.
テレビ局は、「中立の立場」をとることに、なっている。
この、・・・ということになっている、というところが、情報リテラシーの肝心かなめの部分。
実は、・・・ということになっている、(けれども、そうなっていないこともある)、ということが、情報リテラシーの学習で、いちばん大事。
過去に、TBSというテレビ局が、「町の声」として、「いつもでる町の人」を使ったことがあった。
映像を見ると、芸能人の事件の時になると、なんだか何回も出てくる女性の人がいて、その人が今回もインタビューに出ている。
そして、いわゆる適切な、・・・ということになっている、「町の声」を代弁していた。
これは、TBSの下請けのニュース制作会社が、表向きは、時間をかけて事実実態を報道する・・・ということにして、実際には、役者さんを雇ってセリフを言わせることにより、短時間で仕事を済ませていた、ということなのだが、それを、いかにも
「たった今、ふつうに街を行く人に、たまたまインタビューしたのです」
・・・ということにした、というあたりが、まあ、問題と言えば問題だ、ということで、当時はずいぶん、このことが問題視された。
さて、小学校でふつうに情報リテラシーの授業をするときは、最初に、
「ネットでは、それぞれの人が真実を語っている、ということになっている」
という命題を学習する。
それは同時に、
「・・・ということになっているが、その真偽のほどは定かではない」
ということである。
これを習うから、リテラシーの授業をやった後は、かなりの程度、人間不信、あるいは情報不信に陥る。
「先生、ネットの書き込みってうそばっかりなの?」
というから、
「いや、本当、ということになっているだけで、本当かどうかは、だれにも分からないんだ。本当に本当かもしれないし、嘘かもしれないし、一部の人には本当かもしれないし、またちがう立場の人には嘘かもしれない」
と答えている。
すると、子どもたちは、とても不満そうである。
「なんで、本当のことを言わないの?」
なるほど、至極もっとも。
「いや、本当かもしれないしね。もっともっと調べてみないと分からない、ということもあるし。また、調べてみても分からないことがたくさんある。時間が経てば、本当になる場合もあれば、時間が経つと、うそになる場合もある。ほら、STAP細胞って、あったでしょう?」
ここまでいうと、子どもたちは
「・・・じゃ、もう、いいよ。なんか、情報リテラシーって、つまんないね」
と言う。
もう、情報にはつきあいきれない、ということらしい。
テレビの街角インタヴューは、たまたま街を歩いている人に、質問してる・・・ちゅうことに、なっておる。
個人情報は漏らされない・・・ちゅうことになっておる。
NHKは中立・・・ちゅうことになっておる。
中国が尖閣諸島を狙っている・・・ちゅうことになっておる。
プーチンは理由もなく善人を攻撃した悪人・・・ちゅうことになっておる。
アメリカは正義でいつも正しいことをしている・・・ちゅうことになっておる。
北朝鮮は核開発をしている・・・ちゅうことになっておる。
こうしてみると、
・・・ちゅうことには、一応、なっているんだけれどネ・・・
という感覚が、アタマの中を、勝手によぎるように、なります。
つまり、ほとんど、世の中のことは、分からない、ということが事実ではないだろうか。
・・・で、問題なのは、人間はみんな、「分かりたい病」にかかっていて、「分からない」という状態が、とても苦手だ、ということ。
みんな、目前の世界のことで、いっばい、いっばいだから、早く立場をハッキリさせないと、現象面のことで右往左往してしまう感じがあって、耐えられないのだろう。
しかし。
これからの時代は、「分からない」ということが平気だ、と言う人間がもっとも強いのではないか。
おそらく、この「分からないという感覚」をずっと長く保てる人が、もっとも客観的で、もっとも冷静で、もっとも多角的な視野を保てるだろうから。(情報無視とかじゃなくてね。無視もまた苦しいだろう)
情報弱者という言い方もあるが、情報収集量が少ない、ということではない。すぐに全体像が分かった、あるいは自分には分かる能力がある、と思ってしまう思考のことを「情報に弱い」というのだろう。
先日、タモリさんが18日夜、ロシアのウクライナ軍事侵攻を伝えたテレビ朝日系の報道番組「タモリステーション」で、番組冒頭のあいさつから1時間以上“沈黙”を貫いた。
タモリさんは、終了間際に「一日も早く平和な日々がウクライナに来ることを祈るだけですね」とコメントした。
これ以外に何も発言しなかったことについて、賛否両論あるらしく、ネットでもマスコミでもあれこれと話をしている。
なぜこのタモリさんの行動がいまさらながらにピックアップされているかというと、
「分からないことは分からない。ただ一つ、自分が平和を願っていることだけが確か」
という、あまりにも当たり前の姿勢を、なんの粉飾も、飾り立てもせず、タモリさんがごく自然にとったからだろう。
そして、そのことに、改めて多くの人がハッとなり、「初心にかえった」からではないだろうか。
知らないこと、分からないことを、そのまま「分からない。知らない」とできる強み。
これこそが、小学生が身につけるべき、情報リテラシーの根幹でありましょう。
そして、全国の教師は、「いまだ知りえず」ということに勇気を持たなければならない。
いちばんやっちゃいけない教育の根幹は、
「嘘を教える」
ことであり、まだ分からない、まだ知らない、ということについて、
教師は命をかけても、必ず、ぜったいに、知ったかぶりをしては『断じて』ならない。
※情報リテラシーの意味
「情報を活用する創造的能力」のことを指し、情報手段の特性の理解と目的に応じた適切な選択、情報の収集・判断・評価・発信の能力、情報および情報手段・情報技術の役割や、情報による影響に対する理解など、“情報の取り扱い”に関する広範囲な知識と能力のことをいう。」(By 情報マネジメント用語辞典)
