持ちでもって、牛舎に入るのです。

そうすると、これも不思議なことですが、先ほどの「鶏」のところでも書いたような、一種の「許し」がでるのですよ。牛からね。これは本当にわたしが思い込んでいるだけですけど。

そうなると、牛もそれほど騒がず暴れず(痛いでしょうが)、まあ分かったよ、痛いけど、という感じで、受け入れてくれるのですね。

これは、非常に今の学級経営にも役立っています。
子どもの社会があり、わたしは大人としてそこにかかわります。
子どもは子どもどうしで、もうすでにそこに大切な社会を形成しているのですね。
わたしはどちらかというと、受容されないといけない立場でありました。大人として。

そうなると、やはり、これは、「叱らない」ですよ。本当に。

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『叱らないでもいいですか2022』スタート!

『叱らない』を始め、はや13年目に突入しました。
はっきりと「あ、叱らないでもよさそうやな。よし、それでやってみよう」と思ったのが3年目でしたから、そこから数えて、ということです。

調べてみたら、

2010年05月10日に、

「叱らないですね、先生は」
という記事がありました。

どうも、そのころから、のようです。
自分の中で、自分として大切にしたいことだったのでしょう。
そこから、基本的にわたしは、「叱らない」先生になりました。


今年、学年主任になりまして。
4月1日に、学年のチームになった先生たち4人とともに、最初の会合を開きました。
学年会ですね。
そこでわたしは、

「どうだろうか。基本的には叱らないでいきたいんだけど」

と、丁寧にちょっと自分の意図を話しました。

そうすると、やはりまじめな先生たちなので、
「いやでも、やはり叱る場面はあろうかと思いますが」
と言います。
当然でしょうね。これまで、これ以外の反応を返した先生は1人しかいません。

わたしは
「そうですね、なので、『基本的に』ということなら、どうでしょうか」
というと、

これがびっくりなんですが、そこにいた全員が、

「はい。そうしましょう」
というのですよ!!!!



これはわたしにとっては革命的な日でしたね。
もっと叩かれるか、意見が出てきて紛糾するかと思った。

もちろん、人を傷つけたり、いじめが起きたりすれば、これは「厳しく」話をするし、子どもにも話をさせ、詰めていくときもあります。決して人の道は踏み外すな!という感じでしょうか。

しかし、
〇宿題を忘れた
〇掃除なのに適当にやっていた
〇授業中に関係のない会話をした

くらいで、叱ることはしません。

学校教育は大きく2つのやり方があります。
「叱る」教育と、「叱らない」教育です。
そのうち、わたしがとるのは、「叱らない」教育だ、ということです。

「・・・↑という感じで進めたいんだけどね。どうでしょうか。先生方の忌憚のない意見を聞かせてください。年度の初めだからこそ、もとのところを確認して進めたいのです」

みなさん

「基本、叱らないでいきましょう」

だって。

どうなってんの?


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