テレビ局は、「中立の立場」をとることに、なっている。
この、・・・ということになっている、というところが、情報リテラシーの肝心かなめの部分。
実は、・・・ということになっている、(けれども、そうなっていないこともある)、ということが、情報リテラシーの学習で、いちばん大事。
過去に、TBSというテレビ局が、「町の声」として、「いつもでる町の人」を使ったことがあった。
映像を見ると、芸能人の事件の時になると、なんだか何回も出てくる女性の人がいて、その人が今回もインタビューに出ている。
そして、いわゆる適切な、・・・ということになっている、「町の声」を代弁していた。
これは、TBSの下請けのニュース制作会社が、表向きは、時間をかけて事実実態を報道する・・・ということにして、実際には、役者さんを雇ってセリフを言わせることにより、短時間で仕事を済ませていた、ということなのだが、それを、いかにも
「たった今、ふつうに街を行く人に、たまたまインタビューしたのです」
・・・ということにした、というあたりが、まあ、問題と言えば問題だ、ということで、当時はずいぶん、このことが問題視された。
さて、小学校でふつうに情報リテラシーの授業をするときは、最初に、
「ネットでは、それぞれの人が真実を語っている、ということになっている」
という命題を学習する。
それは同時に、
「・・・ということになっているが、その真偽のほどは定かではない」
ということである。
これを習うから、リテラシーの授業をやった後は、かなりの程度、人間不信、あるいは情報不信に陥る。
「先生、ネットの書き込みってうそばっかりなの?」
というから、
「いや、本当、ということになっているだけで、本当かどうかは、だれにも分からないんだ。本当に本当かもしれないし、嘘かもしれないし、一部の人には本当かもしれないし、またちがう立場の人には嘘かもしれない」
と答えている。
すると、子どもたちは、とても不満そうである。
「なんで、本当のことを言わないの?」
なるほど、至極もっとも。
「いや、本当かもしれないしね。もっともっと調べてみないと分からない、ということもあるし。また、調べてみても分からないことがたくさんある。時間が経てば、本当になる場合もあれば、時間が経つと、うそになる場合もある。ほら、STAP細胞って、あったでしょう?」
ここまでいうと、子どもたちは
「・・・じゃ、もう、いいよ。なんか、情報リテラシーって、つまんないね」
と言う。
もう、情報にはつきあいきれない、ということらしい。
テレビの街角インタヴューは、たまたま街を歩いている人に、質問してる・・・ちゅうことに、なっておる。
個人情報は漏らされない・・・ちゅうことになっておる。
NHKは中立・・・ちゅうことになっておる。
中国が尖閣諸島を狙っている・・・ちゅうことになっておる。
プーチンは理由もなく善人を攻撃した悪人・・・ちゅうことになっておる。
アメリカは正義でいつも正しいことをしている・・・ちゅうことになっておる。
北朝鮮は核開発をしている・・・ちゅうことになっておる。
こうしてみると、
・・・ちゅうことには、一応、なっているんだけれどネ・・・
という感覚が、アタマの中を、勝手によぎるように、なります。
つまり、ほとんど、世の中のことは、分からない、ということが事実ではないだろうか。
・・・で、問題なのは、人間はみんな、「分かりたい病」にかかっていて、「分からない」という状態が、とても苦手だ、ということ。
みんな、目前の世界のことで、いっばい、いっばいだから、早く立場をハッキリさせないと、現象面のことで右往左往してしまう感じがあって、耐えられないのだろう。
しかし。
これからの時代は、「分からない」ということが平気だ、と言う人間がもっとも強いのではないか。
おそらく、この「分からないという感覚」をずっと長く保てる人が、もっとも客観的で、もっとも冷静で、もっとも多角的な視野を保てるだろうから。(情報無視とかじゃなくてね。無視もまた苦しいだろう)
情報弱者という言い方もあるが、情報収集量が少ない、ということではない。すぐに全体像が分かった、あるいは自分には分かる能力がある、と思ってしまう思考のことを「情報に弱い」というのだろう。
先日、タモリさんが18日夜、ロシアのウクライナ軍事侵攻を伝えたテレビ朝日系の報道番組「タモリステーション」で、番組冒頭のあいさつから1時間以上“沈黙”を貫いた。
タモリさんは、終了間際に「一日も早く平和な日々がウクライナに来ることを祈るだけですね」とコメントした。
これ以外に何も発言しなかったことについて、賛否両論あるらしく、ネットでもマスコミでもあれこれと話をしている。
なぜこのタモリさんの行動がいまさらながらにピックアップされているかというと、
「分からないことは分からない。ただ一つ、自分が平和を願っていることだけが確か」
という、あまりにも当たり前の姿勢を、なんの粉飾も、飾り立てもせず、タモリさんがごく自然にとったからだろう。
そして、そのことに、改めて多くの人がハッとなり、「初心にかえった」からではないだろうか。
知らないこと、分からないことを、そのまま「分からない。知らない」とできる強み。
これこそが、小学生が身につけるべき、情報リテラシーの根幹でありましょう。
そして、全国の教師は、「いまだ知りえず」ということに勇気を持たなければならない。
いちばんやっちゃいけない教育の根幹は、
「嘘を教える」
ことであり、まだ分からない、まだ知らない、ということについて、
教師は命をかけても、必ず、ぜったいに、知ったかぶりをしては『断じて』ならない。
※情報リテラシーの意味
「情報を活用する創造的能力」のことを指し、情報手段の特性の理解と目的に応じた適切な選択、情報の収集・判断・評価・発信の能力、情報および情報手段・情報技術の役割や、情報による影響に対する理解など、“情報の取り扱い”に関する広範囲な知識と能力のことをいう。」(By 情報マネジメント用語辞典)